表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
100/115

王の器

 最上階が近づくにつれて、匂いが強くなっていった。

 甘露酒樹カンロシュジュ――。

 むせかえるほど甘く、くらっと目がまわってしまいそうな、そんな濃密かつ濃厚な樹木の香りによく似ている。

 だが、東国の深い谷底でその樹を前にしたおりよりも、はるかにこの気配においは鮮烈で――危ういほどにこ惑的……いっそ恐ろしくも感じられた。



 たどり着いた三階には、すでに向いあうふたりの姿があった。

 吹き抜けの広い空間。通路が入り組み、複雑なほかの階層と一線を画して、ここはゆったりとした造りになっている。下階の騒々しさから一転、静寂が支配していた。

 ホールを支える柱の奥に、白髪まじりの軍人――黒幕であるペンドラゴン。その手前に、シキがよく知っているようで、まったく知らないうしろ姿がある。

「キリク、先生……?」

 無意識のうちに、口を衝いて出ていた。

 数秒間をおいて、ビロードのマントがさらりと翻った。

「シキ……?」

 大きく見開かれた空色の眼には、さも道端でばったり遭遇したような、そんな小さな驚きがふくまれていた。むしろ、本当に驚愕の表情になったのは、視線がわずかに逸れた、そのあとである。

「そうか……貴女がシキを連れ出してくださったのですね……トリスタン嬢」

「――……あ」

 矢のようなまなざしに射抜かれて、リジルがみるまに青ざめてゆくのが、となりにいるシキにはよくわかった。いつだって凛然と構える彼女が、いまは焦点を結ぶことすらままならない様子で歯を鳴らしている。

 それを黙って眺めていたキリクが、くちびるに笑みを挟んで、青い眼をまたこちらに戻してきた。

「やるべきことを終えたら、一緒に戻りましょう――学校へ」

 やっとマントが翻ったとき、リジルがその場にすとんとしゃがみ込んだ。糸を切られた操り人形みたいにくずおれた、といったほうが正しいかもしれない。

「リジル?」

 とっさに支えたシキの問いかけにも、反応らしい反応はない。小刻みにふるえる身体を自分自身で抱きしめ、リジルはいずこかへ目線を置いたまま、動かなくなってしまった。

「私の魔力をまともに感じているのです。人間にしては、よくもっている(・・・・・)ほうですよ」

 かわりに、キリクが午後の天気でも話題にするような気楽さで応じた。

「悪魔が、おそろしいのでしょう」

 シキはいま一度、暗灰色のマントの人物を見やった。

 ひとつにくくった(ただしいつもより高い位置である)髪はキャラメル色であるし、背丈もすらりと高く、品性漂う立振る舞いはふだんとなんら変わりがない。

 それなのに、やはり知らない背中に見えるのはなぜだろう。

 年齢を訊いたことはなかったが、教鞭をふるっているときよりも、ふり向いたときの顔立ちは若いようにも思えたし、背中には黒い翼がのぞいていた。それに、耳のふちにたくさん並んでいた色とりどりのピアスはどこへやったのか。なにより雰囲気がまるで違う。かつてはこんなに鋭利じゃなかった……。

 キリク先生とは似て非なるもの――そこまで考えて、唐突にひらめいた。

 ああ、そうか。

 いつもやさしくて朗らかな紳士だから、すっかり失念してたけど、キリク先生は悪魔じゃないか。僕は『キリク・パーシヴァル教諭』しか知らない。僕は、悪魔としてのキリク先生を、なにひとつ知らないじゃないか。得体の知れないおそるべき気配を放つこの背中こそ、もしかしたらキリク先生の本質なんじゃないのか? 

 まったく、いまさらだ――。


 *


「地獄を逃げ出して人間の世界で王になろうとは、なんと愚かしい」

 青く燃え上がる瞳に射止められて、ペンドラゴンが声にならない声をあげた。身体の震えはもはや自分の意志ではどうにもならぬのだろう、治まるどころか、いっそう激しさを増している。

