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その晩、雪菜は灰桜色のリクライニングチェアを右に左に揺らしながら、山本先生との会話を思い返していた。高校の入学祝いに、「雪菜は本が好きだから」と母がプレゼントしてくれたものだ。三六〇度回転できるもので、普段は掃き出し窓に背を向けるように置いてある。
来週から生徒指導室に来るかどうか自分で決めていいと言われたとき、雪菜の頭には、これでようやく解放されると、安直な考えしかなかった。しかし冷静になるにつれて、もし指導室に行かなくても、行動を変えなければこれからも山本先生に会うわけで、しこりを残したまま一旦リセットできるにすぎないと気づいたのだ。もしや山本先生は雪菜がこう考えるのを見越して、自由に選んでいいと言ったのだろうか。そうだとしたら、完全に先生の手の平の上だ。彼女はそんなことを考えつつも、してやられたなどという、負の感情はなかった。
山本先生のあの言葉が引っかかっていたからだ。これまで雪菜は「遅刻してはいけない」という言葉の表面をなぞり、そこで考えるのをやめていた。母にしても、学校の先生にしても、たいていの大人は時間を説く際、「時間は誰でも平等」と言った。観念的な問題について一人で考えられるようになったのは何歳のころだったか、雪菜ははっきり覚えていないけれども、そうなる前にとうに刷り込まれた価値観で、時間は均等に与えられるものと信じて疑わなかった。しかし、山本先生はこう言った──
「私たちは生まれた瞬間にそれぞれの時間を与えられる」
その言葉を反芻しているうちに、網膜にまばゆい光が差し込んできたのだ。たとえば円錐は真横から見たら三角形、真上から見たら円に見える。斜めから見てはじめて、円錐だとわかる。同じような見方が時間にもできるはずだと雪菜は思ったのだ。
山本先生の言葉はこうも言い換えられそうだ。自分の生きている時間は自分だけの財産である、と。もしそうなら、母からもらうお小遣いや、中学の卒業式に後輩がくれた寄せ書き色紙と同様に、大事にすべきではないのか。
それから雪菜は美月のことも考えた。美月は小学生のころクラスで一番背が高く、男子に交じって少年野球チームに入っていた。中学ではソフトボール部の部長をつとめた。そんな活発だった彼女がいつのまにか哲学に夢中になっていた。真理について楽しそうに語り、「キルケゴールを読んで魂が震えた」とまで言った彼女を思い出すたび、応援したい気持ちと袖を引っ張りたい気持ちがせめぎ合うのだ。
美月が哲学に夢中になったのは内から込み上げる思いのまま行動したからだと、頭ではわかっているつもりだ。美月の見つけた原石は今ではダイヤモンドとなり、太陽にかざせば七色に輝くのかもしれない。それに比べて雪菜はまだ原石すら見つけていない。この現状にずんと胸が重くなった。時間をもっと大切にして生活を整えたら、アスファルトの小石にように、ころりと現れるものなのだろうか。
雪菜はここ最近の自分を振りかえった。恥ずかしげもなく他力本願の発言を繰り返し、置いてけぼりにされる、美月が遠くにいってしまうと不安になっていただけだ。遅刻の件だってそうだ。最初から山本先生が悪いと決めつけ、姑息な行動をした。自分はただ待ち続け、何か起これば、あれが嫌だ、これが嫌だと選り好みをする。そんな受け身で何が変わるというのか。
雪菜の目の前には二つの道がある。必ずどちらかを選ばなければならない。指導室に通うのか、通わないのか。居残り掃除はしたくないが、前者の道には何かがありそうだと雪菜は思う。原石が転がっているかもしれないし、予期せぬ落とし穴があるかもしれない。さしずめ未開の地に上陸した感じだろうか。後者の道を選ぶとしたらどうだろう。さすがに遅刻の回数は減らさなければいけないが、これまでと同じ平凡な日々が約束されていそうだ。こちらはとめどない、のどかな田園風景だろうか。
雪菜が床を蹴りながらチェアを回していると、ドサッとビーズの入ったクッションが落ちたような音がした。椅子を止めて音のしたほうを見ると、さっきまでベッドで寝ていたはずのリーベがいない。怪訝な顔で見つめていると、ひょっこり彼の顔が現れた。リーベは寝ぼけ顔でのっそりベッドによじのぼった。なるほど、障子を開けていたから隣の和室に落ちてしまったのか。雪菜は合点が行った。
リーベが彼女の家にやってきたのは、雪菜が中二のころだ。塾の帰りに自動販売機の前で倒れていたのを連れて帰ったのだ。子猫を抱く彼女を見て、母はひっくり返るような声を出したが、さすがに返しにいけとは言えなかったみたいだ。結局ミルクやりと排泄の世話をしているうちに、母にも情が移ったらしく、リーベは家族の一員になった。瀕死だった当時の面影はなく、今ではまるまる太った男の子だ。
リーベは雪菜と目が合うとベッドから降り、猫のストレッチをしてから彼女のもとに来た。ごろごろ喉を鳴らしながら雪菜のひざを耕し、腹ばいになった。パジャマ越しに彼の体温が伝わってくる。
雪菜はリーベの頭をなでながら言った。
「ベッドから落っこちるのはさすがに問題じゃない?」
彼は「みゃっ」とかすれた声で言い訳した。
雪菜はそれからまた月曜からどうするか考えていたが、ふとなにげなく、
「ねえ、リーベ。どっちがいいと思う?」
「みゃあ~」と彼のあくび交じりの声が返ってきた。
「そうだよね。リーベにはまだ早いよね」
人にきかれたら即答できるくらい真剣に考えていたのに、リーベとたわむれているうちに明るい気持ちになってきた。指導室の掃除をはじめて、途中で何かが違うと思っても、四十八日間我慢すればいいだけの話だ。失うものは何もないのだ。それなら勇気を出して新しい道を踏み出してみようか。力こぶをしたヒーローが悩みを運んでくる小人たちを吹き飛ばす爽快さがあった。
『もし……今がその時かもって思ったのなら、素直になって飛び込んでみることだね』
耳元で誰かがつぶやいたようだった。雪菜はあたりを見回した。
「今なんか聞こえたよね?」
しかし、リーベは目を閉じたまま、サイレントニャーをするばかりだ。
「聞こえたじゃん。飛び込んでみればとか言ってたでしょ?」
気のせいにしてははっきりとした声だった。それでもさすがに、神のお告げとは思わなかった。せいぜい「霊感のささやき」くらいだろうと、彼女はあっさり受け取った。
「よしっ、決めた! リーベのおかげだね。ありがとう」
彼女はリーベをわしゃわしゃとなでた。しばらくじゃれていると、彼はのけぞるように伸びをしてから、海老のように丸まるアンモニャイトになった。雪菜にとってリーベは世界で一番かわいい。リーベのおなかを触ると、彼は雪菜の手をつかまえ、猫キックをお見舞いしてきた。




