忘れ物呪い
職員室の扉を開けた途端に、シキはしりもちをついたあげく、そのまま無残にひっくり返ってしまった。
どうやら居合わせただれかとぶつかってしまったようだ。そもそも、早朝六時にだれかいるなどまったくの予想外で、勢いよく踏み込んだことが原因だった。
「いってー……あっ!」
はっと思い出し、あわてて頭の上に手を伸ばす。
「よかった……潰しちゃったかと思ったよ」
ほっと胸をなでおろしたそのとき、シキはわれに返って正面をそろりと見上げた。
冷たい視線が滝のように落ちてくる。
仁王立つ人物は、眉間にしわを寄せたジン・ホランド教諭だ。凶悪な魔物さながらの気迫がビシビシ感じられる。
こわっ。
正直な感想を口に出さなかったことは、まさしく賢明な判断だった。
「あの、すみません。前を見ていなくて……」
できるかぎり、誠意を込めたふうに繕う。もちろん、凄まじい剣幕のジンに通じるかどうかは、わからない。
「気をつけろ!」
一喝すると、彼女は肩をいからして職員室を出て行った。そのうしろ姿を目で追う。
ここまで邪険にされると、悲しさをとおり越してこみ上げてくるのは、憤りだ。
「なんだよ、あの先生。僕はちゃんと謝ったのに!」
「おや、シキ。大丈夫ですか?」
すっと横から差し伸べられた手には、凶暴な女教師にはない、思いやりが含まれていた。
「どうやらあの一件以来、目の敵にされてしまいましたね。私なんか、話しかけても返ってくるのは罵詈雑言ですよ!」
ははは、と軽快に笑うキリクは怒るどころか、彼女の態度を楽しんでいるようだ。
「それはそうとシキ、なにを乗せているんですか?」
シキの黒髪の上にちょこんと乗った生き物を指さして、キリクの笑顔がひきつった。
頭の上には手のひら大の、やけに耳が短いウサギが乗っかっているのだ。黄土色の毛のせいで、むしろ太ったねずみに見える。
その妙な生き物はあわててシキの胸ポケットに飛び込んだ。
「保健室で目が覚めたとき、見つけたんです。気がついたらベッドに潜り込んでて……人懐っこいやつだし、ユーリがいうにはほとんど無害だろって。きっと森からついてきたんじゃないかって話してたんですけど……飼っちゃだめですか、先生?」
キリクの顔色がさっと変わった。心なしか青ざめているようだ。
「……無害、ねえ。たしかに無害といえば無害。けれど、いくら小さい生き物だとしても、学校内で定められた魔獣以外を飼ってはいけませんよ」
上品な手つきで胸ポケットに隠れるウサギをつまみあげると、キリクはため息を落とした。
ウサギは手足をばたつかせ、懸命に抵抗を試みる。
「それに、浮気なんてしたらリュゼに怒られますよ?」
「う、浮気じゃないですよ! リュゼは一番の友達でそいつはペットみたいな――」
あ、と手を伸ばすシキに、キリクがチッチッと軽く指をふった。
「私が預かります。もう変なものを拾わないで下さいね、シキ。それと、手伝いの件ですが、西側の見晴し塔へのぼって朝日を集めてきてほしいのです。今日は一年にあるかないかの、晴れ時々くもりですからね。私は東側の見晴し塔へ行きます。瓶いっぱいに光が集まったら戻ってきて結構ですよ。朝日には闇の魔力を減退させる力があるのです。では、任せましたよ」
キリクはいっぺんに言って、ぱちりとウインクで合図する。そうしてシキが二の句を次げないように、小瓶を握らせた。
「さて、いそいで終らせてしまいましょう――おっと、また忘れていくところだった……」
キリクが自分の机に手を伸ばす。
ぽつんと置き去りになっていた愛用の教鞭を取り上げ、やれやれとため息をついてマントの内側にしまった。
それからつまんだウサギをちょっと持ちあげ、一瞥する。
するとどうだろう、いままで暴れていたのが嘘のようにぴたりと動きを止めた。
蛇ににらまれた蛙さながらの光景だ。
シキが懇願する間もなく、無情にもキリクは魔法で姿をくらました。
ひとり取り残されたシキの胸の奥に、ほんの少し寂しい気持ちがわいた。
リュゼのぬくもりが懐かしい。
「ちぇっ、けっこうかわいいヤツだったのにな」
職員室を出てからほどなくして、背後でだれかの足音がバタバタと響いた。
シキがのろのろ首を回したとき、すでに人影は職員室の扉に吸い込まれていた。
