第一幕 出発①
「…………面倒臭い………」
意識もせずそんな呟きが俺の口から漏れていた。
その日、俺は朝から国際関係論と西洋史さらに政治学のレポートに追われていた。
「………ぐわー」
虚空に向かって吼えて見たって終わらない。
何とか政治学と国際関係論のレポートは終わらせたものの、西洋史のレポートを前にしてそうでなくてもあまり多くはない俺の集中力はついに途切れようとしていた。
その上良く考えれば「歴史的見解による国際関係間に関する政治について」なんて題名で同じモノを三部仕上げれば終わったという事実がまた俺の集中力の減退に拍車をかけてくれる。それでもやらないと単位が貰えない。
その哀しい事実にペンを掴み惰性だけで再びレポートに取り組もうかと言う時に何やら荘厳な感じのする曲が複雑な電子音で奏でられた。携帯をとり着信を見なくても誰からか分かる。この曲が好きだと言って夜哀が勝手に登録した曲で確かルクス・エテルナと言っていた。日本語に訳せば永遠の光。似合わないったらありゃしない。
「もしもし?」
「…………」
無言だ。
ディスプレイを見てみる、間違いなく夜哀からの電話。
「どうした?用が無いなら切るぞ?」
少し強い調子で聞くとやっと返事は帰ってきたが、声に張りが無い。
「………湊、お願い直ぐ来て……」
それだけ今にも死にそうな声で言って切れる。
殺しても死ななそうな、というか死という概念があるのかどうかすら怪しい夜哀だが、こんな声を出されたら友人として不安になる。
携帯を持ったままチラリとレポートに目を向ける。
今の時間は午後五時。夜哀の所に出かけたとして───あと三時間頑張ればレポートは終わるだろう。
そう判断して鞄にレポート用紙と資料、筆記用具を納め慌てて俺は夜哀の部屋へと向かった。これは決して逃避じゃないと自分に言い聞かせながら。
夜哀の住居は俺の住む学生専用マンションから自転車で十分ほどの所にある、俺が住んでいる所より遙に見栄えも中身も良い新築マンションの一室に住んでいる。
ただし自転車は元より移動手段は己の足しかないから二十分はかかる。
昔は自転車もあったがサドルだけが二回盗まれたので破棄した。
サドルを盗んだヤツはきっと俺の熱狂的なファンなのだろうと思う事にしている。悪戯やイヤガラセと考えるよりは其方の方がいくらか面白い。
「夜哀、大丈夫か?」
インターホンの音が気にくわないと外してしまった為スチールのドアをがんがんとノックする。返答はない。
ノブを捻ってみるとドアは開いている。
「夜哀、入るぞ?」
ドアを開けながら奥に声を掛けるがやっぱり返答はない。
眩しい明かりを極端に嫌う夜哀の暮す部屋。暗いのは珍しい事じゃない。寧ろ普通だが今日は何時も点いているオレンジ色の間接照明も全て消えている事に違和感を抱き、慌てて夜哀の部屋に入った俺が見たのは惨憺とした有様だった。
埃アレルギーとやらで少々潔癖症の気がある夜哀にしては信じられない程に部屋の中は長方形の物体で散らかり大型の薄型テレビは砂嵐を映している。そしてその部屋の主、夜哀は態々フローリングの上に敷いた畳の上に倒れ伏せていた。銀髪が放射状に広がり蜘蛛の巣に掛かっている様にも見える。
「どうしたッ!大丈夫か?」
慌てて抱き起こすと顔に畳の痕をつけた夜哀が安心したような笑みを浮かべ一言ぽつりと呟く。
「………お腹………すいた………」
何も言わずスリッパで夜哀の頭を一つ叩いた俺を責める事は誰も出来まい。
話を聞けばどうと言うこともない。偶々入ってみた某大型DVDレンタル店で青い猫型ロボットの映画が急に見たくなり全種類借りてきて文字通り寝食忘れて見ていたという事を俺がマンション前の自販機で買って来た100%のグレープフルーツジュースを飲みながら話した。
何と言うか、罵迦だ。
「コレ苦いね。」
「飲み終ってから文句を言うな。」
夜哀がゴミ箱に向かって空になった紙パックを放る。紙パックは綺麗な曲線を描き俺の隣に落ち、俺はそれを拾い改めてゴミ箱に投げ捨てる。
「で、俺を呼んだ訳は?」
「うん、ご飯作って。」
あっけらかんと言ってくる夜哀に腹も立つのも通り越し呆れてくる。
「あのな、俺締め切りの近いレポートがあるんだよ。悪いがゆっくりと飯作ってる時間は無いんだ。出前でもとれよ。」
「嫌だ」
「………何で?」
「不味いから。」
差し出してくる出前用のお品書きの数々を見てウンザリしてしまう。どの店も俺が実際一度頼み、後悔した店名。例えば自称中華の店、「麒麟亭」。
ヌーベルシノワを標榜する芸風にどんなものかと日替わりで出前をとったらブタの内臓と頭に牛レバーが主体となった死ぬほど血腥い上に見た目がスプラッタかつ猟奇的な絶句モノの中華丼が届いた。
例えば蕎麦割烹と銘打つ「杏庵」。
「100% 粉使用」何故かお品書きの蕎麦粉の部分が消えている事に興味を持ち盛り蕎麦を頼むと届いたのは饂飩だった。文句を言うと小麦粉100%との蕎麦だと逆ギレされた。どうも蕎麦粉を使っていない時点で蕎麦じゃないと言う事にこの店は気が付いていない。
他の店も似たようなものだ。
石膏を固めたようなピザが名物のスペイン料理店「かんぱねるら」もう平仮名の辺りが胡散臭い。それ以前にピザはイタリア料理じゃなかったか?
因みにカンパネラはイタリアの哲学者だ。
………どうでもいいかそんな事。
生ゴムを焼いたようなお好み焼きが届くお好み焼き屋(広島)店主は広島県人に土下座して謝るべきだ。というか粉物を愛する全ての人に対して焼き土下座しろ。
看板商品がフルーツ寿司の寿司屋「出目金」果物と酢飯、だけならまだしも塗られた煮きりが妙に不味く絶大な不協和音を奏でる。ワサビの代わりに塗られたチョコやジャム、蜂蜜がクリーンヒットだ。味を表現するなら………煮きりが焦げ臭くどす甘い。
もう一つの名物、ウシガエルのオタマジャクシの内臓を抜き酢で締めご飯を詰めた何処かの名物オタマ寿司をパクッたとしか思えない(出目金寿司)はその造型に口に入れる事さえ出来なかった。まさか中身を抜かれ酢で締められた出目金があんなに見ていて辛い物とは、結構予想外だ。
このラインナップでは夜哀が嫌がるもの分かる。どの店も共通点として掛値無しにマズイ。身をもって俺には分かる。
「それなら交換条件だ。」
鞄からレポート用紙と資料を出し夜哀の前に置く。
「俺が飯を作っている間少しでも良いからレポートを進めておいてくれ、もう書き写せば良いだけにしてあるから。」
「良いよ、コレで契約成立だね。」
ニヤリと妙にしてやったりの顔を浮べる夜哀に騙されたような気がしないでもないが取りあえず夜哀に手渡されたエプロンを手に台所に立つ。
「冷蔵庫の中のモノ好きに使って良いから~」
お馴染みの眼鏡を掛けたガキの情けない声と一緒に聞こえてきた夜哀の声に、さらに何処で手に入れたのか聞きたいような聞きたくないようなリボンとフリルだらけの黒いレースエプロンを見てしみじみと騙されたような気がした。