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七月の第二週から期末試験がはじまった。中間試験が散々だった雪菜はなんとしても挽回しようと意気込み、夕食後は部屋に閉じこもり、リーベの甘い誘惑にも耐え、日付が変わるまで机に向かった。
雪菜は美月からよく、大胆すぎるとからかわれる。自分ではまじめな性格だと思っている。うまく勉強計画が立てられないのはこの食い違いに原因があるのではと雪菜は疑っている。試験一週間前までに一周目を終わらせよう、三日前までには二周目を、そして前日は間違えたところをチェックするだけ。このように計算するのだけど、高校生になっても一日当たりの適切な勉強量がつかめないうえ、やる気だけが先走り、息継ぎできない計画になってしまうのだ。試しに一日当たりのノルマを減らそうとも思った。しかし、計画どおりに進めるために手加減するのは、目的と手段を履き違えているみたいで気乗りしない。結局彼女は手当たり次第に勉強するほかなく、古典や数学などの苦手科目は後回しになった。雪菜はひいひい言いながら乗り切った。
終業式の日、雪菜が指導室の掃除を終えたのは十時前だった。夏休みの過ごし方をきかれて雪菜が「冗談ではなくて、本当に予定がないんです」と言うと、先生は失笑しながらも何か目的を持つよう勧めて、
「ところで百人一首の勉強は順調か?」ときいた。
「いえ、まったく進んでいません。でも遊び惚けていたわけじゃないですよ。暗記するよりも、興味ある歌を調べるほうが楽しくてですね」
椅子の背にもたれていた山本先生は「おや?」という顔で体を起こした。
「何か気になる歌があったのか?」
「ちょっと待ってください。おもしろいのがあったんですよ」
雪菜は小走りでドア近くのテーブルに向かい、スクールバックから本を取り出した。かの『百人一首を覚えよう ~和歌の世界へのご招待~』だ。山本先生のところに戻って、彼女が口頭で説明しようとすると、
「黒板使っていいぞ。せっかくだから授業してもらおうか」
雪菜は返事をして黒板に二首書いた。
──忍ぶれど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問うまで
──恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか
「二首同時に解説してくれるのか?」
「はい。この二首は並んでいまして、一緒にやったほうがいいんですよ。まず右は平兼盛の歌で、現代語訳は『心ひそかに隠していたけれど、私の恋心は顔色に表れてしまったようだ。<何かもの思いでもしているのですか?>と人がたずねるほどに』です。つまりですよ? 『恋をしているのですか?』ときかれたわけですよ。いやいや、それほどめずらしくないだろ、ほっといてやれよ、と思いました」
山本先生は相づちを打ちながら聞いていたが、雪菜のつけたおちに明るく笑った。
雪菜は決してふざけたわけでなかった。はじめて歌に触れた率直な気持ちを伝えただけだった。このまま続けるか、もう少し言葉を選ぶか見極めようとしていた彼女は、先生の笑顔を見ていっそう大胆になった。
「さあ続けますよ。つづいて左は壬生忠見の歌で、現代語訳は『恋しているという私の噂が早くも立ってしまったなあ、誰にも知られないように、こっそり思いはじめたばかりなのに』です。この歌を詠んだ人はすごく上品な人だと思うんです。でもですね、恋の噂が立っただけで和歌作っちゃったよ、噂を聞いたほとんどの人が夕食のころには忘れているよ、と思いました」
山本先生は
「そうきたか~」と盛り上げるように言った。
「この二首、なんとなく内容似てるじゃないですか? 実はですね、村上天皇主催の歌合で戦ったもので、歌合史上もっとも有名なエピソードとしても知られているんです。歌合とは、右チームと左チームに分かれてお題に沿って和歌を詠んで競うゲームです。平安時代から鎌倉時代にかけて流行しました。このときのお題は『忍ぶ恋』でした。さて! 気になる結果ですが、両者とも出来がよく、判者もその補佐も優劣をつけられなかったんですよ。判者は困り果て村上天皇におうかがいを立てたところ、天皇が『忍ぶれど色に出でにけりわが恋は』を口ずさみ、平兼盛の勝ちとなったんです。でもこれにはとても涙ぐましいエピソードがあるんです。壬生忠見は身分が低く歌合に粗末な装束で参加したんですよ。負けたのが相当こたえたのでしょうね。ショックのあまり拒食症になって亡くなってしまったらしいんですよ」
雪菜は先月の従兄弟の結婚式を引き合いにして、
「これ絶対、新郎新婦の馴れ初めエピソードくらい盛られていますよ」
「なるほど。よく勉強したなあ。歌合で詠むのがいかに名誉があって、歌人がいかに命がけだったかを表すエピソードだよな。負けたのに百人一首に選ばれたのは異例なんだ」
「なるほど。そういう事情があったんですね」
「丹場は歌人にも興味があるのか?」