「忘れ物でも取りに来たのかな?」
そういえば、キリク先生も忘れ物をしていったけ。
*
「まったく、油断も隙もない」
だれにともなくつぶやかれた言葉に、首の皮をつままれた生き物はびくりと体をゆすった。
「さて……このまま校内をうろつかれても目障りですし……いっそ焼き殺してしまいましょうか?」
キリク・パーシヴァルの碧眼が動いた。冷徹さと冷酷さを混ぜた色を浮かべて、手中のウサギの小さな目玉を油断なく見つめる。
ウサギは丸焼きを想像したのか、全身がわなわなふるえだした。
そして、無慈悲な視線から逃れるように、魔法でぱっと姿をくらました。
キリクは手袋についた毛を払い落とす。
「さすがはブラッドの部下、意気地がないことだ……。変身魔法とはくだらない真似をする。よりによってシキと一緒のベッドで寝るなんて悪趣味もいいところだ……モリスめ!」
ぞわっと全身が粟立った。
*
朝は多くのゴーストが校内を徘徊し、楽しげな声があちこちに響いていた。
小瓶を握って渡り廊下を走り、階段を急いで駆け上がる。
スピードが落ちてくると、心優しいゴーストが背中を押してくれるのだが、実体が無いため、シキの体をすりぬけてしまうのが彼らにとって難点であった。
けれど、その心遣いがうれしくて、シキは走る足を止めなかった。
「すごい! ちゃんとした太陽なんて、何年ぶりだろう」
やっとたどりついた塔のてっぺんで、シキは金色の朝日を目の当たりにした。隣には双子の月がくっきり浮かびあがっている。曲線を描いた三日月がなんとも美しい。
時折、薄い雲が光を遮りはするものの、それでもじゅうぶん体の内側があたたかかった。
見晴らし窓のへりに小瓶を置くと、光の粒がさらさら音をたてて瓶のなかに納まっていった。
「これも魔法の瓶なのかな」
光が満杯になるまでぼんやり外の景色をながめていたとき、本校舎の屋上にジンの姿を見つけた。いやな奴を見つけてしまったと後悔し、目をそらした直後――。
不意に強烈な殺気が匂いとして伝わってきた。
シキの背後に影が落ちる。はっとふり向けば、凶悪な牙を覗かせる巨躯の獣――魔獣ベルクルが、低いうなり声をあげて前肢をひっかいている。
まさか、僕を丸飲みにするつもりじゃ――。
突然、もうひとつ殺気を背後に感じて、ふたたびふり返る。
そこには予想していた人物が仁王立ちしているではないか。
どうやって一瞬で移動をしたのかは、魔術師の前では愚問だろう。
「ホ、ホランド……」
「“先生”をつけろ!」
硬直するシキに雷が直撃する。
ジンは大きなため息を吐き出した。
「なにか気配を感じると思って飛んで来てみりゃおまえかよ! 紛らわしいんだよ、ったく。で、なんで朝っぱらからこんな所にいる?」
「……キリク先生の手伝いです」
「クソッ! またあいつか。オレの邪魔すんの何度目だよ」
「あの、ホランド先生はなんで朝から屋上に?」
「見張りに決まってんだろ――っておまえが知る必要ねえよ! オラッ、手伝いとやらが終ったんならとっとと戻れ!」
ジンが犬でも追い払うように、シッシッと手をふった。
ベルクルの横を通るときに、頭からガブリと食べられないようにそっと両腕で防御を――ほとんど無意味である――してみた。真っ赤な視線が階段を下りるまで追いかけてきた。
朝日をたっぷり吸い込んだ小瓶をポケットにしまいこんで、また長い階段を、くだる。
一時間目の授業が始まる十分前に、シキはキリクの教務室の扉を叩いた。
扉がキィ、とひとりでに開く。
「先生、持ってきました」
「ありがとう、シキ」
「そういえば、西塔でホランド先生に会いました。見張り、っていってましたけど……」
尊大で横柄で横暴なあのホランドの言葉だ。そのまま信用なんてできるわけがない。
ふむ、とキリクはあごに手をやり少し考え込んでから、シキの目をのぞき込んだ。
「これは秘密ですよ」
人差し指をくちびるにあてて、声をひそめてささやく。
「彼女は学校に迫る脅威を未然に防ぐため、警護しているのです。すべての生徒が寝静まったときから、校内外、すべてです。先日は友人のフェイメルが襲われたでしょう? ですから、いつもよりは殺気立っているようですが……」
「えっ?」
あのガラの悪い先生が本当に見張りを?
