竜騎士
*
「ちょっと」や「すぐ」は、はたしてどのくらいの時間をいうのだろうか。
とにかく、シキが考えるそれらの時間は、だいぶ前に過ぎていた。
「キリク先生、遅いなあ……」
抱えたひざにあごを乗せて、深々とため息をつく。
「なんでリジルを連れて行ったんだろ……」
まったくもって見当がつかなかった。
「いま何時かな……ウルトみたいに腹時計がないから、わかんないんだよなあ……」
はあ、とまた深いため息をつく。
吹き抜けのホールを支える柱のかげで、シキは次第に基地内が慌ただしくなってゆく音を聴き流しつつ、いつ戻ってくるとも知れないキリクを、忠犬さながらじっと忍んで待っていた。
幸か不幸か、三階へやってくる兵士は片手で数えるほどしかいなかった。もっとも、通路の床や壁はあちこち亀裂が入っているし、穴の開いた天井はすぐにも崩落しそうな気配が漂っているから、この階が無人とわかれば、わざわざ危険を冒してのぼってくる必要もないのだろう。
シキとしては「黒竜王だ」と騒がれる心配がなくて大変ありがたいわけだが、やはりこんな場所に長居はしたくなかった。
いつ床が抜けて一階まで真っ逆さまになることやら……。
そうやって悶々としているうちに、時間だけが刻々と過ぎていった。
「まさか僕を置いて学校に戻っちゃってたらどうしよう……!」
「悪魔といえども、そこまで薄情ではありませんよ」
いきなり降ってきた声にぎょっとしてシキが顔をあげると、そこには微苦笑を浮かべたキリクと――
海を閉じこめたような碧眼、鮮やかな金の髪、美の女神然りの女性は間違いようもない。いまにも泣き出しそうな顔で、リジルが目の前に立っていた。
「シキ!」
えっと思ったときにはすでに顔面は柔肌――それも、女神の胸に埋もれていた。
「ほんとうにすまなかった……! わたしは、シキにひどいことを……!」
「うぐ……」
頭を抱え込むように抱きしめられ、ほとんど息ができなかった。おまけに、心臓は狂ったように暴れて、もう手がつけられないのだ。
いやいやしかしそんな些末なことはさておき。
とにもかくにも、ほどよい弾力かつ寮の羽毛布団よりも心地よいこの感触から早く逃れなければ、色々まずいことになる。色々と。
まだ理性があるうちに、早く――。
「わたしはきみを傷つけ、あまつさえあんなに残酷な罵声を――」
「お嬢さん」
まだまだつづきそうな懺悔をさえぎった声の主は、キリクであった。
「そろそろシキを離してあげないと、がまんの限界がきてしまいます」
「そ、そうか。――すまなかったシキ」
リジルがあわてて腕をほどき、軟体動物みたいにへにょへにょになったシキを引き起こした。
キリクは目をすがめて言い添える。
「竜王といっても、男の子ですからね」
「うん?」
「……おや、思いのほか察しが悪いようで」
大仰な仕草で、はーっとため息をついたキリクに、すかさず「なんだと?」と剣のある声が飛んだ。
涙でうるんでいた美の女神は、すでに夜叉へと変貌していた。
「おや、ついさっきまでふるえていたというのに……さすがは氷の女王様」
「勝手なことをいうな! このうさんくさい悪魔が!」
「なんという暴言……これだから悪魔拒絶者の方々ときたら」
「なんだと!」
口論というよりは、ただの悪口にしか聞こえない。
しかし以前と変わらぬこのふたりのやり取りを見ていると、シキはなぜだか胸の裡がだんだん落ち着いて、つい先ほどまで昂っていた熱がいつの間にか引いていた。
「リジル」
控えめに呼びかけると、われに返ったリジルがはたとこちらを向いた。
「僕のことがわかるんだね?」
「…………ああ」
わずかに声をつまらせて、リジルが小さくうなずく。苦しげな、切なげな表情が、シキの胸をきゅっと締めつけた。
リジルの両腕がそっと伸びて、背中にまわった。
少し背伸びをするような格好で、今度はリジルがシキの胸に顔をうずめる。
「ぜんぶわかるよ……すまなかった、シキ……!」
「よかった、記憶が戻ったんだね」
「ああ、そうだ、なにもかもだ……」
自分の腕のなかにリジルがいるにもかかわらず、こうも冷静沈着でいられる理由は、もしかすると、彼女の涙声のおかげかもしれない。
「ウルファートが彼女の記憶を戻してくれたんです」
キリクがさりげなく、そう言葉を添えた。
「ウルトが?」
「ええ」
いったいどういう経緯があったのだろう。だが、いまはゆっくり訊ける雰囲気でないから、あとでキリク先生かウルト本人に聞こう。そうだ、ウルト会って聞くのがいい――。
ふいに、背中にまわる腕の力が、やや強くなった。
「たとえ記憶を失っていたとしても、シキをあんなふうに傷つけてしまうなんて、わたしは最低だ……!」
「そんなことないよ。僕はもう平気だから。それより、リジルがもとに戻ってほんとうによかった……僕、リジルに嫌われたままだったら、どうしようかと――」
数瞬、海馬の奥底にあった記憶が鮮明に、あるいは生々しくよみがえる。
顔から火が出るかわりに、サーッと血の気が引いていった。
そうだ。
そうだった。
僕はいつぞや地下牢で、リジルに……!
