レディ・カラマンシカの手鏡
季節は東国でいうところの、残暑の夏。
北国も暦上は八月下旬――つまり、夏の終わりにさしかかっていた。それにもかかわらず、天候は相変わらずの曇天で、冷気をたっぷり含んだ寒風が予断なく吹きつけている。
太陽という存在はほとんどぶ厚い雲の向こう側に隠れたまま、百年が過ぎ、かわりに雲の切れ間からときどき見える二つの月も、このところ灰色で塗りつぶされていた。
北国全土が陰鬱なかげを背負っているようだった。
シキは学校にも寮の生活にもやっと慣れてきたころ(ユーリから無視されるのは別として)、キリクの助手がすっかり板についていた。
朝早くから魔法学教務室の棚整理の手伝いで、ひとりのんびりと埃を払っていたときである。
まるで、だれかがシキを呼ぶように、音を奏でたのだ。
いまから十五分ほど前、この教務室の主であるキリクは、一時間目の授業で必要な教材を取りに、シキを残して資料室へ行ってしまった。だが、部屋は退屈するようなありきたりなものではなく、ブリキの昆虫がブンブン羽音を響かせ宙を飛び回ったり、小人が小物を担いで行進し、動物の剥製が身震いするような、面白おかしい造りになっている。
シキは棚に並ぶ不思議な置物の数々を、気軽に眺めやった。
やや経って埃を払うことにも飽きてきたころ、大きなあくびをひとつこぼしたまさにそのとき。
突然、からん、となにかが落下した甲高い音が、狭い教務室に波紋を広げた。
シキは反射的に音のするほうへ目をやる。すると、無数の棚のうち、本やなんだかよくわからない模型を押し込むのっぽの棚の隙間に、きらりと光るものが見えた。
「なんだろ」
引っ張り出してみると、それは古ぼけた手鏡だった。
手のひらに納まる大きさの手鏡は、木枠に精緻で美しい彫刻がぐるりとめぐっていて、相当古いものだろうか、すすけた色味は古色蒼然としていた。くすむ鏡面はすっかり輝きを失っているため、シキの姿はほとんど映らずにぼやけている。
「おかしいな。さっき光ったのって、この鏡じゃなかったのかな……?」
なんの気なしに、ぐいっとぬぐってみたその刹那。
耳が遠くなるような、耳が詰まるような、不思議な感覚が全身を支配し、耳と目がぺしゃんこにつぶれてしまう気がした。すぐに聴覚が戻ったために、陥没は免れたようだ。
シキは恐る恐るまぶたを開け、はっとあたりを見るや、見覚えのある景色と身を刺すような寒さに、思わずからだを抱きしめた。
鉛色の空に寂れた町並み、ぱきっと冷え切った音をたてる地面、わずかに生える痩せこけた木。なによりも、道端に点在する、布をかぶったもの。
背筋にぞくっと震えが走った。
「そんな……ここってまさか、一番最初に来た――町……?」
煉瓦造りの古びた家屋が肩を寄せ合い、正面には貧相な役場が居を構えている。リュゼと待ち合わせの約束をした、あの建物だ。屋根のてっぺんには翼を広げた竜のオブジェ。だが、以前はそこまで気づかなかった。
役場はやはりひどく閑散としていて、ほんの数人が路地をうつむき加減に歩いている。
「どうなってるんだ? 僕……学校にいたはずじゃ――」
疑問と不安がない混ぜになり、きつく握った拳にじっとり汗がにじんでいた。
リュゼもキリク先生もいない。まさか、白昼夢でもみているのだろうか、とシキは自分の左頬をぱしんと叩いてみた。
「いったぁー……!」
叩くべきじゃなかった、といまさら後悔しても、時すでに遅し。
「でも、どうしよう。とにかく学校に戻らなきゃ……」
ふと、右手になにか硬いものを握っていたことに気づいて、視線を落とす。それは、いましがたキリクの部屋で見つけた木製の手鏡だった。
「この鏡のせい、とか?」
訝しげに、今度は鏡面のふちを指でなぞってみる。
すると、なんの前触れもなくふたたび耳が遠くなった。目を硬くつむって耐えしのぎ、奇妙な感覚が薄れるのと同時にまぶたを持ち上げる。
驚くべきことに、景色は教務室へと立ち戻っているではないか。
ぼう然と部屋全体を見回した。
ブリキの昆虫がシキの頭に衝突して、ごつんと床に落ちた。それで、やっと放心状態から抜け出したシキは、手にする鏡に目をやった――。
「終りましたか? シキ」
「ヒエッ」
突如背後から声をかけられ、シキの足が床から浮き上がる。教材を手に、キリクが教務室に戻ってきたところであった。
