第一幕 遭遇②
「……ココは何処だ?」
大浴場を求めて歩く事約十分。俺は迷っていた。
何しろこの自称旅館は広すぎる。
どういう構造なのか見当もつかない。
部屋から持ってきた案内図も良く見て見れば明治漆年度版と印刷してあり見比べても通路が多かったり少なかったり、酷い時には在る筈の階段や部屋までもが在ったり無かったり、もっと酷い時には足の下に天上があって遙頭上に畳が在ったりで、全く役に立たず、それでもコレしか地図が無いので破り捨てる事も出来ず、幾ら見比べても今俺が何処を歩いているかすら定かじゃない。その上何処を向いても畳敷きの部屋と漆喰の白い壁と板敷きの廊下に襖と障子で構成された廊下が延々と続き性質の悪い迷路に迷い込んだ感じだ。さっきから何度も階段を上ったり下ったりしている。
今いる所は螺旋階段をずっと下った末着いた場所だ。上を向けば天上は遙に高く薄暗い闇があるだけで見えない。俺は本当に建物の中にいるのだろうか?
漆喰の壁に埋め込まれた丸いガラス窓の向こうに朱色の鳥居が見えるが、多分この通路を通るのは3度目だ。目印に悪いとは思いながらも付けておいた小さな傷がそれを示している。
そもそも俺は地下にある大浴場に行くために階段を下った筈なのに何故気が付けばこんな高い位置にいるのだろう?第一俺がさっきここに来た時は一度も階段なんて使わず部屋から真っ直ぐ来たら出てしまった筈なのに。悪夢のようだ。
無限ループに入りこんだような気さえする。しかもさっきから俺一人だけのはずなのに周りから視線を感じたり妙な笑い声や鳴き声が聞こえて来たり、酷い時には廊下の隅や中庭に黒い影が蹲っていたり天上を妙なモノが逆さ向きで這っていったり、外の大鳥居の上から何だか表現しようのないモノが此方を見ていたり。流石は澪璃さんの経営する旅館だ。侮れない………というか素直に恐い。
せめて方角だけでも知りたいと腕時計に付いたコンパスに目を向ければコンパスの針はモーターでも付けたかのように加速度的に回っている。失念していたが、ここはそういう場所だった。屋内にも関わらずだんだんと絶望的な気分になってきた。
そうだ!と思い出した携帯には無常にも圏外の二文字が浮び上がっている。
立ち止まって色々考えた所で物事は解決する筈も無く、取りあえず歩いていればその内どこかに出るだろうと楽天的な答えを出して歩き出した俺が耀耶麻さんに逢えたのはさらに三十分程迷ってからだった。
「そうですか、それは御災難でしたね。」
臙脂色をした和装姿の、具体的には昔映画で見た大正、昭和初期のカフェにいた女給チックな格好の耀耶麻さんが俺の話に相槌を打つ。お好きな人には堪らない。かくいう俺も嫌いじゃない。大げさじゃなく命の恩人じゃあなければ酔っていたら口説いてしまうかもしれない。
赤の強い栗色の髪を纏めた大きなリボンが妙に似合っている。
「本当に助かりましたよ、洒落じゃなくて遭難を覚悟しましたから。」
実際耀耶麻さんに声を掛けられた時不覚にも涙が浮んでしまった。
「無理もありませんね、この忘我邸の設立は古く、古代はかなりワケ有りな墳墓だったと言われています。きちんとした建造物というカタチをとりだしたのは平安時代の終わりらしいのですが、それ以来約1200年、基部を中心に改修、改造、改築、増築を繰り返している上に澪璃さまの趣味であちこちに磁気発生装置や妨害電波発信機を設置して人の方向感覚さえ狂わす様にしてありますかし、電子機械類に至っては余程強固にシールドがされていないと使用が利きませんから。」
「あの……何の為に?」
耀耶麻さんはニッコリと笑い
「さあ?、きっと趣味だと思います。」
と言う。流石は澪璃さんだ。
「多分お客様が館内で迷われて右往左往しているのを何処かで見るのが楽しいのでは無いかと。」
うん、琉架ちゃんが高笑いし、澪璃さんが優しく嗤っている姿がありありと浮かぶ。
「だから年末の大掃除は大変なんですよ、毎年白骨化したり腐乱中の遺体が数人分見つかりますから。」
楚々と笑いながら恐ろしい事を言う。
流石は澪璃さんの経営する旅館で働く人。この人も只者じゃない。
それにしたってこの界隈で一体何人死んでいると言うんだろう?
