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ロエッタ・バショカフ

 ジンの「光の魔術と闇の魔術学」では、ふたたびおっくうな座学に戻り、だれも彼もが不満そうに黒板を眺めている。

 けれど、シキとしては魔獣と遭遇するような危険を冒すよりも、椅子にへばりついているほうがまだましに思えた。

 シムル・エーレーンとフェイメルも同じように考えているだろうか?

「――で、悪魔は人間の心の隙間に入り込み、誘惑し、堕落させる。闇の魔術に魅入られる人間というのは、すべてが異常じゃない。どんなに清廉せいれんな魂を持っている人間だとしても、連中はわずかなひずみを見逃さない。闇の魔力は強力だ」

 教科書を使わないジンの授業にも、それなりに慣れてきた。もちろん、彼女が黒板に描く悪魔らしき奇っ怪な絵はべつとして。

「闇の力に打ち勝つには、なにが必要だ?」

 シキの斜め前の席から手が挙がる。

 だれかが答えなければいけない状況で、こうしていつもユーリが窮地を救ってくれていた。クラス中がかげで英雄とたたえていることを、本人はまったく知らない。

 それを見たジンは意地の悪い笑みを口もとに含ませ、学年首席へ手を下ろすように指先ひとつで指示をした。

「……おい、リンデル。答えてみろ」

 いきなり名指しされ、隣の席でうたた寝をしていたウルトが飛び起きた。

「えっ? えーっと……」

「ヒントをやる。おまえはほかの生徒より、それをたくさん持ってる」

 シキの見るかぎり、彼女の表情からは解答に困っている生徒へ手を差し伸べるような、慈悲深いものは一切感じない。

 助けを求める友人の視線を、シキはすげなくそらした。

 心のうちでごめんとつぶやく。

 答えがわからないのと、二次災害をおそれて、シキは無慈悲に沈黙した。

「ええと……オレにたくさんあるもの……うーん、やっぱ……知性?」

 いつになく真顔のウルト。

 もちろん、本心からの回答だ。

「すばらしい答えだ、リンデル。けど惜しいな、正解は勇気だ」

「あちゃーそっちか! やっぱりなぁ! 知性と勇気、どっちか迷ったんだよ。センセーはよく分かってるよね!」

 いつもの騒々しい笑い声に、教室の温度が急速に下がってゆく。

 シキはいたたまれなくなって、見たくもない教科書に視線を落とした。

「……そう。オレの授業でうたた寝できるなんて、多大な勇気がなきゃできねぇよなぁ? あとで宿題たっぷりくれてやるから、よろこべよ……!」

 とうとう、ジンの凶悪な眼光が獲物を捕らえた。

 蛇に睨まれた蛙とはこのことだ。今度はウルトが虚ろな目で沈黙する番であった。

 かまわずジンがつづける。

「闇に打ち勝つには命知らずの勇気じゃなく、恐れを断ち切り、魂を奮い立たせるための勇気が必要だ」

 一言一句に強い呪力を込めたような低い声だけが、静寂の教室内を支配する。

「忘れんなよ、勇気を出せ」

 だれかのごくりとつばを飲み込む音が、シキの耳の奥深くにみこんだ。


 キャメロット生のだれもが先週の事件を尋ねることができないまま、授業の終わりを告げる鐘が鳴った。


 やっと休憩時間になって、鬱屈うっくつした空間から開放されたクラスメイトたちはみな、晴れ晴れとした表情を浮かべている。

 その例外はシキだった。

 課外授業の日からずっと、頭のなかに棲みつくわだかまりが取れずにいた。

 初めて人間の敵である悪魔(キリクは別として)と出会って、疑問を抱いた。


 ――やっぱり匂いがヘンだ。


 あの悪魔の、胸が悪くなるような気配。

 たとえようのない匂いだった。

 なにかが焼け焦げたようなにおいにも感じたし、薄暗い森のさらに深く、湿った空気のにおいにも思える。

 ところが、なぜかジン・ホランドとフェイメルにも同じような気配を感じた。

 もちろんまったく同じではないし、フェイメルのほうはジンと比べるともっと薄い。


 それでも、やっぱりヘンだ。

 フェイメルは森で悪魔に襲われたから?

