課外授業(3)
『ユーリ・フェルマン、シキ・ヴァグナーだな』
凶悪な牙をむき出しにする魔獣が、女の声でそういった。
『どうやら命はあるな。詳しい話はあとで聞く。こいつはオレの使役獣、ベルクルだ。こいつに乗って森の入り口まで戻って来い、いいな!』
有無をいわせぬ迫力の声の主がジン・ホランド教諭だということは、ユーリはもとより、シキでさえすぐに察しがついた。
この軍隊ばりの命令口調は、疑う余地がない。
「……わかりました」
「フェイメルは戻ってますか!」
シキが不承不承にうなづいた横で、ユーリの切迫した声音があがった。
つねにクールで余裕たっぷりのユーリが、焦りと不安の混じった剣幕でベルクルに詰め寄る。もちろん、その光景がただごとではないことくらい、シキにもじゅうぶん理解できた。
シキの左胸でドクドク脈打つ音が、いつの間にか頭の中に駆け込んで、ひどく乱暴にわめいている。
いやな気配と、血のにおいと、フェイメルの微笑が、重なった――。
「針の森を進んでるとき、通れない場所がありました。そこには領域魔法が――そこらへんのちゃちなものじゃなくて、もっと強力な魔法がかかっていました。その領域内にフェイメルがいたんです。でも、そばになにかがいて……あれは、人間やない……」
ユーリの声がわずかに、ふるえる。
「あれは……」
ベルクルからの返答はすぐにはなかった。
十数秒の沈黙が、シキには何分にも感じられる。
それからやや間を置いて、魔獣が重々しく口火を切った。
『……おまえらを除けば、フェイメル・モルガーナだけ、まだ戻ってない。手持ちの使役獣たちに森全体を探させてはいるが、領域魔法がかかってんなら見つからねぇだろうな。これからオレとパーシヴァルが捜しに向かう。おまえらはこいつに乗って戻ってこい。いいな、命令だ』
「僕も行きます!」
シキが間髪入れず、叫んだ。
依然として脳内では騒音が鳴り響いている。
『はぁ? いまの話聞いてたのか? バカいってんじゃねぇよ! おまえみたいなガキになにができる! 命令だっつっただろ!』
ベルクルの大きな口から、咆哮のような怒声と大粒のつばが襲ってきて、魔獣の迫力にふたりの背筋がぞっと粟立った。
それでも、シキはおのれを鼓舞して、尻込みしかけた心を奮い立たせる。
「でもっ! 僕は意識を集中すれば匂いでフェイメルを捜せます。それに、森の中にいるなら僕の方が早く見つけられるかもしれない!」
『おまえは犬か! とにかく許可はできねえ、いいからさっさと乗れ!』
その直後、まくしたてるジンに代わって、ベルクルは男の声に変わった。
『わかりました。シキにも手伝ってもらいましょう。ただし、フェイメル・モルガーナを見つけ次第、救助用の発光弾を打ち上げてください。私達がただちに向かいます。それが守れるのならシキ、きみの力を借ります』
『ふざけっ……パーシヴァル、てめぇ勝手なこと――』
『シキ、約束できますか?』
「キリク先生……わかりました。約束します」
たぶん、と心の中だけでつけ加え、シキは力強くうなずいた。
直後、ベルクルが獰猛な咆哮をふたりに浴びせた。どうやらその凶悪な口からは、もう人語は飛び出さないらしい。
そのかわり、いまごろキリクは舌鋒鋭く糾弾されているのだろう。
シキは足もとのふらつくユーリを支え、戦戦恐恐ベルクルの背に乗せた。
「絶対、フェイメルを見つけて戻るから」
「あたりまえや。さっさとふたりで戻って来ぃや」
互いに、視線をあわせてうなずく。