「所で耀耶麻さん。」
「私の事は椛とお呼び下さい。」
「そうですか……ってさっき楓って名乗ってくれませんでしたか?」
「それは私の妹です。」
「妹、ですか?」
「ハイ、私達姉妹はここ忘我館で澪璃様にお仕えしております、私が長女の椛。先ほど比良坂様と夢幻様をお部屋までご案内したのは妹の楓です。」
椛と名乗った耀耶麻さんが笑顔でそう言う。が、俺には正直その話が本当かどうかわからない。さっき俺と夜哀を部屋まで案内してくれた耀耶麻楓さんとやらと今俺の目の前にいる耀耶麻椛さんは似すぎている。
一卵性の姉妹かもしれないが似ているのは顔や背格好ばかりじゃない、雰囲気や間の取り方、声の質とかもそっくりだ。耀耶麻楓さんが椛と名乗って俺をからかっているとしか思えない。
だからと言って同一人物ではなく本当に双子だという可能性も勿論ある。だからこの場合俺はどういう反応をすれば良いのかと言えば───
「じゃあ椛さん?」
「ハイ、何でしょう?」
素直に耀耶麻さんの言う事に従う。考えて見れば一々反論する必要もないし本人がそうだと言っているんだからそれでいいじゃないかという結論の末だ。
「それにしても随分似てらっしゃる妹さんですね。」
「そんな事ありませんよ、以外と似ているようで中身は全く違う物なんです。似ていると言う事は結局別の物という事ですもの、比良坂様も直ぐに見分けがお付きになられますわ。」
恐らく無理だ。
「そうですか………ところで大浴場は確か地下にあるんですよね?」
「ええ、そうですよ。」
屈託なく椛さんが頷く。
「じゃあ何で俺達階段上っているんです?」
そう、俺と椛さんは先程から延々と階段を上っている。どう考えてももう十数階分は登っていると思うのだが、そもそもそんな階段が全く折れたりせず一直線に造られているのが不思議でしょうがない。
「大丈夫ですよ、少なくともココに関しては比良坂様より私の方がしっかりと知覚していますのでお任せ下さい。」
そこまで言うのだから椛んを信用しよう。しかし……時計を見なくても分かる。俺が夜哀に風呂に入ってくると部屋を出たきりもう一時間以上経つ。きっと今頃何をやっているのかと思われているんだろう。
多分。
きっと。
……少しは心配してくれているよな?
………………ま、ちょっと覚悟はしておけ。
「比良坂様、こちらが大浴場になります。」
結局俺は椛さんの後ろについて歩き一回も階段を下らない内に地下に在る筈の大浴場へ着いてしまった。
俺が質問する間も与えず椛さんは「ごゆっくりどうぞ」と言いながら去って行く。釈然としないまま俺は男湯の暖簾を潜り脱衣場へと向かう。
楓さんが部屋に案内してくれた時に説明してくれた通り今は俺と夜哀以外客はいないと言う事で脱衣所もがらんとしている。手早く服を脱ぎ浴場の扉を空ける。見事な岩風呂が中央に鎮座し、その回りにそれぞれ違う効能が記された小さな温泉が何種類も在る。中々良い風呂だ。露天風呂が無いのは少々残念だが、あの鬱蒼とした森を見ながらでは気分も凹みそうでかえって無いのは正解かもしれない。そもそも地下に露天風呂があったとしてどうしようというのだ俺よ。
岩風呂のお湯を手桶に汲みそっと手を入れてみる。全身猫舌の異名も持つ俺は熱いモノが駄目だ。温泉に限らず味噌汁やそう言うタイプの人間も。
熱くは無い。温い位だが俺にはコレくらいの温度が丁度良い。それに温湯にじっくりとつかる方が健康には良いそうだ。
そんな柄じゃないが。
傍らにある温度計を見ると37度を示している。
早速身体を洗い泡を流した後手ぬぐいを畳み頭の上に乗せ岩風呂にゆっくりと浸かる。