 じゃあホランド先生も悪魔と接触したんだろうか?

 それともふたりは悪魔となにか関係があるとか?

 わからない。

 でも、きっとこれは僕しか気づいていないはず。

 だって、僕はほかのみんなより、少し、変わっているから――


 そこまで考えてシキはかぶりをふった。

 考えたところで本人たちに聞かない限り答えは出ない。だから、考えることをやめた。

「シキィー! 昼メシおわったらつぎ、多目的室だぜ! 早く荷物置いとかねーと、うしろの席取られるぜーっ!」

 現実に戻るには、ウルトの呼ぶ声だけで十分だった。



 その日最後の授業となる五時間目。

 本鈴が鳴り響くなか、「講義用多目的室」の扉が勢いよく開いた。そこへ、どすどす床を揺らしてひとりの大男が入ってくる。

「よーう、キャメロットのガキンチョども。きょう休みの魔術史・歴史Ⅰ担当マース先生に代わって、俺が代理を務める。文字方陣学もじほうじんがく担当のロエッタ・バショカフだ! 二年から文方学は必須科目になるからなぁ、よーく、俺の顔と名前を覚えておけよ!」

 男はがはは、と豪快に笑った。

 太鼓を激しく打ちつけたような、腹にズンズン響く声がきゅうくつな教室をふるわせる。

 午後一番の授業はもっとも眠たくなるもので、なおかつ歴史Ⅰの担当教諭、マースの授業はなかなかつまらないことで有名だ。

 だが、どうだろう。きょうはあくびをするどころではない。

 教壇に現れたバショカフ教諭はひげ面の大男で、しかも筋骨隆々。なおかつ素手で魔獣さえも倒してしまいそうな迫力がある。

 いかつい体格でまとうローブは、きっと特注品だろう。

 キャメロットの生徒四十名は、ぐっと口をつぐむほかなかった。

 ここであくびやおしゃべりをすれば、どんなに巨大なたんこぶができるだろう。

「ふん、優秀じゃねぇか! ひとの話をちゃんと聞ける奴はおらぁ大好きだぜ。ようし、教科書八十二ページからだったな、ああ、開かんくていい。書いてあることをしゃべるんじゃ意味ねぇからなぁ!」

 またもやがははと笑い、生徒一人ひとりの顔を眺める。

 うなずいてバショカフは口を開いた。


「世界に史書が出たときにゃ、すでに北国の黒竜王は『五竜のなかで最も偉大な竜王』ってな具合で記述されていた。現在刊行されている数万冊の歴史書ぜーんぶに、そう載ってある」

 バショカフは閉じた教科書を教鞭でつついた。

「五つの国は、それぞれ五頭の竜王が統治する。竜王とは、絶対的な支配力を持って生まれるわけだ。影響は悪魔達にも及ぶとされとる。地獄の三王を除く、生物のてっぺんに立つ生き物であり、天候を自在に操ることのできる唯一無二の存在っちゅうわけだ。目覚めた瞬間から天地のことわりを知り、叡智えいちに富み、国を動かす術を持つ――」

