悪魔と悪魔拒絶者
「あらあ、ヴァグナー君、朝からご苦労ねぇ。またあの人にこき使われてるの? まったく、今度わたくしからガツンといってやるわ!」
大柄の体から発する独特のきんきら声は、寝起きの頭にたいへんよく響いた。
週明け、早朝七時ちょうどのことだ。
職員室から日誌をキリクのもとへ届ける途中、言霊学のアザリー教諭と出会ったのは、運がなかった。
毎度違うド派手なピンクのドレスを身にまとって、彼女が大股でのっしのっしと歩いてくる姿は、さながら魔物――いや、ウルトのいうとおり、悪魔のバルバスにそっくりである。
そのため、シキはいつもニヤニヤ笑いを堪えるのに苦労しなければならなかった。
ちなみに、キリクの手伝いで職員室に出入りする折り、アザリーは人一倍目をかけてくれる先生で、なにより、快活で裏表のない性格ということもあり、シキはけっして彼女のことが嫌いというわけではないのだ。ただ、一度捕まればとてつもなく厄介で……つまるところ、授業に遅刻をする原因でもあった。
「わたくしも授業の準備が追いつかなくて大変なのよ。こーんなに早くから作業をしているのはわたくしとヴァグナー君くらいね!」
ホホホホホ、と甲高い笑い声が、まるで弓矢のように狙いを定めてシキの鼓膜に突き刺さってくる。
「わたくしも、ヴァグナー君のような素敵なお抱え生徒さんがいたら、どんなにいいか! でもねぇ、パーシヴァル先生は学生の本分を忘れていらっしゃるわ! たっぷりの睡眠や満ち足りた食事、そしてなにより勉学に友情に恋! ぜーんぶ必要なことで――」
無心でうんうん相槌を打ってから、どれほど経っただろうか。作り笑いのしすぎで、頬が痙攣するくらいは経過していた。
やっと、きんきら声のバルバスから解放されたときには、すでに朝食をすませた生徒達と廊下ですれ違う時刻になっていた。
「朝から最悪だ……早く日誌届けなきゃ……」
精魂疲れ果てていたシキは、足早にキリクのもとへ向かった。
「あだっ」
階段をのぼる途中、「おはよう、少年」と声をかけてきたファット卿に気を取られて、階段を下りてきただれかとぶつかってしまった。
そこで危うく足を踏み外しそうになるも、なんとかたたらを踏んで持ちこたえた。
「どこを見ている、気をつけたまえ」
灰色の詰襟ローブを身にまとった男が、教頭のメリーニ・ブラッドだということに気づいて、シキはあわてて会釈をした。
おかっぱに切り揃えられた栗色の髪と、几帳面に整えられたちょび髭で、神経質なうえに完璧主義であるとひと目で見てとれる。
ブラッド教頭は、生徒のあいだで絶大な不支持を集める教師だった。生徒の服装や髪型、生活態度をすれ違うたびに指摘してくるため、ほとんどの生徒がこの教師を避けて通っている。しかも、生活指導のモリスとそろうとよけいに性質が悪い。
ネチネチしつこく、東国からの輸入食品――『ナットウ』みたいだ、とかつてだれかがいみじくも言ったために、彼はヒゲナットウという愛称で、ある意味親しまれている。
もちろん、当人としては、こんなに不名誉なことはないだろう。
「きみはたしか、パーシヴァル先生が編入させた生徒だったね。私にまだ挨拶していないんじゃないかね? そんな礼儀も知らないとは、どんな教育を受けてきたんだ? ん?」
他人を見下すような、むしろ汚らわしいものを前にしたような不快な視線を、シキは全身に浴びた。
腹の内でありったけ悪態をついて、なるべく渋々に見えぬよう、シキは頭を下げた。
「すみませんでした……」
たしかに、魔法学校に来た初日の職員室にヒゲナットウの姿はなかった。それに、「教頭先生のところへ挨拶をしに行きなさい」とはキリクからいわれなかったため、はじめて校長先生と教頭の姿を見たのは、週末になる前の、全体集会の壇上でのことだった。