一杯に湛えられたお湯は俺が肩まで浸かると溢れ排水溝に吸い込まれて行く。あまり硫黄臭が無く白く濁ったお湯に湯花が咲いている。
それにしても何だか今日は疲れた。肉体的にも精神的にも。肩を揉み解しながら唐突に澪璃さんの言葉が甦る。
(妹も逢いたがっていましたわ)
澪璃さんの妹こと玖韻琉伽ちゃんの事が甦る。琉伽ちゃんは夜哀と良く似た外見をしている。青白い肌に夜哀より少し蒼みがかった銀髪にアイスブルーの瞳。小さく華奢な子で外見はどう見ても、どう頑張ってサバを読んでも十五歳以上に俺は見る事が出来ない。因みに今年十七歳の筈だ。それなら問題ないような気もするが要はどうやっても目付きと言動と行動以外は幼い外見なのだ。
さて、澪璃さんの妹なのに何故銀髪に青い目なのかと言えばコレにはちゃんと理由が在る。夜哀の血筋、つまり夢幻家が完全に少々特殊とは言え全員血の繋がりが在る事に反して玖韻一族は全く血の繋がりが無い。夜哀から聞いた話になるが玖韻は血筋ではなく家柄なのだそうだ。つまり玖韻家という玖韻の家も在る事はあるのだがそこに産まれた子供は玖韻一族かと言えばそうではなく、玖韻一族は見所のある人物をそれぞれ気ままにスカウトし、適正があるとなれば晴れて玖韻一族の仲間入りとなるらしい。そういう意味では家族というよりも秘密結社といった色合いの方が濃いかもしれない。まるで何処かの殺人鬼の一賊のようではないか。
だから琉伽ちゃんは澪璃さんより年下な為妹という位置付けだが、実際は血の繋がりも何も無い。因みに玖韻の素質はどれだけ自分が面白いと思う事に他人を巻き込み躍らさせ、如何に自分が楽しむ事ができるか。という事だそうだ。
こう言うとあんまり害が無いように感じるが、そうでもない。何しろこの玖韻一族は自分だけが面白ければそれで良いのだ。
自分が大笑いする為だけに戦争を引き起こし、大量虐殺を行い血と狂気に哄笑を上げる者もいる反面、玖韻一族に共通する多大なカリスマを駆使し大々的な福祉活動を行ったりして博愛に微笑む者もいる。
因みに澪璃さんも琉伽ちゃんもどちらかもなにも明らかに間違い無く問答無用の言語道断で前者の方だ………というか夜哀が言うには玖韻の九割九分九厘が前者らしい。
だから俺と同年代なのに玖韻の代表格の一人として数えられるような澪璃さんや十歳頃には玖韻として覚醒してしまった琉伽ちゃんは正直怖い。
少なくとも自分の快楽の為だけにどんな禁忌も厭わない方向性は人として正しいとは思うが、どうにも許容するには難しい。
多くの善良な振りをしている世界や人々から見ればとことん異端で異形の一族なのは間違いない。なのに排他されないのはその存在があまりにも胡散臭く信じるに値しないモノのようにしか思えないからだ。
理解とか以前の問題でまず近しい存在でもない限り認識する事さえ出来ない一族。そして例え認識できても次の瞬間にはその認識したという事実ですら虚構にすりかえられている始末。
世界の影や闇に人知れず大々的に潜み、世界を裏から表から操りちょっかいを出し緩慢に急速に狂わさせて行こうとする者達。
それが玖韻一族。
湯船に使っているにも関わらず思わず鳥肌が立ったのを機会に風呂から上がる。椛さんが態々書いてくれたらしい浴衣の上に置かれた大浴場から部屋までの詳細な地図に思わず感涙しそうになった。
今度あったらお礼を言おう。
しかし、椛さんて凄い人かもしれない。
どう見ても鉛筆書きなのに製図機で作ったような平面地図と立体地図の二枚にそう思った。
しかし、ドコの意地悪なダンジョンだこれ?
殺人機械とか出てこないだろうな………