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禽麗のノルディカ  作者: 黒雛 桜
黒竜王の福音
114/115

 ――「悪竜め」

 深い、意識の海の中で、その言葉がたゆたった。

 それが溶けて、毒のようにシキの体に、心にしみこんでゆく。

「やっとトリスタン嬢を手放してくれたか」

 だれかがいった。

「黒竜王のせいで婚儀が遅くなってしまった」

 これも、だれかがいった。

「悪竜が……トリスタンの娘をはべらせて、大きな顔を」

 これも。

「あんな化け物に国政を任せられないだろう。気に食わないことがあれば、また民を火あぶりにするさ」

 これもだ。

「ああ、アルウェン。しばらく見ないあいだに、すっかり立派になったね。娘を頼むよ、孫を抱く日が楽しみだ」

 ……アーサントさんの、声だ。


 なにも聞きたくない。

 もう、だれの声も聞きたくない。

 ほんとうは、なにも聞きたくないのに……。


 やがて、海底から水面に浮かび上がってゆくような感覚が訪れた。



「――から、説明してくれ!」

「平気、平気。ただの過労とストレスによる睡眠不足だから、そんなに怒鳴るとシー君が起きちゃうじゃないか」

「シー君? 竜医師のくせに、黒竜王にそのような呼び方を……!」

「そんなにカリカリしなさんな。オレとシー君の仲だし、問題ないよ」

「エーレーン先生、あなたがそんなだと――」

 うっすらまぶたをあけた先に、見慣れた無精ひげがあった。そのとなりには、枯葉色の軍服を着た竜騎士――ちがう、そうだ、彼女はもう、国軍大佐に戻ったんだ……。

「おっ、目ぇ覚めたかい」

「……ナナルさん、リジル……?」

「黒竜王!」

 リジルが血相を変えて、ベッドのわきにつめ寄った。

「……ここは……?」

「オレの研究室兼医務室兼、寝床」

 室内をぼんやり眺めると、ナナルの意外な一面がわかる。完璧に整理整頓された医療器具や薬品棚、きわめて清潔な空気が充満する部屋には、彼の、医師としての矜持や信条がつまっている。

 自分自身には無頓着なナナル・エーレーンに目をやったあと、不安げな顔のリジルに目をあてた。

「リジルが、どうしてここに……?」

「オレが呼んだんだよ」

「どうして……もう、専任騎士じゃないのに……」

 ナナルが素知らぬふうで顔をそむけた。

「心配しました、黒竜王が倒れられたと聞いて……!」

 もうろうとする視界を支えようと、シキは額に手をあてて、半身を起こした。

「リジル……きみはここにいるべきじゃない」

「なぜですか、自分は、黒竜王のことが心配で――」

「きみは、僕のそばにいちゃいけない」

「なぜ――」

「きみの、婚約者が悲しむ……」

「黒竜王は、わ……わたしの気持ちは考えてくださらないのか? わたしは悲しんでもよいと?」

 彼女の声がゆがんだ。

 一瞬、泣いているのかとさえ思える声音こわねだった。いや、胸のうちで泣いていたのかもしれない。

 「ちがう」、「そうじゃない」と、叫んで伝えたかった。

 だが彼女がそばにいるだけでうれしくなってしまうだろうし、引きとめたくなってしまう。だから、考えてはいけないのだ。

 だから、シキは無言でかぶりをふった。

 それを見つめるリジルは、瞳に絶望の色をにじませて、目を伏せた。

「そう……そうでしたね……あなたは、たくさんの者へやさしさを向けることができるお方だ……」

 リジルは肩に昏い絶望を乗せて、部屋を出ていった。

 部屋に残ったナナルは、しばらくなにもしゃべらず、シキのかたわらに椅子を置いて、妙な色の点滴がなくなるそのときまで、ただそばにいてくれた。


 *


 リントヴルム・トリスタンとアルウェン・メッシの婚儀は、すでに二週間後に迫っていた。

 ふつうはもっと時間をかけて婚礼の儀の準備をするのが、人間の慣わしのはずだが、とっとと済ませてしまえと言わんばかりに、ふたりの親族の者たちはせわしなく動き回っていた。

