課外授業(1)
「いいか、セルカークは闇の魔術に対抗できる光を生み出す幻獣だ」
ジンは先週の授業で、世にも恐ろしげな生き物の絵を黒板に描いて、セルカークのなんたるかを説いた。教科書を見れば、その幻獣の姿かたちは細身のアリクイのようで、むしろ可愛らしいつぶらな目をしている。まさに、彼女の絵画センスが疑われる瞬間だった。
一見、十代後半とも思えるジン・ホランド教諭は、この学校に就任して六年、加えて全教員の中でもトップクラスの実力を持つ、若手の女性教諭だとキリクから聞かされていた。
眼光鋭い猫目は威圧的で、きつい見た目どおりの性格だと、シキのクラスはもちろん、ほかのクラスの生徒達にも、もっぱらの評判になっている。
それに、ローブやマントを羽織る先生が多いなか、ジンの服装はまるで兵士のそれだ。
歩くたびにごつごつ響く鰐皮のブーツが、よけいにそう感じさせた。
鮮やかな金髪は、体裁を気にするふうでもなく、無造作にまとめ上げている。それに、なかなか美人であるにもかかわらず、いつも口をへの字に曲げているものだから、男子たちの胸は高鳴るどころではない。
ただ、露出した肩から腕にかけて彫られた刺青に、シキは毎回の授業でどきりとさせられた。
もちろん、胸の高鳴りとはまったく別で。
彼女の目の色と同じ、深緑色の蛇。それがあたかも腕に絡みついているようだ。
なぜかその刺青を見るたびに、胸がぞわりとするような、詰まるような奇妙な気分を味わうはめになっていた。
ちなみに、この国では刺青は魔力を高める効果があって、彫る者も多いという。
東国では、刺青といえば荒くれ者や任侠に生きる人間の証そのもので、シキにすれば、もともとあまり印象がよくなかった。
しかし、「そんなの北国ではふつうだよ、フェイメルだって胸に彫ってるし」と、アリアから教えてもらってからは、それに対する嫌悪感があっという間に拭われた。フェイメルに刺青があるなら、ふつうに違いない。
それでも、ジンの腕にある刺青と、本人に対しては、好感をもって歩み寄れないでいた。
ジンは狭い教室内を見渡し、四十名の生徒が自分に集中していること確認すると、説明を続けた。
「こいつの光は暗がりに落とされ、ハンターが回収する。今回はおまえらがこの作業を実践することになる。セルカークは臆病な生き物だから、めったに人前に出ることはないから、安心しな。とって喰われやしねーから」
教室内に、あちこちから安堵のため息があがる。
「だが侮るなよ、セルカークは幻獣。この北国の竜王を唯一殺せる生き物だ。光を百個集めて精霊に束ねさせりゃ、竜王を傷つけることができる武器になる。殺すには光を十万集めて、国中から集めた精霊の力で束ねる。まっ、光を十万、国中の精霊を集めるなんて、土台ムリな話だし、竜王を傷つけようってバカはいねえけどな」
ざわりと生徒たちが身じろいだ。
こんなにファンシーな生き物(ジンの絵では化け物にしか見えない)が北国の王を倒す力があるとは思えない。けれど、実物は黒板の絵のように恐ろしいのではないか。そう考えて、シキは突然の寒気に襲われた。
「先生、あの……わたしたち、どこで課外授業を受けるんですか?」
アリアの控えめな質問に、ジンは意地悪く、にやりとくちびるの端をつりあげる。
「ははっ、悪ぃな、いってなくて! 課外授業に使う場所は、特別区域に指定されてる『針の森』。つーわけで、次回の授業はセルカークの光集めだ。おまえら、一週間後のために各自予習しておけよ。では終了!」
ばん、と黒板を平手で叩いて、その日の授業は終わりの鐘を告げた。
そして、ついに課外授業のきょうを迎えた。
「チッ、いっこうも魔術使うような授業やないやろ」
前を歩くユーリが苛立ったひとり言をこぼした。
『光の魔術と闇の魔術学』なのだから、当然実践は待ちに待った魔術を使うものだと、どの生徒も思い込んでいた。シキもそのつもりでいたのだが、どうやら初の課外授業は趣が違うようだ。