ジンの使い魔が疾風のように駆け出した。
「ユーリが見たフェイメルは幻覚なんかじゃなかった。きっと、よくないことに巻き込まれたんだ……」
シキもまた、湿った空気に鼻を向けて匂いを探り、走りだした。
うっすら明るい崖の上から、ふたたび深い深い暗がりの、森の中へ。
匂いは一人ひとり違った。
フェイメルの気配はほかのみんなと違って、二つの香りが混ざりあった匂いがする。
それは、軽やかで胸が安らぐような、東国に咲く桃蜜花草という植物にそっくりの香りと、森を燻したような、桃蜜花草とは正反対の、胸が苦しくなるようなにおい。だから、クラスメイトが散らばる森の中でも、区別がちゃんとついた。
それが糸のように森の中で道を作っている。そして道には、本来あってはならない血のにおいが、微量ながらも混ざりこんでいた。
不安ばかりが募って、シキは無意識に、走る速度を上げていた。
どれくらい走っただろうか。
糸をたどってゆくと、にわかに異臭が立ち込めた。
炎天下にさらされた生ゴミのような、あるいは腐った肉のような――。
苔だらけの大木のかげに、全身無毛の、腐敗した皮膚をもつ魔獣の群れを目撃したとき、それらはシキの存在に気づき、一斉に血走った両眼を向けてきた。
群れのさらに奥へ目を凝らすと、地面にぐったり横たわる女子生徒の姿が――。
「フェイメル!」
叫ぶと同時にその腐った獣が次々に襲いかかってきた。
一匹目の鋭い爪が頬をかすめ、続いて突進してきた二匹目が、背中のリュックを引き裂きあっという間に奪っていく。三匹目の爪牙をかいくぐって、幾度も転がり、ようやくフェイメルの近くへ這い寄った。
「よかった……息をしてる……」
気を失ってまぶたを閉ざす姿はまるで眠れる森のお姫様だ。
薄暗い森のなかでも、長いまつげと銀の髪がきらきら艶めいており、真珠のような肌をより神秘的に照らしている。
「助けに来たのが王子様じゃなくて、ごめんね」
苦く笑って、フェイメルに手を伸ばそうとした、まさにそのとき。
胸がつまるような、強烈な圧迫感がシキに迫った。森に入る前から感じていた、奇妙な気配。それは、言いようのない濃密な――。
突然、なにかが樹上からバサッと降ってきた。
シキの前に現れたのは、刺青だらけの浅黒い肌にとがった耳、燃えるような赤い髪と両眼。ギザギザの歯をむき出しにした細身の男。
こんな姿の人物は、悪魔学の教科書で何度も目にしてきた。
「貴様、どうやってここへ来た。領域魔法がかかっているここには、何人たりとも入れぬはずだ。何者だ?」
憎悪渦巻く眼光が、シキを射抜く。
――恐れてはいけない。退いてはいけない。フェイメルを、助けなきゃ……!
そうやっておのれを鼓舞する。
「僕は……フェイメルの友達だ……! おまえこそだれだ! その子になにをした!」
「オレは悪魔ヴェルデ。ヴァルベリト様のしもべだ……この娘が抵抗をしたから動けなくしたまでよ」
悪魔は口角をを禍々しくつり上げると、手下の腐った魔獣どもに合図を送った。
「ガキを殺せ! 骨も残らず喰らってしまうがいい」
おぞましい咆哮が四方八方からあがると、シキめがけて十数匹の不気味な獣が一度に飛び掛ってきた。
悪魔に怖気づくな。
魔獣から逃げるな。
フェイメルを助けるんだ。
自分の知らないなにかが起こっているとしても、だ。
ここで逃げ出したり、助けを待っていたら、友達が失われる。
もう、大切なひとがいなくなるのはいやだ。
だから、僕が、助けなきゃいけないだろ……!