 とはいえ、下々の人間たちの思惑など王城においては、まったくの無縁である。――が、黒竜王が知る由もない城門では、それこそちょっとした騒ぎが起こっていた。


「だから、あたしは黒竜王の友人だって言ったじゃない! 通してったら!」

「だから、だめだといったらだめだ」

「なんでよ! いいからシキに伝えてよ、いっとくけど、黒竜王の親友をこんなにぞんざいに扱ってただで済むと思わないでよ! あとであんたたちクビにしてやるんだから! ホントに通してよ!」

 手首をうしろで取られて身動きがとれずにもだえるのは、アリア・ソロだった。

 城門を守衛する兵士から、軽くあしらわれている。もちろん彼らが本気でないことは一目瞭然といった感じだ。

 ふたりの兵士が、やれやれと肩をすくめた。

「黒竜王に会いたいの! ちょっと!」

「一般人がお目通りできるお方ではない」

「だから、親友だっていったでしょ!」

 力ずくで通り抜けようと、アリアが手をふり払って無理やり突進を試みる。そこで兵士らは手にする矛をアリアの鼻先で交差させた。絶妙なタイミングだった。まるで喜劇コメディを見ている気分だ。

「だから、だめだといっているだろう」

「言いつけてやるから!」

「だれに言いつけるというんだ――」

「たとえば、私に」

 突然ふりかかってきた男の声に、兵士たちはぎょっと背後をふり返った。

「げえっ! て、帝王……ル、ルキフェル?」

「はい」

 応じて、とっておきの微笑を彼らに向けてやる。

 暗灰色のなめらかなマント、キャラメル色の髪と空色の目をみとめて、心身ともに強靭きょうじんであるはずの国軍兵士が、腰を抜かした。

「パーシヴァル先生!」

「私は無条件で王城への出入りが認められています。ちょうど、黒竜王にお会いしにゆこうと思っていたのですが……ああ、そういえば、急用を思い出したので、彼女に代理で行ってもらいましょう。よろしいですね、兵士殿?」