『きみのことが好きだから』――なんて、その場の勢いで告白したんだった……!
すでに体を離していたリジルが、きょとんと目をまたたいた。
「シキ? どうしたんだ? どこか痛むのか?」
ぐいっと顔を近づけてくるリジルと目を合わせないようにし、ほおを引きつらせて必死にかぶりをふる。
「なんでもないよどこも痛くないしあれはそういう意味じゃなくて好きっていうのはなんていうかそう友達、友達として!」
息継ぎもなく、早口で言い切った。
「はあ……?」
さしもの上級精霊使いとて、さすがに心の内までは読めないのだろう、リジルは長いまつげをしばたいて、不思議そうに小首を傾げた。
「さて」
と言ったキリクが、ぱんと両手を打つ。口もとにゆるく弧を描いていた。
「じつは、ふたりに会わせたい方がいるんですが……よろしいですか?」
「こんなときに、だれを――」
リジルが言い終えぬうちに、しゅっと衣擦れの音がしたかと思いきや、キリクの隣に白いローブがひるがえった。
魔法で現れたその人物は、ところどころ焦げて穴の開いたローブをまとう、アーサント・トリスタンである。
「父上?」
「リン! ああ、おまえが無事でよかった、本当によかった……!」
父娘は互いに伸ばした手をとりあって、肉親のみに許される固い抱擁をかわした。
アーサントの海の色の目から涙がつうっと流れ、小刻みにふるえる頬を伝ってゆく。
「おまえを人質に取られて、わたしはどうすることもできなかったのだ……許してくれ……」
「人質? まさか、父上はペンドラゴンに脅されて……?」
「なにもしゃべってはならぬと……ああ、だがおまえがもとに戻ってくれたなら、もうよい……よいのだ……!」
しばしアーサントは、か細い嗚咽をもらしながら、愛娘をいっそう強く抱きしめた。
ややあって、濡れそぼった顔がこちらにふっと向き、
「陛下」
アーサントがゆっくりとひざを折る。はじめて会ったときのように、恭しく両手をついて、床に額を押し当てた。
「娘を救っていただきましたこと、心より御礼申し上げます」
「いいえ、アーサントさん、顔を上げてください。僕はなにも――」
「トリスタン殿」
シキの声に被せて、キリクがぴしゃっと言い放つ。
「黒竜王のご慈悲をけっして忘れてはなりませんよ」
「もちろんでございます、生涯忘れることなどいたしませぬ……!」
「黒竜王陛下と北国のために尽力なされよ」
アーサントの眼前でささやく悪魔は、さも部下に命じるような物言いで言ってのけた。
「陛下……この老獪、命尽きるまでお仕えいたします」
リジルを救ったのは僕じゃなくて僕の友人だ、と口をはさもうとした矢先に、キリクが人差し指をくちびるに添えて、しーっと無言で語る。
そういうことにしておきましょう、と。
シキが口をつぐむと、久方ぶりのウインクが飛んできた。
「シキ――いえ黒竜王……」
いつの間にか、リジルも父と同じように床にひざを落とし、だがしかし顔だけは上げたまま、黒竜王をひたと見つめている。
「自分はどんな罰でもお受けします。その覚悟はすでにできております。自分は黒竜王を守護する立場にありながら、その守るべき黒竜王を貶めました。もはや竜騎士の称号とて……」
声がふるえていた。それはきっと罰を受ける恐怖ではなく、友を傷つけてしまったことへの自責の念からだろう。リジルはそういうひとだ。
シキは静かに、そっと口火を切った。
「僕はなにも気にしてないよ……。リジルも、アーサントさんも、提督のふりをした悪魔に利用されてた。それだけだよ。ふたりは軍人としてやるべきことをやったと思うし、最後は、僕を信じてくれたじゃないか」
