禽麗のノルディカ
学校の屋上に降り立ったとたん、身を切るような冷たい風がシキをなぶっていった。ここは地上九階のさらに上。コートがないため、より寒さが身にしみる。
よく考えてみれば、雪があまり降らない七月だってコートが必要なのに、まさか冬期にシャツとスラックス姿で外に出るなんてほとんど自殺行為としか思えなかった。僕が特殊だから、「寒いな」くらいで済んでいるのだろう。
――いや、と口の中でつぶやく。
『特殊』とか『人とはちがう』なんて、自分を守る言葉はもう、使うべきじゃない。もう、自分が何者であるかを知ったし、認めたのだから……。
口を引き結んだとき、ここまで運んでくれた悪魔の姿がないことにふと気づいた。
金色の影を求めて、屋上のへり――扶壁まで進み出る。そこで、絶句した。眼下に広がる光景が、そうさせたのだ。
雪に覆われていたはずの敷地は、まるで爆撃を食らったようにあちこち地面がえぐれ、めちゃくちゃに破壊された石のタイルと土とが混ざりあい、雪を泥色に汚していた。随所に黒煙が立ち昇っている。
視野を、ゆっくりと広げていった。
校舎裏の森が、燃えていた。
葉の一枚が火にまかれ、あっという間に灰となり、つぎの葉が燃える。
木々が火だるまになって、バチバチとけたたましい音をたてていた。それが彼らの悲鳴だった。
「先生」
地上に目を向けたまま、たったいま隣に現れたキリクへ、声をふりしぼった。
「これもペンドラゴンの仕業なんですか……?」
「ええ。奴の放った闇の魔術師が、校長先生の首を獲りに来ているのです」
まるで他人事のように淡々と説くキリクに、シキは目を見張った。
暗灰色のマントをはためかせる悪魔は、こんな状況にもかかわらず、なぜかいっこうに動こうとしない。それどころか、彼の青い目さえ、地上を見据えたまま動かないのだ。
「先生、このまま放っておいたら、また学校が――」
「逃がしませんわよ!」
突如とどろく、ヒステリックな声。
「明光にひれ伏さん!」
そうかと思いきや、いきなりシキの足元にまばゆい光があらわれ――驚くいとまもなく炸裂した。
情けない叫び声をひとつあげて後ろに飛びのいたとき、「おや、さすがに校舎の保護魔法だけは解除していませんでしたか」などと鷹揚にいうのはキリクであった。
「んまあ、わたくしの魔法をはじき返すなんて!」
「くそっ、くそっ! たかだか教師ごときに、この俺が防戦一方など……!」
雪が踏み荒らされた玄関前の前庭で向かい合うふたりの人物。
独特のきんきら声とド派手なピンク色のドレスを着こなす人物は一人しか知らない。もう一方は、黒いマント姿の男だった。いわずもがな、闇の魔術師である。
「双蝕だぞ……双蝕だったというのに、なぜ、貴様らを倒せない……!」
歯をくいしばる男は、魔獣じみた迫力を前にして、自分の足が震えていることにやっと気づいたらしい。
「ちくしょう、この、三流の魔法使いが!」
残る勇気をふりしぼり、昏い雄叫びをあげると、男は刺青まみれの右手からどす黒い矢を放った。すかさず、相対する巨体が鋭く右手をふる。
強烈な白光があたり一面を、文字どおり光速で駆け抜けていった。目もくらむような光芒。
やがて光が収縮し、硬く目をつむっていたシキはうっすらとまぶたを持ちあげた。
地上は地吹雪でけぶり、白で覆われている。
「アザリー先生!」
ようやく地吹雪がおさまった戦場にひとり屹立する者は、魔獣――もとい、ココスロベンヌ・アザリー教諭だった。
キリクが満足げに口の端をくっと引いて、
「おみごと! さすがは一流の魔法使い」
朗々といった。
「すごい……アザリー先生って、じつはかなりはすごい先生なんですね?」
「古株のなかでも、それはもう」
キリクののどが、楽しげにくつくつと鳴っていた。
と、アザリーの丸い身体が雪を漕いで――むしろ雪を蹴散らすように動きはじめた。倒れ伏す男の胸ぐらをむんずとつかんだと思いきや、ムチムチの腕をぶんとふりかぶる。
「さっきはよくも言ってくれましたわね? だれが肉団子ですって?」
ぱぁん、とすさまじい平手打ちが炸裂した。
「あたくしの、どこをどう見て、そう思ったのか、おっしゃい!」
つづいて反対側の頬を手の甲で打つ。かなり良い音がした。
「んまっ、聞いていますの?」
今度は胸ぐらをゆすり、それにあわせて、白目を剥く男の首がガクガクゆれていた。