「あっ、あの、もう少しなんです、けど――」
「けど?」
真っ青な瞳がシキを凝視している。
シキの喉がごくりと上下した。
キリクならば、頭が変だと笑い飛ばすことはないに違いない。
いましがた体験した、奇妙な出来事の答えを知っているんじゃないだろうか。思い切って聞いてみるべきだ。と、直感がいう。
「……キリク先生、これって、なんですか?」
一見なんの変哲もなさそうにみえる手鏡をキリクに差し出した。勝手に棚から持ち出したことで怒られてしまったら、あとで謝ろうと心に決めて。
ところが、シキの決意もわずか数秒ののち、杞憂におわることとなった。
「ああ、これはレディ・カラマンシカの手鏡ですね……よく生徒が魂を抜かして面倒ごとになったから、棚の奥にしまっておいたはずなんですが」
まったく怒る素振りも茶化す素振りもなく、キリクはシキから手鏡を受け取り、検分するようにくるくると裏返した。
「もしかしたら、シキに拾ってもらいたかったのかもしれませんよ、彼女は」
ひらひらと手鏡をふってほほえむ。
まさか、とシキは目をくるりと回した。
「手鏡にそんな意志があるはずなんて……」
「ふつうは、ないでしょうね」
そういったキリクの声は子供のように弾んでいる。
昼休み、もう一度この教務室に来る約束をして、シキは一時間目の授業へと向かった。
「レディ・カラマンシカの手鏡? なにそれ?」
向かい合わせの席に座るアリアが、デザートのキャラメリーゼをつつきながら、小首を傾げた。
「よくわかんなかったんだ」
シキもアリアにつられて、ものすごく甘そうな焼き菓子の皿に手を伸ばした。その隣で、ウルトがいかにもまずそう、といった表情を作ってうえっと舌を出す。
広々とした食堂に、一年から三年までの各クラスの生徒たちが細長の机を囲み、それぞれグループを作って昼食をとるなか、シキとウルト、アリアとフェイメルは顔を合わせて座っていた。はじめこそユーリもいたのだが、シキが気づいたときには食器を片付け、いつの間にかいなくなってしまっていた。
「レディ・カラマンシカというひとは、魔術師であり上級精霊使いでもあった、と本で読んだことがありますわ。もう何百年も昔のひとですわ」
フェイメルが口をナプキンで上品に拭っていう。
さすがフェイメルちゃん! とウルトが声高に騒ぎ出したのを無言でやり過ごし、シキは魔法学教務室へ行く名目で、そろりと席を立った。
「レディ・カラマンシカ……実在の人物なんだ……」
レディ、と付くからには、女性なんだろうな、とぼんやり考えながら。
シキは教務室の扉を前に、銀色のプレートに綴られた、流麗な横文字の字体をまじまじ見つめた。
北国の字を読み書きするのは苦手だが、しょっちゅうここに出入りするため「魔法学教務室」の綴りの読みは完璧だった。
扉を三度叩けば、どうぞ、とのんびりした声が返ってくる。
一礼して教務室に足を踏み入れると、キリクが先の手鏡と椅子を用意してにこやかに出迎えてくれた。
「これは、レディ・カラマンシカの手鏡といって、摩訶不思議な力が宿っているんです。レディ・カラマンシカとは、初代黒竜王の専任騎士を務めた女性で、魔法学校とも繋がりが深いのです。この手鏡は、魔術師でもある彼女が残した遺品なんですよ」
手鏡は美しく幻想的な彫刻が施されてはいるけれど、鏡面は相変わらずくすんで光を宿さなかった。
これでは鏡本来の役割を果たすなど、到底できそうもない。
「先生、専任騎士って、なんですか?」
「竜王を護衛するための専属の軍人ですよ。竜騎士、とも呼称されています。もちろん、竜王とは国でもっとも強靭であって高貴な存在ですので、本来人間の助けなど必要はないんですけれどね」
キリクは笑ってつづけた。
「その専任騎士の遺品である手鏡には特別な力が込められていて、指でこすった者は――人間でも、それ以外の者……たとえば、悪魔であっても――吸われるのです。もちろん肉体ごと。つまり、この北国のありとあらゆる場所へ移動できる代物なんですよ。正しく使えば、行きたい場所やなくした物を探すことだってできます。ただし、強く願う心がなければいけません」
キリクは、授業についていけない生徒と接するように、『ただし』をゆっくりとした口調で強調した。
シキが首をかしげると、魔法学の教諭は軽やかに笑って、鏡面を指でこする。
それは、突然だった。