答えあわせ
うっすらまぶたを開けると、そこはまっ白な天井だった。
シキはすべての感覚が戻るまで、しばらくまばたきを繰り返した。
「ここは……」
「学校の保健室ですわ」
女の子の涼やかな声が、すぐ隣から聞こえた。
首だけ動かすと、隣に並んだベッドに足を崩して座るフェイメルの姿がある。
まるでふわふわした綿布の上に置かれた美しい人形のようだ。ほんの少しのあいだ、目の前にいるのが友人だということを忘れて見惚れていた。
「フェイメル……どこか、怪我はしてない?」
「はい。このとおりですわ」
両手を広げて薄くほほえむフェイメル。その様子にシキはほっと胸をなでおろした。
「でも、ごめんなさい、わたしのせいでシキ君に怪我をさせてしまって……」
「違うよ、フェイメルのせいとか、そういうんじゃない! 気にしないで。僕はほら、なんともないから」
シキはベッドから跳ね起き、お返しに両手を広げて、極力明るく振舞ってみせた。
「フェイメルはなにも悪くはないよ、あれはぜんぶ――」
そうはいっても、記憶がぼんやりしていて、シキ自身どうなったのかがさっぱりわからない。グールが襲いかかってきたとき、頭に血が昇ってそこからよく覚えていないのだ。
けれど、フェイメルが無事に学校に戻ってこれて、しかも、自分に命があるということはだれかが解決してくれたのだろう。
きっと先生達が助けてくれたにちがいない。
そう、結論づけることにした。
「シキ君、ありがとうございます」
フェイメルがシキの手をとっていう。
「ほんとうに、ごめんなさい……わたし――」
藍色の目に、じわりと涙が浮かんだ。
「だいじょうぶだよ、フェイメル」
シキはそっとささやき、涙をためて小さくなるフェイメルを勇気づけるように、にっこり笑う。
「全然、だいじょうぶ。ね?」
「……はい」
すると、フェイメルにいつものやわらかな微笑が戻って、シキはやっと安堵のため息をつくことができた。
「ねえフェイメル、僕、もう少し寝たふりして授業をさぼろうと思うんだけど」
「わたしもとなりで寝たふりをしていても構いませんか?」
才色兼備で授業に真面目なお嬢様からのまさかの発言に、シキは目をぱちぱちさせた。
それから、ふたりは顔を見合わせてくすくすと忍び笑いをこぼす。
保健室の窓から、めずらしく夕暮れの明るい光が差し込んできた――。
*
針の森の襲撃事件から一晩明けた、早朝――。
「では、失礼します」
校長室のドアの前で一礼し、ユーリが退室した。
ぱたんと静かに閉じたドアは、内側からひとりでに施錠されて、室内にはガヴェイン校長とジン、キリクの三人が残った。
「なるほど、わかりました。今回は特別にお咎めなし、ということにしましょう。モルガーナ氏は娘が無事ならそれでよし、と寛容に仰ってくださったことを、ゆめゆめ忘れぬことです」
「……はい」
恩師からの忠告でなければ、ジン・ホランド教諭がこうもあっさり首を縦にふることは、まずない。
「今後このようなことが起こらぬよう、十分気をつけるのですよ」
「申し訳ありませんでした」
「ふむ……では本題にまいろう。ホランド先生、この一件、仔細に報告なさい」
執務机で両手を組むガヴェインは、穏やかな口調でそういった。
机の前で屹立するジンが従順にうなずく。
「昨日の課外授業の目的は、近ごろ校外で気配を殺して動き回る悪魔の排除と、その悪魔と内通しているであろう、人物の所在をはっきりさせるためでした」
「なるほど、内通者がこの魔法学校にいると確信していたわけじゃな」
「はい。いままで目立った動きはありませんでした。おそらく動けない状況にあると考えたほうが自然です」
もちろん、校内には腕の立つ教師たちばかりが在籍しているのだから、うかつに動くことはできない。
「けれど、仕掛けてくるのは時間の問題。明確な目的はわかりかねますが、学校の損害を狙ってのことでしょう。先手を打つ必要がありました」
「私の生徒たちを使わないでいただきたいものですね……」
キリクの横やりに、ジンは忌々しいと放言せんばかりに、舌を打った。
「悪魔と結託しているなら、早急に手を打つべきだろーが」
だが、もちろんキリクも黙ってなどいられない。
「魔獣だらけで、しかも闇の力の強い針の森を選んだのは、悪魔にとってちょうどいい場所を提供してあげた、ということですか。生徒たちを危険にさらしてまで?」
「リスクを背負わずに物事がすべて上手くいくわきゃねえだろ」
歯に衣着せぬものいいは、もはや率直をとおり越して、辛らつだ。