シキの知るかぎり、いまだかつてあのアザリー先生に面と向かって「肉団子」といえた生徒は一人もいない。なるほど、敵ながらあっぱれである。
「たとえ闇の力が強まる双蝕であっても、先生たちは誰も彼も優秀ですから、闇の魔術師ごときに敗れるはずはありません」
まあ、相当の人数を相手にして、それなりに苦戦を強いられたでしょうが。と、つけ加えて、キリクが苦笑した――そのとき。
「三日月に裂けよ」
突如、頭上から呪文が降ってきたかと思いきや、見上げたすぐ目の前に赤いマントが迫った。
「おっと」
「いだあっ!」
シキの顔に鋭い痛みが走る。顔面を四本の鋭い爪が斜めに切り裂いていった。
キリクがさりげなくシキを盾にし、ひらめく魔法から自身を守ったのだ。
たまらずしゃがみ込むと、正面にだれかが音もなく降り立った。
「なんだ」
その人物――いや、猫がいった。
「闇の気配があったから来てみたのだが、パーシヴァル卿であったか」
肩透かしをくらった、とでも言いたげな表情で肩をすくめたのは、悪魔学教諭のコンスタンティンである。
「コンスタンティン先生、さすがに私もびっくりしましたよ」
「いだだ……先生たち、ひどい!」
ヒリヒリ痛む顔を手で押さえて、ちょうど目線の高さにあるコンスタンティンの顔をにらむと、彼はきゅっとつりあがった猫目を散瞳させ、一度、しばたいた。
「すまん」
言ってのち、やおら老猫は目をすがめると、非難がましくキリクを仰ぎ見た。
「卿も謝りたまへ」
「シキなら魔法での攻撃が効かないので、ここはひとつ助けてもらおうと思ったまでで……」
悪魔の先生は「いやあ、すみません」と、ずいぶん軽い調子で苦笑するだけだった。きっと悪意はない。悪意はないのだろうが、せめてもう少し心を込めてくれたら……と、シキの心中は複雑だ。
「吾輩の爪を魔法で強化しただけよ。……おや、もう引っ掻き傷が消えたか」
「猫の爪がこんなに痛いなんて……」
「なにぶん、研いだばかりでな。まあしかし、これでようやく闇の魔術師は全滅だ」
「全員倒したんですか?」
「うむ。あとは上手くやってくれたまへよ、黒竜王殿」
最後ににゃあと鳴いて、コンスタンティンが屋上から軽々身を投げた。姿が消えるその瞬間までを見届けると、ちょっとだけ肩の力が抜けていった。
「なるほど、どうやら学校側は問題なさそうですね」
「はい」
「シキ、仕上げをしなければ」
「仕上げ?」
「そう、魔術師の放った火を、消さねば……」
独り言のようにつぶやくキリクが、やおらこちらに顔を向けてきた。
「きみはもう精霊と対話することができますね? 黒竜王は精霊と契約なしに、彼らの力を借りることができます」
「精霊の力を、僕が?」
「きっと、応えてくれます」
人間でも悪魔でも、幻魔獣でもない存在の、ちいさなひとたち。はじめて会話をしたのは、リジルの精霊、青い髪の美少女――水の精霊……そうだ、彼女がいっていた。精霊の姿や声が聞こえて、心の中で話ができるのは黒竜王のみ……。
シキはひとつうなずいて、すっかり離ればなれの双子の月を仰ぐようにあごをもち上げた。まぶたを閉じる。
すっきりとしない、凍てる空気の匂いがあった。
応えてくれるだろうか?
――こんにちは。
なんの反応もない。しかしシキは辛抱強く、待った。
しばらくすると、空気の匂いがかすかに変化するのがわかった。湿った草木、あるいは土の匂い。ちがう、これは、雨の匂い……?
(ごきげんよう、黒竜王)
そうだと確信したまさにそのとき、ほんのちょっと気位の高そうな、つんとした声がすぐそばで聞こえた。
やはり無理かもしれないと思っていた反面、応じてくれたうれしさに、目を閉じたまま笑みがこぼれた。
――はじめまして。きみは、雨の精霊?
(さようでございます)
――じつはお願いがあって……きみの力を借りたいんだ。
また、沈黙がおりた。
もしかして機嫌を損ねてしまったのだろうか。そんな不安が心のなかに暗雲のごとく立ちこめて、シキはおそるおそる目を開けた。
くせのない、腰まで垂れた青い髪。声のとおり、勝気に感じられる目鼻立ち。だが、アンダインに負けず劣らずのかわいらしさ。そんな手のひら大の美少女が、鼻先に浮いている。それも、きょとんと目を丸めて。
(……黒竜王、あなた様は本当に黒竜王なのでしょうか?)