 有無を言わせぬ問いに、彼らはこくこく首だけでうなずいた。

「ありがとう、先生!」

 真夏の太陽みたいな明るい笑顔を浮かべる元教え子へ、帝王ルキフェルはぱちりと片目を閉じて応じた。すぐにマントをひらりと翻し――

「黒竜王に祝福あれ」


 姿をくらました。


 *


「陛下、アリアお嬢さんがお見えになっております」

 モルガンの声で、シキはぶ厚い財務報告書から顔を上げた。

「アリアが?」

「ええ、直接こちらにお通ししてもよろしいでしょうか?」

「お願いします」

 ほとんど間を置かずに、アリアが執務室へ飛び込んできた。

「シキ!」

「アリア、どうしたの、急に……」

「あのね、リジルさんが結婚するって聞いて、あたし、どうしても納得できなくて!」

 ぽかんとするシキの言葉を待たずに、アリアが猛然とつづける。

「楽団に、結婚式での賛美歌の依頼があったの、それで、知って……ねえ、シキはこれでいいの? ちゃんとシキの気持ち、伝えた? 竜騎士を解任したって聞いたし……!」

「アリア」

 静かな声で、そう告げた。

 努めて静かな声で、言葉をつぐ。

「いいんだ。これで」

「……よくない、よくないよ!」

「アリア、いいんだ」

「なんにもよくない……! ずっと、想ってきた結果がこれなんて、あたし、やだよ……」

 ゆっくりとかぶりをふるアリアが、愛おしく感じた。シキは、自分の代わりに素直な気持ちを吐き出してくれるやさしい友を、愛おしいと思った。

「アリア、ありがとう。でも、これでいいんだ。僕が黒竜王である以上、これが最善だから」

 いつの間にか伏せていた顔を上げたとき、執務机の前に立っていたアリアは、両手で顔を覆って、声もなく、泣いていた。




 その日の朝は、たくさんの精霊に、「幸多きふたりに祝福を」と声をかけるだけにした。

 それで、彼らは黒竜王の気持ちを汲み取ってくれる。


 窓の向こうに広がるのは、雲ひとつない、晴れた空。

 シキは、竜騎士を解任してからずっとそうしてきたように、多くの感情をぴったり閉ざして執務にとりかかった。

 街の中心地区にある礼拝堂で婚儀が始まるのは、午前十一時。あと一時間もすれば、ふたりは多くの人たちに囲まれて祝福を受けるだろう。

 礼拝堂には、麗しの花嫁にふさわしい、純白のカーネーションを集めた花束をすでに贈っておいた。

「……リジルとはじめて出会ったあの日から、わかってたことじゃないか」

 ぶ厚い束の報告書を指先で繰りながら、ひとりごちる。

 執務室には、黒竜王以外、だれもいない。

「なのに、リジルが仕事であってもずっと隣にいてくれればいいなとか、そんなふうに思うなんて、僕はつくづく――」

 ぱらっと羊皮紙をめくる音だけが、彼女のいない空間で、やけに大きく響いた。

「バカだなあ……」


 *


 純白のドレスに身をつつみ、純白色の大きな花束を抱えながら、リントヴルムは控え室の椅子に腰をおろして、ぼう然としていた。

 喪失感が少しも埋まらなかった。

 あの日から、ずっと。ずっと。

 黒竜王のとなりにいたいと願っても、それが許されぬもどかしさに気が変になりそうだった。

 ふと、なぜ自分はこんなドレスを着ているのか、と疑問に思った。

「そうか、結婚をするからか」

 ぼんやりとひとりごちる。

 幼い頃から決められた相手であり、アルウェン・メッシという人間に不満などない。よく出来た人格だし、だれに対してもやさしく、好青年だと断言できる。

 私生活ではつねに行動を共にしてきたし、家族同然の付き合いをしてきた。情がないはずはない。結婚も当然だと考えてきた。

 だが、と思う。

 情はある。きっと家族に対する愛情と同じものだ。

 だが、と思う。

 あるのは、情なのだ。

「わたしはアルに恋い焦がれたことはない……恋しいという感情を、知らずに生きてきた。それがどんなものかを、知る必要もなかった……けど、いまは……」

 花束を抱える力をいっそう強めて、リントヴルムは胸の底からやっと見つけた答えを吐き出していた。

「シキ……! わたしは、きみのことを……」

 そのときだった。

 控え室の扉が乱暴に開いたかと思うと、「鍵よ(ジョヴィン)!」と詠唱が聞こえた。扉の鍵が、勝手にガチンと掛かった。

 淡いイエローのパーティードレスのすそが、ふわっとなびく。

 ひとつにくくった茜色の髪をふってふり向いた人物は、

「きみは……アリア?」

「リジルさん、聞いて! こんなときに言うのは反則かもしれないけど……チャンスはきょうしかなかったから」

 アリアが、リントヴルムの両腕をしっかりとつかんだ。

 イエローのドレスの胸元には、ユリの花を象った紋章のブローチがついている。国立歌劇楽団の紋章である。

「黒竜王は――シキは、貴女の幸せのために身をひいたの! たぶん、貴女を側近から外したのも、ぜんぶ貴女のため。突き放さなきゃ、戻ってきてしまうでしょ? 竜騎士は黒竜王を守護する役職だもの、貴女が危険に巻き込まれないとは限らない。シキは、人間とは生き方がちがうから、人間のように貴女を幸せにしてあげられないって考えたんだと思う。実際、そうなのかもしれないけど……それに、貴女のとなりにはちゃんと、ふさわしい人がいるって、わかってる。わかっていて、シキは、ずっと、リジルさんのこと、想ってきたんだよ……!」