つまり、ユーリの機嫌が悪く見えたのは、そういった理由に違いない。
肌を刺す風に身を震わせ、ジンが率いる生徒たちの列は校舎からずいぶん離れた平地に広がる、『針の森』と呼ばれる巨大な森林地帯に向かっていた。
前方にいたはずのウルトが、最後尾まで歩をゆるめてシキの隣に並んだ。
「まーまー。退屈な座学じゃねーんだし、いーじゃんか! 何個セルカークの光取れるか、シキ、競争しよーぜ! なあ、ユーリもやろーぜ!」
「……はんかくせぇ」
「ええっ冷たい! ユーリ君ってば冷たいわ!」
裏声と、乙女のようなくねくねした仕草でユーリをありったけ罵るウルト。当然だが痛烈な蹴りがウルトのふくらはぎに命中した。
「『はんかくせえ』ってなに?」
シキが、のた打ち回って苦悶するウルトに尋ねる。
「いてて……はんかくさい、つって、恥ずかしいとか、ばっかじゃねーの、って意味の、北国の方言! くっそぉ!」
いまに見てろ、と鼻息荒く手のひらに右拳を何度も打ちつける。
「へぇ、初めて聞いた」
「東国は知らねーけど、北国はなんまら広いから、セクターや地区ごとで発音が違ったりするわけ」
ウルト曰く、ユーリの独特なイントネーションは一部の地方で使われているもので、標準語で育ったシキには新鮮に思えた。
結局、光集め競争はユーリ抜きの戦いになり、わずかな希望の光がシキに差し込んだ。
全然魔術を使うような授業じゃない、と学年主席がぼやくぐらいだ。だとしたら、ウルトと対等に渡りあえる可能性は十分にあるのではないか。
一時間ほど歩いたのち、やっとのことで森の入り口にたどり着いたときには、ほとんどの生徒の息があがっていた。その熱を冷ますように、入り口はひんやりと湿った空気を帯びている。不気味さも相まって、よりいっそう気温が低くなった気がした。
木々は生い茂り、アーチを描いて光源を遮断していた。
不気味に暗く、ギャーギャー、キーキーという奇妙な鳴き声が遠くから聞こえると、生徒の半数はそわそわ辺りを見回した。もちろん、その半数にシキとウルトも含まれている。
「ほんと大丈夫かよ……実は魔獣の巣窟でした、なんてオレ、やだぜ」
ウルトが首をすくめていう。
「この森、変な感じがする……胸が詰るような――ムカムカするようなにおいが――」シキが言いさしたときである。
「よーし。各自セルカークの光を集めてくるように。瓶がいっぱいになったらこの場所に戻って来い。なにか異常があったら発光弾を空に打ち上げろよ。オレがすぐ駆けつけるからな。青い発光弾があがったら、授業終了の合図だ。その場合もこの場所に戻るように。んじゃ、始めー」
犬でも追い払うような仕草で、ジン・ホランド教諭は生徒たちを未知の森へ送り出した。
*
森の入り口の前で仁王立つジンの前に、キリク・パーシヴァルは魔法を使ってぱっと現れた。
お決まりの暗灰色のマントが風をまいてふわりとなびく。
――タイミング悪く、すでに生徒全員が森へ入ったあとだった。
「あらら、お早いお越しじゃありませんか、悪魔男爵センセ」
皮肉たっぷりにくちびるを歪めるジン。
「よくもこの私を足止めしてくれましたね」
「ハッ。てめーがオレの組んだカリキュラムに口出ししてくっからだよ」
「わたしが受け持つ生徒たちなのですから、当然の権利でしょう」
一学年で異例の課外授業――それも、学校の敷地外での授業――を行うと知ったときから、キリクは危険だ、と中止を求めていた。
それでも敢行すると退かないジンに、せめて同行させてほしいと訴え続けてきたが、当の彼女は「だめだ」の一点張りを貫く始末。
そしてとうとう課外授業の日となり、キリクはキャメロット生の引率というかたちで、すべての授業を自習にして同行するつもりでいた。
ところが、いつの間に魔術をめぐらせたのか、対悪魔用の魔術が学校の敷地と外の境界線にかけられていたのだ。それは、内側から破ることが困難な封縛魔術。
さすがは悪魔にも悪名高いジン・ホランドの光の魔術、と舌を巻く以外なかった。