 いっぺんに話して、教室をぐるりと見渡す。

 残念ながら、シキは難しい語彙ごいにぽかんとせざるをえなかった。

 バショカフは容赦なく続ける。

「人間は竜王の前でけっして逆らうことができねぇもんだ。おまけに、人間やふつうの悪魔の魔力じゃあ、竜王を傷つけられねぇ。まあ、セルカークの光はべつだけどな」

 シキの脳裏に、先週の授業が思い起こされる。ジン曰く、セルカークの光をたくさん集めて束ねることができれば、竜王を倒すことも可能らしい。

「幻獣と精霊の力は魔力じゃねぇから、竜王にも影響するんだ」

 あんな変哲もない光が武器になるなんて……。

「ようするに、魔法および魔術はまったく効力がねぇ。竜王はそれらの力を持たねぇが、特別な炎を扱える。地獄の王と同じ性質たちで、万物を焼くことができる、すげえ力だ」

 竜王、というものがいまいち理解できないシキにとって、バショカフの話は本のなかの物語のようだ。ようするに、現実味がわかないのだ。

「竜王が復活する巣も、特別な力で守られているっちゅう話だ。秘境にあるそうだが、場所はだれにもわからねぇ。伝説みてぇな話だぜ」

 バショカフがふと思いついたように、バチンと指を打った。

「伝説といやぁ、竜王の『血』が入った小瓶は秘宝ともいわれる。その昔、人間が戦争まで起こすほどの恐るべき災いの種だった。まあ、実際いま、そのお宝があるかどうかなんて、だーれもわからねぇがな」

「……『血の小瓶』のことかな」

 クラスメイトのだれかがささやく。

「伝説の秘宝だろ? それを手にした者は不死と莫大な富を得る、って……」

「私は飲めば狂ってしまう劇薬って聞いたよ……」

「魔法司法省に隠してあるって噂だぜ……」

 シキの周囲でひそひそ話がちらちら聞こえた。

 バショカフが咳払いをしたので、教室はふたたび静けさをとり戻す。

「北国は現在百と三年、竜王不在という不遇のさなかにある。王城に明かりさえ戻りゃぁ、人間は飢えと寒さで死ぬことが少なくなる。なにせ、竜王は天候を自在に操れるからな。けど、いまや天候は荒れ、光は閉ざされたままだ。おかげで一年をとおして気温が低い。だから餓死と凍死する人間があとを絶えねぇ」

 バショカフは悲しいことよ、と目を伏せた。

「どんなに最悪の竜王だろうが、いなきゃ人間が生きていけねぇのさ」

 声の調子に変わりはないが、教卓に乗せた拳がわずかにふるえている。

 屈辱めいた怒りがそうさせているのだと、赤銅色の目を盗み見てシキは気づいた。だが、なぜ彼が怒りに震えているかまでは、シキに知るすべはない。


「……竜王は生まれた直後に自らの翼で居城へ降り立つ。黒竜王が目覚めるとき、それから滅びるとき、城に吉鳥きっちょうが現れて鳴くっちゅう仕組みだ。名前がわかるやつはいるかい?」

 意気揚々と手を挙げると同時に、底抜けに明るい声が隣からあがった。

「はいはーい! ファルケスっしょ」

 ウルトのひと声で、教室の空気ががらりと変わる。

 バショカフの口ひげがにんまりと持ちあがった。

「おう、威勢がいいな、ボウズ。そのとおりだ! 吉鳥の名前は期末試験に出やすいから、覚えておくこったな!」

 がはは、と笑う声につられて、ようやくあちこちからおしゃべりがわいた。


 話し方はずいぶん乱暴で、授業も型破り。悪く言えば粗野そや。けれど、きちんと話さえ聞いていれば、恐れる必要はどこにもなかった。

 ロエッタ・バショカフ教諭は、見た目こそ魔獣のようだが、とても快活な人柄で親しみやすい。

 ただボソボソ喋るだけのマース先生に代わって、今後も来てくれたらいいのに、などと考えているのはシキだけではないらしい。クラスメイトの多くがバショカフを好意的なまなざしで見つめている。 

「吉鳥は五国によって呼び名がちがう。東ではキンレイ、西ではツヴァー、極ではダン、南ではゾル、北ではファルケスっちゅう具合だ」

禽麗キンレイ……」

 シキは懐かしい響きを、知らず声に出していた。

 東国には吉事を知らせる国鳥、禽麗がいる、と父が語ってくれたのをシキは思い出した。

 その禽麗を一度だけ見たことがある。紅とも黄金ともつかないきらめく両翼が砂漠の上空を滑空したとき、父はこう言った。

「東国の竜王が逝去せいきょしたんだろうな」

 逝去、という言葉と意味を当時はわからなかったけれど、いまは理解している。

 父の横顔が悲しそうだった理由も、いまなら、理解できる。


 ぼんやり懐旧の情に浸っていると、大砲のような炸裂音ではっとわれに返った。

 バショカフが教鞭を一方の手のひらに打ちつけた音だった。


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