 アリアの叫びに、リントヴルムはぼんやりと耳を傾けていた。

 意図せず、ははっ、と乾いた笑いがこぼれた。

 こちらを見すえる大きな目に、大粒の涙がたまっているのを、リントヴルムはやはりぼんやりと見ていた。

「……まったく、わたしの幸せがなんであるかを決めつけるなんて、ひどい話だ」

 目じりが、目がしらが、ジリジリ熱くなるのを感じた。

 ふるえるくちびるを噛んで、大声をあげてしまわぬよう、ありったけの理性でもって、その衝動をこらえた。

「シキは、ひどいな……」

 ぽつっと、本音がこぼれおちる。

「あいつ、バカなのよ。いっつも、だれかのことばっかり優先して、自分は後回しにしちゃうんだから。バカシキ……バカバカ、ほんとバカ……!」

 アリアの目から流れ落ちた涙が、何度も、何度も床を叩いて、優しい音を創ってゆく。

「あたし、シキにも幸せになってほしいの。あたしは、シキの味方で、友達で、親友だから……だから、ごめんなさい、リジルさん……」


 抱きしめていた花束は、知らぬうちに、涙の雫で濡れていた。



 翌日、天候はそのまま晴空を保つことにした。むろん、雲の精霊はご機嫌であったし、嵐の精霊は早く出番にならないかとうずうずしていて、そのうち空が勝手に雷鳴をとどろかせて、暴風雨が吹き荒れるんじゃないかと考えてしまった。

 いまのところ、嵐の精霊が不機嫌になる気配はない。ただ、たまに寄越してくる不敵な笑みが、シキのほほを強張らせるだけだった。

 朝議をおえたとき、ふだんなら黒竜王が退席してから各重臣たちが議事講堂を出てゆくのだが、今朝はなぜか彼らが先に退席してしまった。

 立ち上がったシキが首を傾げていると、ふいに、きりっと身がひきしまる、冬の朝日のような匂いを感じた。凛とした気配。シキにとっても身近なものとなった、匂いであった。

 ただし、それを感じ取るのはずいぶん久しいように思う。

「黒竜王」

「リジ……トリスタン大佐……?」

 重厚な扉の閉まる音が、静寂にとける。

 議事講堂に現れたのは、リントヴルム・トリスタン――リジルだった。

 リジルは扉のすぐ前で片ひざをつき、胸に手を添えた。

「自分はもうあなたのおそばでお仕えすることは叶いませんが、国軍大佐として、生涯、あなたに命を捧げて北国のために尽くす所存です」

「どうして、ここへ……」

「結婚も、婚約も、自分のわがままで解消しました。……わたしの命も心も、あなたに捧げると決めたのです」

「そんな……」

 リジルはすっくと立ち上がり、こちらへすたすたと歩き出した。

「正直に申し上げると、わたしはあなたに恋心を抱いているらしいのです」

「は……?」

 リジルの歩調は変わらない。

「つまり好きになってしまったということだ」

「えっ」

 距離が縮まる。

「許されるのなら、きみだけのとなりにいたい」

「なっ」

 すぐ目の前までやってきた。

「黒竜王に身も心も捧げたいと、昨夜、父上に告白したら卒倒してしまって、屋敷を出るときもまだうめいていた」

「ちょ……」

 そして、シキの前にさっと片ひざをついて、恭しく手をとった。まるで、お姫様に求婚するどこかの国の王子様のように。

 リジルのまなざしは、まさにそれだった。

「きみに抱いた感情の正体を知ってしまったいま、無視なんてできない。きみのことが好きなんだ、シキ」


 なるほど。

 いまなら卒倒してしまったリジルの父君、アーサントの気持ちがよくわかる。

 背後にファーっと倒れゆくシキは、そんなことを考えながら意識を飛ばした。

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