「幼いフェイメル・モルガーナを利用して軍に身を置き、野望のために努力を惜しまなかったお前には心底驚かされた……」

 ルキフェルが一歩踏み出せば、ペンドラゴンが一歩後退する。

「しかし、お前が北国の王を気取るには分不相応だ」

 嘲笑の声色に、ペンドラゴンは血がにじまんばかりにぐっと下唇を噛んで、目の前の絶対的脅威と正対しようとした。

「とはいえ、私もガヴェインも一度敗れたことは事実。それは認めよう。だが、一つ誤算だったな、ヴァルベリト? 私の大切なものに手をかけるとは、それは万死に値する……」

「……な、なぜ、おれの、本当の名を――」

 歯のすき間から声を押し出すペンドラゴンを見、悪魔の帝王はただひやりと口で弧を描く。

 そのとき、この場にはないはずの、女の声が全員の耳介をつんざいた。

「閣下……!」

 軍服姿の仮面の女――グェネヴィア・キエである。

「お探しいたしました……閣下!」

「キエ、なぜ……ここに……」

 おぼつかない足取りでやってきたキエが、ペンドラゴンの軍服にすがりつく。怪我らしい怪我はどこにもないが、なぜかいまにも絶命寸前といった様子だ。

「ああ、オルデンは死に、基地は燃えています……お助けください……わたしは、わたしはまだ、死にたくない……!」

「離せ、キエ!」

「閣下、お願いでございます、あのクソ女を殺してください、閣下っ……!」

 キエは、仮面の内で泣いていた。

「この、役立たずの下等な人間め……!」

 ペンドラゴンは軍刀を抜き放つと、脚にからみつくキエの手をためらうことなく――刺した。

「ギャアア、アアアッ――」

 絶叫。

 動物じみた叫び声が、閑散とした三階全体に突きぬけてゆく。

 無骨な色味の床に撒き散らされる赤は、なんだかみょうに浮いて見えた。格式ある武の砦には、あまりふさわしくないようにも思う。

 激しくもんどりを打つキエを横目に、ルキフェルはただ苦笑した。

 そのまま軍刀の切っ先が悪魔の帝王に向けられる。しかし剣身がこうもガクガクふるえていては、狙い定めるのもむつかしかろう。

「なんと、往生際の悪い」

 ルキフェルはくつくつと冷笑を浮かべると、おもむろに指先を国軍提督閣下へ向けた。

 どうしてやろうか。

 正体を暴いてから首をはねて、基地の門前に置くのがいいか?

 いやいや、民の前で懺悔させてから火刑に処すのがいいだろうか? それとも――。

「ペンドラゴン提督!」

 思考をさえぎる怒声が脳漿のうしょうを貫いてゆく。

 出どころをたどると、そこには先ほどまで震えて立ち上がれなかったリントヴルム・トリスタンが軍刀を構えて、屹立していた。

 いま、畏れを押して彼女を奮い立たせているものが、軍人としての誇りや人間としての情であると、ルキフェルは知っていた。

 人間が案外たくましい生き物だと、すでに理解できていた。

「トリスタン……なぜ貴様までここにいる……!」

「助けを求めてやってきた兵士に、あなたはなんという仕打ちをするのだ!」

「この私に刃を向けるなど、許されぬぞ……! この、お飾りだけの小娘が!」

 歯をむき出しにし、燃えたぎる怒りをその目に浮かべたペンドラゴンが、間合いをつめた。

 対するトリスタン大佐は、落胆、猜疑、憤怒をあらわにくちびるを噛んでいる。

「提督、あなたはご自分が逃れるためなら部下を犠牲にするおつもりか!」

「黙れ!」

 ペンドラゴンがぬん、と気合を込めて腰をひねったかと思うや、突き出した右手から目にもとまらぬ速さで、ヘドロのような弾が撃ち出される。

 あまり美しくない闇の魔術だった。

 条件反射というべき速度で、トリスタン大佐がルキフェルの前に躍り出た。

――悪魔拒絶者である貴女がこの私をかばうとは!

