遺志と決意
シキが気づいたときには、すでに辺りは見知らぬ町並みに変わっていた。しかも、魔法学教務室はおろか、学校自体が忽然と消えて、キリクと一緒にまったく別の場所に立っていたのだ。
道路と呼ぶにはずいぶん粗末な、硬い土がむき出しの一本道。その左右にぽつりぽつりと並ぶ民家は、すでに崩れて無人のようだった。
「目的もなく鏡をこすれば、こうして見知らぬ町に着いてしまうところがやっかいでしてね。もっと軽い気持ちでこすったとしたら、体と魂が離れ離れになって、それは大変なことになります」
「もしかして、耳が詰まるような……耳と目が潰れるみたいな感覚って、その『大変なこと』なんですか?」
シキの頬が引きつったのを見たキリクは、含み笑いをして、「まだマシなほうですよ、シキは幸運でしたね」そういった。
「まあ、簡単に説明すると瞬間移動できる鏡、といったところです。もちろん、現実で起きていることなので、相手に姿も見えるし言葉も交わせます。けれど、力の不十分な者が使用すれば、肉体ではなく、魂だけを引っ張られて帰り方を見失うのです。気持ちが浮ついているときは、十分気をつけねばいけませんよ」
キリクがぱちりとウインクをする。
こんなに不思議なことをいっぺんに理解できるはずがなかった。けれど、シキはウインクに流されるまま、いかにも理解したというふうにうなずいてみせた。
「……そういえば、ここ、僕が最初に見た町によく似てるような――」
ひどく脆弱で物悲しい気配だけが、町の隅々に充満しているようだった。辺りは廃墟のように冷たく不気味に佇んでいる。ひやりとした冷気がどこからともなくシキの体にまとわりついてきた。あたかも、死神が背後にぴったりと張りついているようだ。キリクのマントが弱く冷たい風になぶられて、亡霊が通ったあとのように、はたはたと揺れる。
「第三セクターです。この地区はどこも、酷いものです」
シキはぼう然とその光景を眺めた。
軽いめまいの原因は、魔法学校の充足した生活と、貧困と疲弊の色ばかりが漂うこの町に、天と地ほどの差を感じたからに違いない。
灰色の煉瓦でできた建物に、痩せ細った木々。
道を行く、腰の曲がった老婆が目に留まった。カメのようにゆっくり歩む様を、シキはただじっと見る。
老婆はこの第三セクターそのもののように、疲れきった足取りだった。
その場で佇立していると、老婆がシキに気づいてほんのりほほえみ、頭を下げた。
彼女は手にかごを持ち、冷たい風から身を守るためだろう、よれた上着を何枚も重ねている。袖から見える手首は細かったし、スカートからちらりと覗く足首も、骨と皮だけのようで、ぽっきり折れてしまうのではないかと考え、シキはぞくりと背筋があわ立った。
「おや、黒髪とは珍しいこと……ぼうや、どこの国から来なさったね?」
老婆がいった。
「旅人かね?」
柔らかな笑みは、凍える町にひとつだけ灯るろうそくの火のように思えて、シキの胸がほのかにあたたかくなった。キリクがそのほほえみに応える。
「ええ、旅の途中でして。ご婦人はずっとこの町にお住まいですか?」
「ええ、ええ。生まれてこのかたずっとここで暮らしておりますよ。この国は百年も前から竜王様がいらっしゃらないので、あたたかな暮らしは一度も経験していませんけどね、やっぱり、生まれた町から離れられないものですよ」
老婆は目を細めて、愛おしそうにはるか遠くを見渡した。
「死ぬ前に、冬の終わりが見れるといいんだけどねぇ」
彼女の願いが叶えばいいのに――。そう、シキは胸のうちだけでつぶやく。
ふと、彼女が手に提げるかごに目をやると、土のついた小さな芋がふたつばかり転がっている。たったそれだけが食料なのかと考えただけで、胸の奥がずきずきと疼いた。
本当に、学校の食事と比べると、雲泥の差だ。
「あの、おばあさん……この町じゃなくて、第一セク――」
「いつか」
シキの言葉を遮って、キリクがやわらかく、しかしきっぱりとした口調でいった。
「いつか、北国に緑が戻る日を私も願っています」
穏やかな表情でこっくりうなずく老婆に、キリクは優雅な会釈を返してみせた。きょとんと目を丸めていたシキは、あわててそれに倣う。
その直後、なんの合図もなく、ふたたびレディ・カラマンシカの手鏡に吸い込まれたのだ。
まぶたを開けた瞬間、あたりの景色は教務室へと立ち戻っていた。
「いまのって……」
ぱちぱち瞬きを繰り返すシキは、いまだに鏡の世界に取り残された感覚であった。
「すべて現実ですよ、シキ。あのご婦人と出会ったこともね」
レディ・カラマンシカの手鏡をのっぽの棚――気味の悪い色のキャンドルや、かぼちゃをくり抜いた小人の家が並んでいる――に立て掛け、キリクはシキに向き直った。
「元来、この手鏡は北国を見渡すために存在しているのです。この国の真実が見えるように。そして、必要とするものが見つかるように、と。ですが、レディ・カラマンシカの手鏡はいまだかつてただの一度も、正しく使われたことはありません」
真っ青な目がシキに何かを伝えようとしているように思えた。だが、シキには言葉の真意がつかめず、眉根を寄せてわずかに首をかしいでみる。