ね? と目を細める。すると、リジルの青く澄んだ眼から、ぽろっと涙が転がった。
叩頭するアーサントもまた、顔を伏せたまま、背中を小刻みにふるわせている。
「シキ」
肩に、手套をはめたキリクの手が乗った。
「トリスタン嬢は、黒竜王をもっとも近くで支える専任騎士――俗にいう、竜騎士の家系の、継承者です」
「専任騎士……って、前にどこかで……」
記憶の深い部分を手で探る。
ふと、すぐにひとりの女性の名前が浮かんだ。
「レディ・カラマンシカ?」
「そうです。初代黒竜王の専任騎士だったカラマンシカ・トリスタンの末裔が、リジルなのです」
キリクの上品な笑顔を見やり、シキは胸に手を置いた。会ったこともない人物だというのに、なぜだか急に、旧来の知りあいのような錯覚を覚えたのだ。
「竜騎士は黒竜王のかたわらにあって当然の存在。シキにとっても、大切な存在でしょう……?」
キリクがなにを言わんとしているのか、自分になにを言わせたいのか、そこで気づいた。だが問題ははたしてうまく言えるかどうかである。
こういうときに限って、淡い恋心がシキの足を引っ張ろうとするからやっかいだ。
くちびるを湿らせ、よし、と拳をつくった。
「リジル!」
うるんだ瞳が、まばたきもなく見つめ返してくる。
「……リジル、その――もし、もしよければ――竜騎士として、あー……僕の力になって、……ほしいのだけれど……」
もごもご。
完全なる竜頭蛇尾。
もっとしゃんといえよ! と内なる自分が声を荒げた。どうしていつも肝心なときにビシッと決められないんだ!
わかっているよ、と情けない返事しかできなかった。
シキは恥ずかしさとやるせなさに、思わず目を伏せた。沈黙。返事を待つわずかな沈黙さえも、ひたひたと忍び寄る魔物や魔獣のように恐ろしく感じる。
その恐怖を払うのはほかでもない、
「わたしにはもったいないお言葉――」
リジルだった。
まぶたを持ち上げた先に、この世で一番美しいと思える微笑をシキは見た。それは朝露に濡れた藍の花弁よりも、朝日をちりばめた鏡の海よりも美しい。
「このリントヴルム・トリスタン、命が尽きるまでおそばにおります。わが君……」
リジルが、深くこうべを垂れた。
「学校に戻らなければ」
眉間に剣を刻んで、キリクがだし抜けにそういった。
リジルと彼女の父アーサントは、軍の混乱を処理すべく、つい先ほど下階へ向かったところだった。したがって、この破損著しい三階フロアには、シキとキリクのふたりきりである。
「シキ、すぐに学校へ向かいましょう」
「はい。でも、どうやって?」
まさか徒歩で? と考えた矢先、キリクが懐から取り出した教鞭を宙にぴゅんとふった。
ほとんど間を置かずに、ごう、と旋風を巻き起こして獅子そっくりの、見るも恐ろしい獣がシキの前に現れた。
それはまっ赤な瞳の、金色の被毛の、巨大な獣。
これは、いつか教科書で見たことがある――悪魔学の本で――そう、アザリー先生みたいな巻き毛の上級獣系悪魔。
「……バルバス?」
シキに向いた獣の鼻が、かすかにひくっと動いた。
炎のようなまなざしが、シキをつま先から頭の先を舐めてゆく。
「そうか……あのとき僕を地下牢から助けてくれた『バルバス』は、あなただったんですね」
シキがほほえみかけると、彼はひとつまたたきをしただけで、うんともすんとも応えなかった。
――そういえば、前に会ったときもちょっとそっけなかったっけ。でもたしかあのときはヒトの姿だったのに……。
「四脚の姿のほうが、気兼ねなく乗れるでしょう?」
心中を読み取ったかのように、キリクがふふっと笑う。
「それでは頼みますよ、バルバス」
バルバスは恭しくうなずき、たおやかに両翼を広げた。