「う~ん……。でも、最初は記号にしか見えませんよ。現代語訳にツッコミを入れたり深掘りしているうちに、頭の中で平兼盛や壬生忠見のイメージが作られてくるんです。たとえば小説を読んでいるみたいな感じですよ。読み進めていくうちにだんだんキャラクターの姿形ができあがってくるじゃないですか」
「すばらしいな。これは和歌の勉強に限った話ではないけれど、」と先生は前置きして、
「同じものに触れても何を感じるかは人それぞれだろう? でもその中には、自分にしかできない発見もあるはずなんだ。丹場には頭で考えて常識的な答えにたどり着こうとするよりも、もっと自由に──何を感じたかを大事にしてほしいな」
「はい。任せてください」と雪菜が胸を張ると、
「出典は『万葉集』だがこんな歌もあるぞ」と山本先生は言って、黒板に次の和歌を書いた。
──ふりさけて三日月見れば一目見し人の眉引き思ほゆるかも
先生は指を差しながら、
「『ふり仰いで三日月を見ると、一度見たあの女性の眉が思い出されるなあ』という歌でな、大伴家持が十六歳のころに詠んだものなんだ。歌を読むだけでもその女性の顔や雰囲気が想像できるよな。若者らしいロマンティシズムの中に繊細な余韻が残るのはさすがといったところか」
「家持はよく名前を聞きますね」
「『万葉集』のおよそ一割は家持の歌だからな。さて丹場、これにもツッコミを入れてくれ」
和歌の勉強なのにそんなにふざけていいのかと雪菜は心配したが、山本先生は
「まあいいじゃないか」と平然とした様子で、
「楽しんで勉強できるなら、それが一番だろう?」
雪菜は返事をしてから先生の書いた歌を見つめた。大伴家持になりきったり、なんとか三日月から広げたいなと考えているうちに言葉が降りてきた。
「整いました」
「おまえは落語家か!」
「では参ります。うんうん、わかるわかる、たしかに三日月と眉は似ているよ、一度くらいそう思うのが普通だよ、でも三日月が一目惚れした人の眉毛につながるなら、何見てもその人を思い出すよ──と思いました」
山本先生は雪菜の狙いどおりに笑った。
「実はこの三日月眉という発想も中国から輸入されたんだぞ」
「そうなんですか? 化粧しているうちに発見したものだと思っていました」
「驚きだよなあ。どうやって入ってきたか想像つくか?」
「うーん……」
「高校生の知識の範囲内でも答えられるぞ」
「あっ! もしかして遣唐使ですか?」
「すばらしい」
勘ではなく感で答えただけに、
「えっ! ほんとに当ってるんですか?」と雪菜がおどろきを隠せずにいると、
「なあ丹場。将来教師になってみないか?」
雪菜は山本先生がからかっているのかと思った。
「え、先生ですか? 私、頭悪いから無理ですよ。もし私が授業したら、『きちんと教えてもらえなかった』と非行に走る生徒続出ですよ」と軽い調子で答えたが、先生はまじめな顔で、
「私は教師にも個性が必要だと思っている。丹場の中学の先生で今でも記憶に残っているのはどんな先生だ?」
「ああ、そう言われてみれば、いい意味でも悪い意味でも、ずれていた先生ですかね」
先生は雪菜の回答にあきれたように笑って、
「丹場みたいに、人が口にしない部分を言葉にできる者が教師になれば、百人一首ひいては古典に興味をもつ生徒も増えると思うんだけどな」
「一つ質問いいですか?」
「どうした?」
「山本先生はなんで古典の先生になったんですか?」
「理由か。千年の時を越える言葉を生徒に伝えたいからだよ」
「と言いますと?」
「丹場は読書するか?」
「はい。一か月に二、三冊読みますよ」
「ほお。たいしたものだ。国語の授業では感じないだろうが、最近の本では、これでもかと言うほど流行りの言葉で書かれているだろう? 一見して今を書いているようにも思えるが、数年経ちブームが去ったらどうなるだろうな」
「あ、先生。それわかります! 私が最近読んだのは去年出た本で、『蛙化現象』について書いてあったんですよ。山本先生、覚えてますか?……ああ、覚えていましたか。流行りましたもんね。でも私、廃れた言葉を得意げに使っているのに興ざめしちゃったんです。一年前のものでもそうなるんですよ。今の言葉を使うのってメリットもあるんでしょうけど、同じくらいデメリットがあるんじゃないんですかね。その言葉に親しんだ人しか共感できないですし、自分で自分の寿命を決めてしまっているみたいで、なんだかもったいない気がします。それこそ諸刃の剣ですよ」
「そうだよな。私もそう思う。逆に、古に端を発し、今なお語り継がれる言葉もあるんだ。丹場が興味をもった百人一首を彩っているのは、まさにそんな言葉たちだ。時の試練を経た言葉を生徒に伝えたい。だから私は古典の教師になったんだ」
「わかりますっ!」
雪菜が叫んだのは、共感からというよりむしろ反射だった。もし山本先生に説明を求められたら、雪菜はまごつき、これまでの会話をなぞるだけだっただろう。先生の真意の半分もくみ取れていないかもしれない。しかし、彼女の辞書に「時の試練」が書き加えられると、ビニール袋に入りたがるリーベのように本能がかき立てられたのだ。




