小説創作におけるAI使用について――海外作者としての個人的な考え
皆さん、こんにちは。柊夕と申します。日本のアニメ・小説・ゲームが好きな中国人作者です。「なろう」でのAI使用規約の議論をきっかけに、海外作者として、AIの活用についての個人的な考えを皆さんと共有させていただきたいと思います。本格的に長編連載を始めることも、日本語圏での活動も、いずれも私にとっては右も左もわからない新人の域を出ません。至らぬ点があればどうかご容赦ください。どうかよろしくお願いいたします。
⚠️ 以下はすべて個人の考えであり、あくまでも個人の意見を述べるものです。皆さんと友好的に意見を交わせれば幸いです。
AIによる創作について
まず、AI創作については、私は明確に反対の立場をとっています。
AIが「創作」そのものに関与するのは、一種のズルだと思っています。一言で言えば、作品の誕生とは赤ちゃんの誕生と同じであり、その赤ちゃんの肉体も魂も、すべて作者が与えなければならない。AIを衣服として身に纏わせることはできますが、その身体そのものは必ず作者本人が生み出さなければなりません。
1. AIに全文を生成させる場合:
論ずるまでもなく、完全にアウトです。
2. AIに「下書き」を生成させ、自分で修正する場合:
これも論ずるまでもなく、完全にアウトです。これでは作者ではなく「編集者」になってしまいます。本末転倒であり、作者が担うべき核心をAIに委ねていることになります。
3. AIを使って、あらすじ・キャラクター・プロット・素材など、作品の根幹をなす部分を生成する場合:
これも私にとってはアウトです。まさにそれらの要素が、その作品を形作るものだからです。自分であらすじを書けない、適切なキャラクターやプロットを思いつけないからといってAIに丸投げするならば、「創作」という行為そのものが不完全、あるいは存在しないも同然ではないでしょうか。
4. AIによる文章の推敲・リライトについて:
これについても私は抵抗を感じます。推敲やリライトとは、本来、自分の表現や文体をより適切に、より美しくする行為です。しかし描写力や言語表現力こそ、作者にとって不可欠な能力の一つです。
ここに二人の作者がいるとしましょう。
作者A: 太陽が沈んだ。
作者B: 夕焼け空に染まった茜雲が地平線の彼方まで広がり、大地に息づく人々の営みと重なり合って、言葉にならないほど鮮やかな晩景を描き出していた。
この二つはそもそも別物です。もし作者AがAIを使って自分の表現を作者Bのような文体に変えてしまったとしたら、作者A本人の文体や個性はどこへ行ってしまうのでしょうか。もし皆がこのようにAIで推敲するようになれば、多くの人が自分の作品の個性を失い、全員が「AI風」になってしまうかもしれません。
まとめると、創作の本質に関わる部分において、AIの使用は拒絶されるべきだと私は考えています。作品という「赤ちゃん」の肉体と魂は、すべて作者自身が与えなければなりません。
かつてXに投稿した言葉を引用します。
「文化芸術は人類の知性と文明の結晶と思っている。他の生き物と区別する重要な一点だ。なのにこれを知性のないAIに任せるとは……AIは道具に限り、本当の『創作』は人類しかできないはず。」
AIによる補助について
創作の本質に関わらない用途であれば、AIの使用は問題ないと思っています。現代を代表する新興技術として、AIの活用は避けがたいものになっています。
資料を調べたり、誤字脱字を確認したりする程度の使い方であれば、問題はないと考えています。たとえば私は中国人として日本の神社文化に詳しくないため、AIに解説してもらうことがあります。これはかつてネット検索や動画解説で調べていたものが、AI解説に置き換わっただけのことです。
次に、海外作者としてどうしても伝えたい、そして声を上げたいと思う問題があります。
海外作者がAIを翻訳に使う場合、これをどう判断すべきでしょうか?