そこで、キリクは問題に悩む生徒へ助言をするみたいに、ゆったりと切り出した。
「……これは彼女の遺志。まだ見ぬ未来に希望を託したのです。シキ、北国の有様を――現実をしっかり心に留めて置くのですよ」
「はい……」
そうはいったものの、やはりレディ・カラマンシカがなぜこの鏡を作り出したのかが、シキにはわからない。だがそれよりも、重要な疑問が残っていた。
「先生……どうしてこの学校のある第一セクターと、第三セクターはあんなに差があるんですか?」
同じ北国なのに、と小さくつぶやいたシキへ、キリクは困ったふうに苦笑を浮かべた。
「差があって当然です。一セクは国軍の直轄地。いま、北国は軍によって守られ、維持されているのです。いや、支配といったほうが正しいかもしれませんね。北国国軍提督のペンドラゴンと、この学校のガウェイン校長先生が、本来国を治めるべき竜王に代わって政治を担っているのです。この国は竜王不在が百年余りも続いていますからね。ただ、支配の強さはペンドラゴンが少しづつ増しているでしょう。司法すらも彼の――国軍の配下です。そう……いまや国軍提督が北国の指導者よろしく、振舞っているのですから」
つけ加えた言葉の端に、わずかな嫌悪が混じっているように感じられた。キリクらしからぬ棘のある口調だ。
「……愚かな」
キリクが吐き捨てた言葉にシキが怪訝な視線を投げかけると、それに気づいた彼は、すぐさまいつもの上品な微笑を浮かべた。そして、ややためらいがちに言葉をつぐ。
「軍の拠点である第一セクター以外は、軍の高官にとって、価値の薄いものなんですよ」
シキの肌にさわさわと寒気が滑っていった。
たくさんの人たちがこの北国に暮らしている。
それなのに、人々を守るべき軍の主導者は国民を守るどころか、貧困を見てみぬふりをしている。自分たちだけが高い水準で暮らし、人口の半数以上の国民を、つらく厳しい暮らしに追いやっている。
まさに、見放したも同然に思えた。
第一セクターのみが、北国のオアシスそのものだ。そして、どうやらシキもその恩恵を受けているのだということを、いまやっと理解した。
うつむくシキのその肩に、キリクがぽんと手を置いた。
「シキ、この学校で多くを学ぶのです。それが、未来につながることになるのですよ」
肩にぬくもりを感じる。
悪魔であるキリク先生だって、こんなに優しくてあたたかい心を持っているのに、軍の提督はまるで血の通わない人間みたいだ。あんなに貧しくてつらい暮らしを、どうして放っておけるんだ……。
フェイメルのいったとおり、第一セクターはほかの第二、第三セクターという犠牲の上に成り立っているんだ。僕はいま、そうやって生きている――。
魔力の欠片もない、他国から来た人間が、使えもしない魔法を学ぶことになんの意味があるのかと思わずにはいられなかった。もちろん、シキは自分になにができるのか、明確な答えを持っていなかったが、学校での生活がたくさんの人たちを犠牲にして成り立っていると知った以上、なにひとつおろそかにできるわけがない。
「たくさんのことを知らなければなりません。そのために、きみをここに連れて来たのです」
キリクがきっぱりといった。
なぜ知らなければならないのですか、という疑問は飲み込むことにした。なぜなら、いずれ必ずわかることです、というように、青い目が強く優しく語りかけてくるからだ。
シキは迷わず、強くうなずいてみせる。
「はい……!」
鉛色の空と凍てつく風がシキの気持ちをよけい寒くさせた。
初めての課外授業と聞いたときは心が躍ったものだが、冷静さを取り戻せばどんどん不安がつのり、心が鉛のように重たくなっていった。おまけに、全員に支給されたリュックには、手のひらよりもやや大きめな透明の瓶が入っていて、それまた鉛のように重たいのだ。
「魔法も魔術も使えない僕にできるかな」
だれにともなくひとりごちて、シキは浮かない顔でしんがりを務めた。
光の魔術と闇の魔術学を担当するジン・ホランドが、一学年キャメロット生にとって初となる課外授業を行う、と言い出したのは一週間前のことだった。
ほかの生徒には絶大な人気を誇る授業だが、魔力が微塵もないシキにとって、この科目はもっとも不得手な授業なのだ。
数ある科目のうち、光の魔術と闇の魔術学は二学年から実際に魔術に触れ、実践を行うとのことだ。
一学年は座学だけと聞いていたために、どの生徒も今回の課外授業が楽しみでしかたない様子だった。シキも当然ながら、退屈な座学よりも学校の外で行われる授業がどんなものかと、わくわくしていた。
だが、いやますっかり憂鬱になりつつある。
十中八九、自分ひとりがついていけないうえに、先生からは落第点をつけられるおそれがあるためだ。
ふと、斜め前を歩くユーリに視線を投げると、面倒くさそうにリュックを肩に引っ掛け、しかも心なしか気だるげな足取りだった。
声をかけてみたかったけれど、あまり良く思われていないのだから、返ってくるのは冷たい一瞥だけだと簡単に想像がつく。
ため息をひとつこぼして、シキは列の最後尾をのろのろ進んだ。