それなのに、どうしよう……足が、動かない――。
牙を剥いて襲い来る魔獣の群れはシキに食らいつき、群がり、腐った肉の山を築いた。
視界が埋もれてゆく。息がつまる。
まっ暗になる前、悪魔がにたりと笑う様を、シキは見た。
「フェイメル……――」
刹那。
粉々の肉片がバッと宙に散る。
魔獣の赤黒い血と、肉塊、骨が一度にはじけた。それは一瞬で焼け焦げ、灰となる。
そして、湿った風に乗って、跡形もなく消えていった。
「な――っ?」
悪魔がぎょっと目を見開くなか、生臭い血を全身に浴びたシキがゆらりと立ち上がった。
「フェイメルから、離れろ――」
悪魔は口だけをぱくぱく動かして、その異様な光景に瞬きも忘れて目を剥いている。
そばに横たわる少女から、一歩身を引いた。
「なんだ、貴様は……?」
まるで、死神にでも遭遇したかのように、悪魔から血の気がさっと引いた。
浅黒い肌が青白く変色する。ひたいの汗がつぶてに変わる。手足が小刻みに震える。
魔獣のベトベトした血と肉片が黒髪から滴るなか、おののく悪魔に、シキはまた一歩詰め寄った。
「……離れろ」
さらに一歩、悪魔は後ずさった。
赤い目を射抜く双眸は、北国の竜王と同じ、黒。
悪魔の歯が、ガチガチ音をたてて鳴った。
「なんなんだ……貴様は……!」
目に見えない恐怖にとらわれた悪魔の片ひざが、がくりと落ちる。
「なぜ、おれ様が……貴様のようなガキに……屈するのだ……!」
悪魔が絞りだすように吐き捨てた次の瞬間――なんの前触れもなく、シキは糸の切れた操り人形のように、ひざから崩れ落ちた。
「あっ……」
全身の力がいっぺんに、抜ける。
指の先さえ動かすことができずに、シキはそのままうつぶせにばたりと倒れ込んだ。
唯一動かせる目で、よろめきながらも立ち上がる悪魔をとらえた。
「貴様、何者だ……貴様は、なんだ? いま、なにをした? いや、それよりも排除が先だ……貴様は危険だ……ヴァルベリト様の脅威となる前に、殺さねば……!」
悪魔はひどく震える手で、腰に吊った剣をすらりと抜き取り、頭上にふりかぶった。
――僕が、危険?
「くたばれ、薄気味悪い――この、化け物め!」
――ばけもの……?
意識がもうろうとして、口を動かすことさえままならない。
その弛緩を衝いて、鋭い詠唱がシキの横を駆け抜ける。
「在るべき姿に戻せ!」
光の矢が、シキを狙う凶刃に直撃した。
すると、剣は尖端からどろりと溶け出し、柄を握る手から腕にかけて肉が溶けるように削げ落ちて、骨までもが溶解してゆく。
片腕を失った激痛と驚きに絶叫をあげる悪魔は、憤怒をあらわに身をひねった。
そこには鞭を構えるジン。少し遅れて、キリクがマントを翻して現れた。
「だれだ……! よくもおれ様の腕を!」
「ひとりきりの女子生徒を襲うとは、ずいぶん悪趣味ですね」
「き、貴様……!」
「この針の森はもともと魔獣が多く生息する、闇の濃い領域……そこに立ち入りを拒む領域魔法をかければ、悪魔の気配を感知できる魔術師の目をくらますことも可能……」
ふむ、とキリクはあごに手をあてる。
「ですが、残念でしたね。目隠しの魔法もかけておかないと、いいところで邪魔が入ってしまうんですよ」
おまけと言わんばかりに、ぱちりとウインクを飛ばした。
目に見えない星を、悪魔が怒りにまかせて払いのける。ギリギリで保っていたであろう、理性がぷつりと切れた。
「貴様ァ! おれ様を愚弄するか!」
背中からコウモリのような翼を広げて猛然とキリクに迫った。
ところが、その瞬間。
しなる鞭が悪魔の右肩を強打した。
高熱を帯びる鉄鞭に触れた皮膚はぶくぶくと膨れ上がり、右上半身に気泡が浮き上がったかと思うや、爆発とともに肉も血も骨も、はじけ飛ぶ。からだの右半分がどろどろに焼け爛れた。
「ギャアァッ! ぎ、ぎざま……よぐも……!」
「三下が」
「ははは、さすがはホランド先生!」
キリクの場違いな拍手も、片耳が溶け落ちた悪魔には届いていないだろう。
「覚えでいろ……人間ども! 必ずみなごろじに……じでやる!」
血を吐いて怨念をまき散らすと、悪魔は地面の中に吸い込まれていった。いや、地面に穴が開いたようにも見えた。
「くそっ! 待て、てめぇ!」
ジンが地団駄を踏むのを最後に、シキの意識は完全に途切れた。