火の精霊(ヴルカン)!」

 剣を持たぬ指先で三角形を描ききったときには、すでにヘドロの弾丸が燃え尽きていた。

 四元素のなかでも、最大かつ最高の質量を誇る精霊――火の精霊である。

風の精霊(ジルフ)土の精霊(グノーム)、あの女兵士を安全な場所へ」

 するとどうだろう、ペンドラゴンのかたわらでぐったりと倒れていたキエのからだが、砂塵に変わった床へ、ずぶずぶ沈んでゆく。あっという間の退場であった。

――精霊とは、なんと摩訶不思議ですばらしい生命なのだろうか。

「おのれトリスタン……!」

「第一セクターでの救助要請は提督もご存知のはず。なのに、なぜすぐに派兵の指示をなさらなかった? 弱きを助け、悪をくじくのもわれら軍人の役目のはず……提督、あなたはその矜持すらも失ったのですか!」

「黙れ! 民など上流階級の肥やしとなればじゅうぶんだ! 貴様とて、いままでそうして生きてきたのだぞ! 第一セクターという温室のなかでな!」

 ペンドラゴンが吠えた。

 トリスタン大佐の表情が、そのひと言でてつく。

「……あなたは……いや、おまえは王の器などではない、ペンドラゴン……!」

 剣の柄を、両手で握りしめた。

「愚かな小娘よ……この国はもうおわりだ! 悪魔の帝王ルキフェルは北国を殺すだろう! だが私は生きのびる! 戦火をくぐり抜けた英雄として、新たな玉座につくのだ……そのための犠牲はあって当然だ!」

下種げすめ……!」

 ペンドラゴンのくちびるがいびつな笑みを作った、まさにそのとき。

 とても静かで、心穏やかともいえる声がした。

「それがあなたの答えですか? 提督――いいや、ヴァルベリト」

 ゆっくりと背後から進み出てくるのは、黒竜王――シキであった。

 黒い瞳は、まっすぐヴァルベリトに向いている。その瞳に絡めとられる悪魔が愕然としないはずがない。

「ばっ、ばかな、ばかな……! なぜ黒竜王がここに……なぜまともに歩ける……血の毒が残っているはずでは……いや、なぜ、牢から出て……」

 ハッとなにかを察したその直後、血走った両眼でトリスタン大佐を突き刺した。

「小娘、裏切ったな……? 私への忠誠心を捨てて、黒竜王を逃がしおったか!」

 つばや泡を飛ばして、悪魔がまた吠えた。

 額に浮かんでいた玉のような汗はすべて流れ落ち、それに代わって浮かぶのは、脂汗だった。

「ウォオオォ!」

 けだものの雄叫びをあげ、猪突猛進。刃が一閃する。

 部下である、トリスタン大佐めがけて。


 *


 刹那。

 三階全体に紅蓮の光が駆け抜けたかと思いきや、すさまじい爆発音と衝撃波が襲いかかってきた。

 立ち込める黒煙。

 肌を焦がす熱気。

 爆音で耳がダメになっていたのだろう、しばらくあたりは無音だった。

 ややもすると、カラカラと、あちこちから小石の落ちる音が聞こえるようになってきた。

 ブーツの先に、こつんとなにかが当たる。抜き身の軍刀であった。

 シキは顔の前にかざしていた腕をそっとよけて、あたりの様子をうかがう――が、充満した煙と石埃りで三歩先すら見えない有様になっていた。もちろん、自然とそうなったとは到底思えない。

 目を細めて透かし見ると、黒い炎、それが煙の向こうでぽっかり口をあけた天井を舐めていた。

「リジル? 先生? だいじょうぶ――」

 と、そこでだれかに腕を引かれた。

「シキ、離れていてください」

「キリク先生……」

 人さし指に点った火をふっと吹き消して、キリクはいつも見せてくれる紳士的な微笑――ではなく、いかにも悪魔らしい、ぞっとするほど冷酷な笑みを浮かべた。

 一瞬で炎と煙をかき消し、あたりに散らばったがれきを砂塵さじんに変えてしまった。

 いま、魔法を使ったのだろうか?

 そんな動きすらシキには見えなかった。

 ペンドラゴンが砂礫にまみれて倒れ伏している。

「先生、リジルは……」

「ご安心なさい、うまく避けましたから」

 避けました、の意味がすぐには理解できなくて、シキが眉間のあたりをくもらせたまま首をめぐらせ――彼女の姿をみとめたときにやっとその意味がわかった。

 まったくの無傷で、リジルがその場に立ちすくんでいたのだ。

 抜いたままの剣を片手に、いまなにが起こったのか、理解できずにいる。

 ペンドラゴンのうめき声がしんと静まり返った廊下に響いた。

「リジル、僕のうしろにいて」

 細い手首をとって、シキはリジルを背中に隠すように引き寄せた。

 すると、それまで微動だにしなかったペンドラゴンが、まるで生まれたばかりの仔馬みたいに四肢を踏んばって立ち上がった。ただ、目だけはあえかな仔馬ではない。

 おのれの野望を果たさんとする、悪魔ヴァルベリトのものであった。

 だが、シキが見るかぎり、勝敗はすでに決しているように思える。

 満身創痍のペンドラゴンには魔法を使う力も、剣をふるう力も残っていないはずだ。皮膚は焼けただれ、全身に石の破片が突き刺さり、権力を誇示していた軍服はあちこちが焼け焦げ、いまや見るも無残な有様なのだから。