こうしてキリクは学校から出るのにひどく手間取ってしまい、いまに至る。
「この森は上級ハンターが入るような魔獣の巣窟でしょう。生徒の死体があがってもおかしくありませんよ」
「はあ? てめえ喧嘩売ってんのか。オレの授業だ。どうしようと勝手だろうが。いちいち口出してんじゃねーぞ、パーシヴァル」
ぎらりと緑眼が狡猾な光りを帯びた。対するキリクも、いまや穏やかならぬ光を双眸に宿している。
「わたしの生徒たちに危害が及ぶような授業はいただけませんね」
「シキ・ヴァグナーに、だろ。せっかくの機会だ、あのガキの正体も暴いてやるよ」
とうとう、キリクの握ったこぶしに、ちりちりと火花が散りはじめた。
ジンの腕に巻きつく大蛇の刺青がぞろりと動き、邪悪な闇の力が蜃気楼のようにゆらめく。
静寂が緊張感をいっそう高めた。
「……ブラッドの差し金ですか? まさか貴女までもがあんな人間の駒に成り下がるとは」
「ブラッド?」
静謐を破ってジンが空気を震わす声を上げた。嫌悪と怒りと屈辱がにじんでいる。
どうやら彼女の地雷を踏んだようだ。
「あんなクズにだれが従うかよ!」
「クズ扱いとは不憫な……」
「オレは――」
ジンは腰のホルスターから鞭を抜き取り、するりと地面に垂らす。握る柄から鞭の先まで魔力を込めるのが分かった。
「セラフィト・ガヴェインだけにしか従うつもりはねぇよ! 善悪は自分の目で見て決める……! てめぇはすっこんでな!」
魔力によって鉄の刃と化した鞭がキリクめがけて襲い掛かった。
だが、刃がキリクの鼻先に触れるギリギリのところで、突如針の森から悲鳴が上がった。森がざわめく。キリクは眉根を寄せて目を細め、気配を探る。男子生徒の叫び声だ。
気づけば眼前の鞭はすでにジンの手元へ戻っていた。
「かかったな」
にやりと意地の悪い笑みを浮かべるジンを、キリクは険しい表情のままねめつけた。
つまり、すべてがジン・ホランドの筋書き通りに運んでいたということだ。
「貴女というひとは――」
――私の生徒を餌にするとは。
*
両肩に背負ったリュックの中には、両手で難なく抱えられる大きさの空瓶と、トリガー式の救助用発光弾のみ。
森で光を集めて、スタート地点に戻ってくる。授業は実に単純明快なものだ。
シキはしばしウルトと並んで走っていたが、森の茂みが深さを増して別々の道を行くことにした。
あっという間にウルトの姿は見えなくなって、気づいたときには、暗い森でひとりぽつんと立っていた。
辺りを見回して、とくに暗く湿った場所がないかと目を凝らしてみる。
少し前進して、周囲を注視し、また前進する。
そして草木がやっと丈を縮めてきたとき、木の窪みのさらに奥を凝視すると、橙色のちいさな光が見えて、シキの心音はあたかもファンファーレが響くように高鳴った。
「やった、やっと見つけた!」
こんなに簡単な授業は初めてだ!
手を伸ばして光を包み込む。胸もとまで引き寄せて、そっと握った手をほどくと、幸せだった気持ちが突然しぼんでゆくのが自分でも分かった。
シキが掴んだ光は、橙色に光る昆虫だった。つやつやした殻で覆われた体表が、橙色に発光している。
ちぇ、とくちびるを尖らせて昆虫をもとの窪みにそっと戻してあげると、それは光をまたたかせて、一目散に隙間へもぐりこんでいく。
出鼻を挫かれ、希望の光までもが摘み取られてしまったように思えた。
それからどれだけ光を探し回っただろうか、瓶の中に集まった光はわずか二個だけであった。
ウルトのほくそ笑む顔を想像した、まさにそのとき。
だれかの叫び声が森に響き渡った。
シキは、声でそれがだれかを判別できた。
他人より聴力が良いことがこんなところで役にたつなんて、自慢にもならない。
瞬時にひとりの生徒の顔が浮かんだ。クラスの中ではあまり目立つ存在ではないけれど、ユーリにひけ劣らない、とても優秀な生徒として評判のシムル・エーレーン。
彼の叫び声だ。
そうと気づいて、心臓がぎくりと大きく震えた。