「そもそも、きみは彼の義理の息子という名目で入校しているようだが、それは本当かね? 私はもっとなにか……ある気がしてならないのだが? ん?」
ヒゲナットウめ――と、胸のうちで毒づき、シキは自分の不注意を悔やんだ。
そのとき。
「ああ、シキ。遅いのでなにかあったのかと心配しましたよ。アザリー先生にでも捕まったのかと思いました」
こつこつ靴音を響かせ、キリクが階段をおりてきた。ちなみに、アザリーに捕まっていたのはまぎれもない事実である。
「おや教頭、おはようございます。彼になにか御用でしたか? なければもう行っても? 彼も私も、生徒の粗探しばかりするだれかさんのように、暇ではありませんのでね」
皮肉をたっぷり込めて優雅にほほえむキリク。くちびるをわなわな震わせ、悔しそうに歯をくいしばるブラッド教頭は、あごでしゃくってシキに行くよう促した。
息苦しいプレッシャーから解放されたシキは、いそいで教頭の脇を抜け、キリクについて階段をのぼった。
「先生、助かりました……」
眠気も覚めるほどの疲労に襲われたシキは、深々と息をついた。それから、日誌をキリクに手渡す。
「まさかブラッドに捕まっているとは……災難でしたね」
日誌をわきに挟んだキリクは、さも愉快そうにくすくす笑っている。
「あの男は悪魔差別の第一人者でしてね。悪魔拒絶者というやつです。悪魔がもつ闇の力は悪しき力――それで、私のことが嫌いで嫌いでたまらないんですよ。悪魔を拒絶する人間はもちろんたくさんいますが、彼は、それはもう一番といっていいほどです。だから、シキに探りを入れてみたんでしょうね」
「どうして先生が嫌われるんですか?」
「それは、私が悪魔だからです」
当然でしょう、とでもいいたげな顔を浮かべて、キリクはあっけらかんに言い放った。シキはぱちくりと何度も瞬きを繰り返す。
やや沈黙を経て、まぬけな「へ?」という音だけが口を飛び出した。
「いっていませんでしたか? それは失礼……私は北国に唯一入国を許可された、悪魔なんですよ。下級ですが、軍から男爵の位を頂いているんです。といっても、現在、貴族階級だからといって、特別なことはほとんどありませんけどね。ま、私が下級悪魔だというのは、この学校のみんなが知っていますよ」
シキの反応を楽しむように、キリクの声は弾んでいた。
「えっ……えっ?」
「ブラッド教頭が就任した日、魔法学の教師が悪魔だと知ってそれはもう、クビにするだのなんだので、大変だったんですよ」
大変、といったわりに、キリクの口もとはゆるりと弧を描いている。
「だから、私が連れて来たきみを良く思っていないのかもしれませんね。へたをしたら、あの男はシキを悪魔だと思っているかも……気をつけてください、今度は『シキ・ヴァグナーを退学にしろ!』とわめきだすかもしれませんよ」
ははは、と陽気に笑って、キリクは颯爽と階段をのぼっていった。
キリクが悪魔だと聞いてもにわかに信じがたいが、もしそうなら、授業で習ったように、人間に危害を加えるのだろうか。たとえば、貶めたり、虐げたり、命を――いや、考えるのが馬鹿らしいと思えるほど、キリクは悪魔のイメージとまるで違った。
紳士的で、礼儀正しく、世話焼きで、とても思いやりのある人である。それでいて大胆不敵……なんとも不思議な人物――。
「キリク先生が危険なはずない」
そうつぶやいて、頭の中でぐるぐるめぐっていた考えに終止符を打った。
それよりも、シキにとっての危険人物は、間違いなくヒゲナットウだろう。
「悪魔拒絶者……それであんなにしつこく聞いてきたのかな」
僕のどこが悪魔だっていうんだ――。
嫌味ったらしいヒゲナットウ――もとい、ブラッド教頭の顔を頭に浮かべただけで 自然とため息がこぼれた。
「本当に退学になったら、やっぱ嫌だな……せっかく、リュゼ以外に友達ができたのに……」
どうやら、面倒な人物に目を付けられてしまったようだ。