 それでも、まだあきらめてはいない。玉座をあきらめてなるものか、と壮絶な色味を帯びる目がいう。

 ふっ、と鼻で笑ったのは、キリクであった。

 大仰に、しかし慇懃に両手を広げた。

「さて、ここからは北国の竜王の沙汰に任せるとしましょう」

「え?」

 もちろん寝耳に水だ。

 肩越しに、ちらりと空色の瞳がこちらを向いた。

 きみが決めるのです。そう語りかけてくるかのようで。

――敢然と。

 いつかのキリクの言葉を胸のなかで転がし、シキはひとつ深呼吸をした。

 ペンドラゴンを真っ向から見据える。

 ひとたび腹をくくると、胸の内がどんどん静まってゆくのが感じられて、とても妙な気分だった。

 静だ。

 なにもかも、静かだ。

 かたわらのリジルの鼓動が聞こえるほどに。

 短く息を吸う。

「提督」

 ここからが、僕の戦いだ。

「北国国軍提督のソーナ・ペンドラゴンとして公正な裁きを受けるか、悪魔ヴァルベリトの姿に戻ってこの北国から撤退するか……どうぞあなたの好きなほうを選――」

 まだ口上が言い終わらぬうちに、シキは黒い目を丸めた。

 ペンドラゴンは、シキが提示したどちらかの選択ではなく、三つ目を選んだ。

 腰にく二本目の剣が鞘走る。

「ぬおあああっ!」

 大上段に構え、シキめがけてそれを振り下ろす。

 その愚かな行為に、一切の恩情をかけるつもりはない。

 シキは、足元にあった軍刀の柄先を強く踏んで、剣身を弾きあげた。

 それを片手ひとつで掴みとり、一歩、強く踏んで間合いをつめる。頭上に迫った白刃を、下段から弾き返すと同時にからだをひねり、一気に懐へとつめた。シキの右肩が、ペンドラゴンの胸にどっとぶつかった。

 瞬きひとつしないあいだに、上体がふらっと流れたペンドラゴンののどもとへ切っ先を突きつける。

 その一連の流れは、よどみなく、自然体そのものである川の奔流に似ていた。

 人間が簡単に及ばぬ領域。

 竜王に許されたたっとき領域。

 ペンドラゴンの皮を着た悪魔ののどが大きく上下して、そのまま凍りついた。

「ほう、素晴らしい!」

 たったひとり手を打つキリクは、なんのヒントもなく難しい魔法を発動させてみせるユーリをほめるような気安さで、残酷なくらいにっこりほほえんでいる。場違いな拍手がしばらくつづいた。