このような立場の人は少数派であることは理解していますが、日本の小説を愛する国際的なファンとして、より適切で友好的な規定が設けられることを心から願っています。
まず、海外の作者たちが翻訳にAIを使うのは、やむを得ない事情があってのことだと私は考えています。母語ではない言語で、自分の意図を正確に表現し、読者に届く作品を直接書くことは、そもそも不可能に近いことです。言語とは本質的に文化そのものです。日本で生活したことがない、あるいは訪れたことさえない海外の作者が、あらゆる表現や言葉の選び方において日本語母語者の感覚に沿うことは、現実的には難しいことです。
私自身を例に挙げましょう。外国人として日本語を学んで7年以上、アニメを見てゲームをプレイして10年以上になります。日本語能力試験N1を高得点で合格しており、一応日本語翻訳専攻の大学院修士課程にあります。Xで日本の方々と交流したり、日本語のゲーム(サマポケ、anemoi など)をそのままプレイしたりすることも苦ではありません。字幕なしで日本のアニメを見ることも問題ありません。
しかしそんな私でも、ゼロから日本語で、自分の意図を正確に伝える小説をすらすら書くことは、正直なところできません。理由は先述の通り、私はその文化の中で生活したことがないからです。教科書通りの表現でも、実際の日本の方が日常で使う言葉とは違うかもしれませんし、ライトノベルの文体とも異なるかもしれません。
だから、私のような外国人作者にとって、AIによる翻訳はやむを得ない選択なのです。
私と同程度の日本語レベルであれば、原稿の45〜60%程度を日本語で書くことができ、AIによる翻訳後も一字一句全文を校正・確認することができます。それよりも日本語レベルが低ければ、すべてAIに任せるしかないこともあるでしょう。
このような状況に対して、独立した条項で説明・規定を設けていただけることを願っています。私のAI創作に対する立場を読んでいただいた方には、私が自分の作品に「AI使用」というレッテルを貼られることをどれほど不本意に思っているか、おわかりいただけると思います。私の作品の内容は、プロット・キャラクター・あらすじ・描写手法に至るまで、すべて自分自身で創作したものです。
ただ、これは自分がその立場にあるから言っているのではなく、現実的な理由があると考えています。
AIによる翻訳の本質は、異なる言語・文化の間に友好の橋を架けることです。 AIは創作そのものに関与しているわけではなく、ただ外国語を日本語に変換するだけであり、内容を変えたり最適化したりするものではありません。
たとえば私が中国語で「他们爆发了激烈的战斗」と書いたとして、AIがそれを勝手に「アニメで10分間描かれるような壮大な戦闘シーン」に変換してくれるわけではありません。あくまでも「二人は激しい戦いを繰り広げた」という日本語に翻訳するだけです。
作品そのものがすべて作者自身の思考と創作によるものである限り、やむを得ない手段としてのAI翻訳は、単純に「AI使用」として一括りにすべきではないと私は考えます。
私のように長年日本のアニメ・小説・ゲーム文化に親しみ、相応の日本語力を持つ海外作者は、表現の「自然さ」や「地道さ」にもこだわり、日本語母語者の言語感覚に近づこうとしています。この「自然さへの修正」は、典型的な「AI推敲」と見なされるかもしれません。しかし私は、これは本質的に異なると考えています。
日本語を学び始めた頃、先生が「こんにちは」は「今日はどうですか」の略だと教えてくれました。一方、中国語で人と会ったときの挨拶は「吃了吗?(食べた?)」——「ご飯食べましたか?」の略です。
意味としてはどちらも「会ってよかった、調子はどうですか」という挨拶の気持ちを表しています。ただ、異なる言語・文化の中で使われる形が異なるだけです。仮に私が中国語で「吃了吗?」と書いたとして、AIがそれを「こんにちは」と訳してくれたなら、作者が伝えたい意味はまったく同じであり、AIはそれを別の言語文化における表現形式へと変換してくれただけです。これは従来の意味でのAIによる文体の「美化」とは、本質的に違うと思っています。
このように、意味は同じでも表現形式が異なるケースは数えきれないほど存在します。実際にその文化の中で生活したことのない人には、なかなか理解しがたいことかもしれません。だからこそ、AIに翻訳を依頼するとき、私が最もよく問いかける言葉は「この表現は、日本語母語者の方から見て自然に聞こえますか?」なのです。
AI使用に関する厳格な規定は、創作者にとって絶対に良いことであり、絶対に必要なことです。しかしその中にも、特殊な事情が存在する可能性があります。規定がより成熟していく中で、こうしたケースにも配慮した、より適切で友好的なルールが設けられることを心から願っています。
無名の新人作家が偉そうに語りすぎてしまい、大変失礼いたしました。どうかご容赦ください。これほど長い文章をお読みいただける方もそう多くはないかもしれませんが、もしここまで読んでくださったなら、心より感謝申し上げます。