「はじめからフェイメル・モルガーナを餌にするつもりで、罠を仕掛けましたね」
「もしオレが悪魔で、この国の心臓を手中に収めたいと考えたら、司法省のお偉いさんの娘を洗脳して、侵入の手引きをさせる」
司法省の権力をもってすれば、どんな疑いもパスできることだろう。
「だから、ふつう一年じゃやらねぇ課外授業を、キャメロットにだけ用意したんだよ。おかげで校内に敵がいるって確定だ。ありがとうよ」
ジンが片眉をあげて、鼻で笑った。
「シムル・エーレーンとフェイメル・モルガーナ、それに、シキ・ヴァグナーはへたをすれば命を落としていたかもしれませんよ……!」
「オレがいるんだ、んなわきゃねぇだろ!」
両者の火花が激突した。
「おほん」
ガヴェインの棒読みの咳払いに、ふたりは絡みあった視線を渋々ほどいた。
「チッ……針の森での課外授業はブラッド教頭から許可をもらいました。もちろん、意図までは説明していませんが。内通者がだれで、どのように授業のことを知ったかはわかりません。ですが、罠を張る準備も早かったことから、もっとも疑うべきは課外授業の話をした教頭……を除いて、そのとき話に加わった三名――」
「悪魔学のコンスタンティン先生と、幻魔獣学のベルガモット先生、それに、文字方陣学のバショカフ先生……あの日、めずらしくにぎやかに話していたのは、このことだったのですね」
ちょうどキリクも近くにいたというのに、ジンの無視はかなり徹底していた。
ひとり蚊帳の外になったことを思い出す。
ぽつんと椅子に座る悲しさといったら、これに勝る精神攻撃はないのではないか。
「それと、あとは職員室にいたメメリコーレ、キエ、パーシヴァル。疑うことはしたくありませんが、全員疑っておくべきかと思います」
これにガヴェインがうなずいた。
なぜ私までもが疑われるのだ、とキリクは眉根を寄せて訴える。当然、その抗議は無言のうちに却下された。
さらにジンがつづける。
「針の森で、生徒を襲うような獰猛な魔獣はあらかじめ魔法で隔離していました。シムル・エーレーンを襲った魔獣は悪魔のしもべ、グールです」
いるはずのない魔獣が現れたその瞬間、敵は学校内にいると確定されたのだ。
「課外授業のことを知っていて、あらかじめ気配を遮断する領域魔法を仕込んでグールと悪魔を待機させておく。攻撃を仕掛けやすい校外、それも魔獣が多く存在する針の森に生徒たちが散り散りになることは、そいつにとって好機でしょう。だがそれはこちらの好機でもある。悪魔を仕留めるチャンスですから」
「仕留めそこねましたがね」
「うるせぇな、クソ悪魔!」
二度目の火花が散った。
「おーっほん。なるほど、学校内に悪魔と関与している人物がいるとなると、たしかに早急に手を打たねばなりませんね」
ガヴェインの賛同に、得意満面の笑みを浮かべたジン。
もちろん、それはキリクに向けたものだ。
「ただし、慎重に構える必要もあります。ふたりとも、喧嘩をしている場合じゃありませんよ。深手を負わせたとはいえ、悪魔の逃走を許してしまったのじゃから」
「ケンカじゃね――ありません……! その、取り逃がしたことは……申しわけありませんでした」
ジンがくちびるを噛む横で、キリクがふむ、とあごに手をあてる。
「あの臭い魔獣がおとりで放たれていたおかげで、ずいぶん時間を食いましたからね。それに領域魔法もなかなか高度で……あの悪魔も、それなりに力のあるほうでしたし。ただ、シキが現れたのは彼らにとって計算外だったはず。たった一人の生徒のおかげで、計画がパアになってしまったのですから。――あと一歩、惜しかった!」
ぱちんと指を鳴らすキリクにの脇腹に、ジンの肘がめり込んだ。
キリクが苦悶の声をあげてしゃがみ込むと、憎悪や嫌悪や軽蔑、それらをいっぺんに混ぜ合わせた視線が頭頂部に突き刺さってくる。
「てめぇ、どっちの味方だよ! いっとくけどな、オレはてめぇのことなんざ、まったく信用してねーんだからな! 下級だろうが悪魔のお前が同僚ってだけで虫唾が走るんだ!」
つばでも吐きかけそうな勢いでにらみつけるジン。
「それに! オレはシキ・ヴァグナーをまだ信用しちゃいねえ! あんなまるっきり魔力がないガキを入学させたうえに、色々と怪しいんだよ! じっくりしごかせてもらうからな……!」
懐かない山猫のような娘だ――キリクは威嚇してくる猫を見ている気分だった。むろん、ジンの啖呵はほとんど左から右へ流れていった。
「まあまあ、仲良くやっていくのじゃよ、ふたりとも。ではジン、よろしく頼みましたよ」