 ペンドラゴンが身じろいだ拍子に、剣の切っ先がぐっと皮膚に食い込む。

「うぐっ……」

「僕の気が変わらないうちに、どちらかを選ぶのが賢明かと……ね、提督?」

 最大の敬意を払って告げる。

 つねに紳士的ふるまいを怠らないキリク・パーシヴァル教諭に倣って、シキも冷えた黒瞳に微笑をたたえた。




 キリクが指を弾いたときには、堅く閉ざされていたはずの全出入り口が、あっけなく解放されていた。

 そこから、われ先にと兵士たちが飛び出してゆく。本部基地の正面出入り口から延びる短い階段を、転がるように駆け下りていった。

 石畳の前庭ぜんていで、ひとりが「あっ」とのどを詰らせたような声をあげて、天を突くように指を掲げた。

 空には、いままさに重ならんとする双子の月。そして――。

「なにか、逃げていくぞ」

「見ろ……提督だ」

「うそだろう……あの背中の翼――」

 にわかにざわめきが大きくなる。

 見つめる先で、提督の皮がやぶれた。文字どおり、ソーナ・ペンドラゴンの肉体が裂けていったのだ。

「そんな、中から、なにか――」

「ありえない……見ろ、悪魔だ……!」

 空に舞い上がったのは、背中から醜悪な翼を広げ、ぶくぶくに膨らんだ蛙のような黒い塊。目玉はないが手足が生えているため、かろうじて人型らしく見える。

 抜け殻となったあわれな屍が、兵士たちが固まる地上に落ちてゆく。

 シキとリジル、キリクは三階ホールの、寒風吹き込む窓からその光景を見た。

「なんということだ……」

 リジルが痛々しいまでにゆがめた顔を背けた。

 悪魔はばさりと翼を打って向きを変えた。目玉がないというのに、針をふくんだ視線がこちらを刺してくる。

 シキはそれを甘んじて受けてなお、怯むことなくにらみ返した。刹那。

捕縛霊よ(アルマ)我が敵を捕らえろロォンガウ・エンデッダ!」

 いかずちのような詠唱だった。

 寒寒かんかんとした三月の大地から、薄灰色のもやがいくつも浮き上がって、それがヴァルベリトのからだに絡みつく。怨霊が憑りつくようなその光景は、全身が総毛立つほど不気味であった。

 ほどなくすると、双子の月を背にして、ヴァルベリトの影がくらりと傾いた。

「追え、ベルクル!」

 基地の屋上から、赤い魔獣が颯爽とその身を躍らせる。蛇の尾を持つ豹に似た魔獣、ベルクルが兵士でごった返す前庭に降り立つと、疾風の如く駆け出していった。

 すぐさま割れた窓から何者かがひらりと現れた。

「ったく。ヴァグナーとパーシヴァルがお優しかったとしても、オレが逃がしてやるわきゃねーだろうが」

「ホランド……先生! どうして先生がここに?」

「おまえを助けるために決まってんだろ! つか、敵の親玉をみすみす逃がすおまえのあたまが理解できねーよ!」

「うっ……悪魔の姿で北国を追放されるなら、重たい刑罰といっしょかと思って……」

「バッカ! 追放より牢にぶち込んだほうがいいに決まってんだろーが! お人よしか!」

 全身怪我だらけのくせにこれでもかと畳みかけてくるジンを横目に、シキは口の中だけで悪態をついた。やはりジンの前では、どうしても口に出して文句が言えない。だからそっぽを向いて「そんなに怒らなくても」とぶつぶつ言うのが精いっぱいだった。

「ほんと、そういうところは変わんねーのな」

 ジンがあきれたため息をひとつついて、ついでにシキの頭をばしっと叩く。

「まったく、怖いもの知らずの貴女を敵に回したくはないものですね……」

 あれほどの恐るべき力をもつ悪魔――キリクが、肩をすくめて苦笑した。


 ――ついに、双子の月が重なった。

 しずしずと訪れた闇に、だれもが閉口し、その暗黒へ身を任せてとけてゆく。

 じっとりと、濃密な空気で胸が満ちてゆく。

 完全なる、静寂だった。

 数分後、拍子抜けするほどあっけなく双子が離れて、天に明るさがふうっと戻っていった。いやしょせんは曇天の明るさ――。


「さて」

 聞き慣れた声がして、シキはふと横に立つキリクへと顔を向けた。見ると、姿はすでにいつものキリク先生に戻っているではないか。それに、ひとを簡単に堕落させてしまいそうなあの匂いは、拭ったように失せている。

「私はちょっと行くところがあるので、シキはここを動かず、待っていてください」

「へっ?」

「すぐ戻ります」

 そういって、キリクは素早くリジルの手をとって姿をくらましてしまった。むろん魔法であることは百も承知。

 つまりこの場に残ったのはジンとシキだけ。

「……だ、そーだ。オレはおまえのおりなんてするつもりねぇから、先に学校に戻るぜ。まだ向こうには闇の魔術師がいるだろうしな」

「あのっ、ホランド先生――」

 そのとき、三階の窓を盛大に破って飛び込んできたのは赤い魔獣、ベルクル。口には不気味な塊――ヴァルベリトをくわえている。

「じゃーな、ヴァグナー、どうせあとで会うだろーよ」

 ジンがひらりと魔獣に飛び乗った。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