やっと口を開いた彼女の質問の意味がわからず、シキは少し首を傾げてみた。
――えーと、うん……?
(わたくしが言いたいのは、つまり、こんなに気性の穏やかな黒竜王にお会いしたことがなくて……。いいえ、まるで人間のよう。だって、過去の黒竜王は、わたくしたちのことを、その、)
雨の精霊は一度言葉をきって、まるでたったいま侮辱されたといわんばかりの、苦い表情を浮かべた。
(羽虫としかお思いでなかったもの)
――……きみたちをそんなふうに考えるなんて。
(……ですから、黒竜王が精霊にものを頼むなんてことは、前代未聞ですわ。頼むのではなく、命じるものですもの)
――変かな?
(変わっておいでですわ)
肯定されたというのに、なぜかおかしくなって笑ってしまった。
――そうだね。なんていったって、僕はヒトの子だから。
ずっと警戒心の衣をまとっていた雨の精霊が、ふいにそれを脱いで、勝気な目もとに安堵を浮かべた。ゆるめたくちびるに、ことさらやわらかな微笑を刻む。
(……その御方が、あなた様にたくさんの愛情と優しさを注いだのですね?)
――……そうだね、父さんが僕にくれたものは、全部そういうものだったよ。
(ああっ、なんということでしょう!)
熱っぽい感歎の声をあげた美少女は、踊り子みたいな軽やかさでくるりと回った。なめらかなスカートがふわりとなびく。
その背に生える薄羽は、曇天のもとであっても、まばゆい輝きを放っていた。
(どうか、どうかずっとお優しい竜王でいてくださいませ)
シキのお願いを最後まで聞かずに、彼女は身をひるがえした。そのまま高く、高く舞い上がる。
黒竜王がなにを望んでいるのか、知っているかのように。
まもなく、空から雫が降ってきた。
ぽつ、ぽつと、優しく穏やかな旋律を奏で、それが次々と降ってくる。
雨。
積もった雪の上に、あるいは校舎に、あるいは闇の魔術師の残滓ともいえる炎に、雨が落ちてゆく。
曇天に目をくれると、一瞬、雲間の一部がパッと明るくなり、そこから一筋の光が射した。
すぐにいくつもの斜線が地上に伸びて、もう、いつぶりかわからぬ陽光が、優しい雨とともに大地へ注がれていった。
「あっ」
厚い雲が、切れる。
そこには、青々とした空が隠れていた。
この百余年、北国の人々が恋い焦がれてきた、まったき青天である。
そしてその空に、七色の巨大なアーチが描かれた。
「キリク先生、虹が……!」
「きっとこれは、サービスなんでしょうね」
口もとをほころばせるキリクもまた、この瞬間を待ち焦がれてきたひとりなのだろう。
この青空と同じ色の目を、まぶしそうに細めていた。
シキの胸にともる熱がまだまだ温度を上げるなか、となりに立つ紳士がおもむろに懐からなにかを取り出し、それを目の高さまで掲げた。
「さて、長い眠りから覚ましてあげるときがとうとうやってきました。どうか怒らないでくださいね」
金色のコンパスであった。それは、東国において幼いシキがキリクから受け取り、この北国で再会したおりにキリクに返した、あのコンパス。
キリクはそれを親指でやさしく撫でつつ、もう一方の手で、懐から教鞭を抜き取った。
「この瞬間まで存在を知られてはまずかったもので。それに、別々にしておかないと、万が一にも魔法が解けてしまったら台無しですからね」
シキにはそれがどういった意味であるのか、わからない。
まず、なにを別々にしたと?
その疑問に説明がないまま、キリクはコンパスにコツンと教鞭をあてた。すると、そこから極彩色の霧がはき出され、教鞭にふうっと吸い込まれてゆく。
「まずは魂を、器へお返しします。つぎは――」
不思議な光景をぽかんと見つめるシキに、キリクがぱちりとウインクを打った。
極彩色に輝いた教鞭を、青天に向けてぽいと放る。
「在るべき姿に戻れ!」
刹那のうちに、教鞭が、金色とも真紅ともつかぬ優美な鳥に変身した。長い尾をたなびかせ、それが優雅に羽をうって舞い上がる。
「禽麗……!」
「そう、東国では禽麗と呼ばれる鳥……そうですね、シキの言葉を借りると――」
北国の上空に、この世で唯一竜王の存在を知らせる幻獣、吉鳥ファルケスが壮麗な輝きを放ちながら、旋回する。
キリクがいっそう目を細めてこういった。
「禽麗の北国帰還」