「……はい、先生。失礼します」
ガヴェインのひと言に背筋を伸ばし、ジンは校長室のドアノブを回して、出ていった。
鍵は、いつの間にやら外れていた。
ジンが退室してから、深いため息がせまい室内にくっきり響いた。
ガヴェインだ。
彼女は人差し指を壁際の椅子に向けると、それはふわりと浮かんで、キリクが座るにちょうどいい場所へ四つの脚を下ろした。
「彼女はじつに優秀ですね。すでに校内に悪魔の手の者が紛れ込んでいると感づいていて、あのタイミングであの授業を行うとは。おまけに巧いこと内通者にプレッシャーを与えられる」
「うむ。だがいつもながら無茶にもほどがある……それはジンだけにいっているのではありませんよ」
細長眼鏡の奥から鋭い光が見えた。
その視線を受け流して、キリクはあさってのほうへ目をやる。
「まあ、たしかに。友人のユーリに怪我を負わせてしまったのは、反省すべき点ですね」
「反省の意味を知っておいでですか?」
またしてもため息がこぼれた。
「彼は偶然フェイメルが連れ去られる場面を見てしまいましたからね。彼があのまま声をかけていたら、命はその場で尽きていたでしょう」
一刻を争う事態だったことは、事実である。
「ご存知のとおり、私は派手な動きができないので、遠隔魔法で助けることしかできませんでしたし。それに、私が介入するのは、あまり好ましくありませんから」
「助ける、ねぇ。崖に落としたと聞きましたが?」
頭痛だろうか、ガヴェインはこめかみに指を押し当てた。
「ははは、人聞きの悪い! ギリギリ、ふちでしたよ。それに先にいっておきますが、私の演出でふたりの少年は堅い友情で結ばれたのです! すばらしいと思いませんか? セーラ」
うさん臭い身振り手振りをまじえて話すキリクに、ガヴェインはとうとう頭を抱えた。
「……じゃがルキフェル。あの子の力を試すのはあまりにも無謀で、危険だったのですよ」
「ええ、おっしゃるとおり。けれど、我々が思う以上に事は早く進んでいます」
「だからといって、わざとユーリ・フェルマンに怪我を負わせて、しかもあなたの数少ないしもべのエングリルをけしかけるとは……」
「ふふ、たしかにこれは賭けのようなものでした。ですが、どうしても、もう一度この目で見ておきたかったのです。ユーリに負わせた怪我――右手の裂傷はもはやどこにもありません。すばらしい成果だとは思いませんか?」
青い目に喜悦の色が浮かぶ。
「それに一時的とはいえ、封じたはずの力が解放されたのです」
「軍の魔術師に気づかれなかったのは幸いです。針の森でなければ、いまごろ――」
ガヴェインにみなまで言わせず、キリクはチッチッ、と指をふって制した。
「……わかりました、パーシヴァル先生のお望みどおり、口出しはこのへんにいたしましょう」
くすりとほほえむキリクは、すべてを知っていた。
教師のとある一人が悪魔のしもべだということも。
悪魔が針の森に潜伏し、グールを潜ませていたことも。
フェイメルが狙われた真の意図も。
ユーリに移動魔法をかけたのは、キリク自身である。
多少の危険は重々承知で、たとえ生徒に危険が及んだとしても、それはご愁傷様という程度。
なにせ、腐っても悪魔なのだから。
この北国で唯一、軍から入国を許可された無所属の下級悪魔。
形式上、男爵の位を与えられている。
国立魔法学校、魔法学教諭キリク・パーシヴァル。
これが、彼の肩書きである。
キリクは優雅に一礼し、ガヴェインの部屋を退出した。
校長室のある最上階を離れて、一時間目の授業へ向かう途中、ごった返す廊下にユーリ・フェルマンを見つけた。
めずらしくひとりでいる。それに、窓に手を置いてただ黙然としていた。
てっきり窓の外の霧雨を眺めているのかと思えたが、そうではないと気づいた。
怪我をしていたはずの手を見つめている。もうそこには傷跡すら残っていなかった。
彼は生徒の中でもい群を抜いて秀逸だ。
おそらく、答えが見えたのだろう。もちろん、確固たる式が見出せないため、頭の中だけに留めておくほかないだろうが。
たったあれだけのヒントで答えをはじき出すとは、なんと恐れ入る。
本鈴が鳴り響く時刻が近づいていた。
混みあう廊下では、一年生の女子生徒が闇の魔術師に狙われたとか、クラスの半分が魔獣に食われた、はたまたなにかの陰謀に巻き込まれた――そんな噂ばかりが、生徒たちのあいだに飛び交っていた。
キリクは歩調をゆるめることなくユーリの背後を通り過ぎた。
「いずれ、きみにも式が解けるでしょう」
ひとり言は、廊下の喧騒にかき消された。