つい、そう口にしたくなる気持ちをおさえて、キリクの青い目を見つめ返した。
「いま、この学校には不穏な影が忍び寄っています。事態が悪化しないよう、校長先生の命令で彼女は動いているのです。だから、疑ってはいけませんよ」
うなずかずにはいられない、静かで、それでいて強い口調だった。
朝、職員室から出てきたジンと鉢合わせたのはそのせいだろうか。
「先生……あの課外授業のとき、いったいなにが起こっていたんですか? フェイメルを襲ったのはなんですか?」
「……いまは、いえません……それに、ホランド先生のように優秀な先生がきみたちを守ってくれています。さ、そろそろ行かないと、授業に遅れますよ」
キリクはやんわりと退室を促した。
はっきりとした説明がないことにもやもやしつつも、あのジン・ホランドが生徒のために警護をしていたことはあまりにも意外で、胸の中が落ち着かなかった。
もしかすると、僕が思っているほど悪い先生じゃないのかも、しれない――。
ぼんやり考えてシキは教務室を出た。
一時間目の授業はジン・ホランドの「光の魔術と闇の魔術学」である。
*
ブーツの重たい音が廊下に響く。出席簿だけを片手にジンは生徒達の待つ教室へ向かっていた。
彼女は窓際に背を預けて立つ人物をじろりとねめつけた。
「パーシヴァル……なにか文句でも?」
「いいえ」
にこりと、口角だけをあげた作り笑いを互いに交わす。もちろん、目は笑っていない。
「ただ、二言三言、申し上げたくて。教師が校則違反とは、いただけませんね」
「校則は生徒にあるもんだろ?」
ジンがせせら笑う。
「……どうやら昨日のうちに、一部の先生たちに『忘れ物呪い』がかけられていたみたいです」
「だから?」
「とうとう職場の嫌がらせも悪質になったものだなぁ、と思いまして。まあ、私の大事な持ち物なんて教鞭くらいですけど」
「なんなら今すぐ辞職でもしたらどーだ?」
ジンの声が弾む。これはどうやらジョークではなく、本気の提案らしい。
「残念ながら、可愛い生徒たちを残して辞めるわけにはいきませんからね」
「あっそ。そりゃあご立派」
「ああ、それはそうとホランド先生。すり替えたこと、あの人に気づかれないよう、お気をつけて」
ジンが片眉を上げた。キリクは相変わらず偽物の笑みを貼り付けている。
「……ハッ。おまえにいわれるまでもねーよ」
ふん、と鼻を鳴らしたジンが、キリクの脇をとおり抜けていく。
強い信念をみなぎらせるうしろ姿は、曲がり角ですぐに見えなくなってしまった。
キリクはおもむろに懐から取り出した自分の教鞭を見る。
『忘れ物呪い』は、大事にしている物をひとつだけ『忘れ物』してしまう子供だましの魔法で、数年前に生徒たちのあいだで流行った遊びのひとつであった。
この魔法は授業にずいぶん悪影響が及んだために、いまも使用禁止となっている。
高度な領域魔法で封鎖していた朝の職員室で、ジンが手に入れたもの。
それは、黒い竜の足元に三本の剣が交差する、軍人に与えられる北国国軍紋章が描かれたバッジ――。
国軍、悪魔、そして魔法学校に潜入したスパイ。
「きっと貴女ならこの三つを繋げて答えにたどりつけるでしょう、ジン・ホランド先生……」
微笑をたたえたまま、キリクは二年アバロンの生徒が待つ教室に足を運んだ。