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遅刻魔と百人一首  作者: 夢見るカルガモさん
雪菜の進む道
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1

 天気予報のとおり、この日は夜になって雪が降った。雪菜はリクライニングチェアに座って百人一首を楽しんでいた。外では風が強いらしく、鎧戸がかたかた鳴っている。はたと音が止むと、ベッドからリーベの寝息が聞こえてくる。そろそろ寝る準備しなければと思いつつも、あと一首、あと一首とページをめくる手が止まらなかった。

 そんな彼女の時間を裂くようにスマホが鳴った。こんな時間に誰だろう。雪菜は眉をひそめた。ディスプレイをのぞくと、目に飛び込んできたのは勝利の名前だった。雪菜の心が岩打つ浪のようにざわついた。

 息をのむように「はい……」と出ると、しばしの間があって勝利の声が聞こえた。和子が鬼籍に入ったらしい。訃報を伝える彼の声は風に煽られる火のごとく幽かだった。

 雪菜は電話を切ってから、力なくチェアにもたれた。魂が抜けたようにボーッと虚空を見つめた。「私たちまた会えるから」と和子の言葉を思い出して、亡くなったはずないと言い聞かせたり、勝利がわざわざ嘘つくだろうかと思い直してまた不安になったり。

 その二つを行き来していたかと思えば、ふっと思考が飛び、

「和子さんの最期はどうだったのだろう」「勝利さん、今一人で大丈夫かな」と二人の心配をした。

 不思議と悲しい気持ちはなかった。去年の夏至からの思い出がごっそりなくなってしまったような、がらんどうの心があるばかりだった。自分はなんて薄情な人間なのだろう。非難したい気持ちでいっぱいになった。

 雪菜はすっと立ち上がり、窓に手をかけた。寒暖差のせいだろう。ずいぶんと重く感じた。なんとかこじ開けると、冷気がなだれ込み、空気を抜かれたビニール袋みたいに雪菜の顔に吸いついた。

 ベランダに出た雪菜が見たのは、深い静けさをまとった夜の帳と、その前を舞い散る牡丹雪だった。彼女は足を引きずって手すりに向かった。街灯に続いて姿を現したのは、町の底を埋めつくす遥かな銀白の世界だった。歩道は塗りたてのペンキのように足跡ひとつついていなかった。

 大通りに立ち並ぶ街灯は、一定の距離を保って佇んでいた。当たり前のはずのその光景が、彼女の目にはひどく不気味に映った。まるで和子の死が自然の営みであると告げているようだ。街灯はいつもより薄暗く見えた。中には消えているものもあった。

 ふらふらと夜の町をさまよっていた雪菜の視線がひとつの街灯に止まった。その明かりは濃淡の二重円を描いているように見えたが、次第にその輪郭がぼやけてきた。

「和子さん……」

 今ならまだ声が届くと思った。彼女の目尻から一筋の糸が引いた。

 その跡に冷気が張りつくと、雪菜の意識は覚醒したかのように明瞭になった。うなるような音を立てて一台の車が走り去ると、ぞっとするほどの深いしじまが迫ってきた。雪菜は和子に告げた夢を、彼女のいない世界で実現させなければならない。和子との思い出も、彼女の遺した言葉も、屈託ないあの笑顔も決して忘れまいと誓った。ふとしたはずみに現れる心の隙間に雪が積もる。

 ふり仰ぐと、雪菜の目にひとひらの牡丹雪がとまった。それは空から落ちてくる雪の群れから離れて、行く先を見失いさまよっているように見えた。


 セレモニーホールは海秋沙駅の北口を出てすぐの場所にあった。桜色と卯の花色のタイルが交互に並ぶ建物だった。控えめな色合いが雪菜の目に優しく映った。

 中に入った。学校の制服を着ていたからだろう。すぐに係の人がやってきた。案内された二階奥の部屋の前には大看板があり、力強い楷書体で『故七條和子儀 葬儀式場』と書いてあった。雪菜は受付で記帳し、香典を渡して、会場に入った。

 祭壇の中央には和子の遺影が飾られ、その前に真珠色の棺桶があった。遺影の中の和子は、雪菜の見慣れた彼女よりも若く見えた。わずかに首を回し、しゃんとした姿勢でこちらを見ている。いつの写真だろうか。じっと見ているうちに雪菜の知っている和子とはじめて見る和子──その二人の像が重なり、どちらの輪郭が本物かわからなくなった。

 祭壇近くに勝利がいた。勝利は杖をついたお年寄りと棺桶をのぞいていた。彼の背中がいつもよりも小さく見える。和子の亡くなった日からしっかり眠れていないのだろうか。

 二人の会話が終わり、雪菜が声をかけると、勝利はあわてた様子で振り向いた。いつもの朗らかな笑顔はなく、眼鏡はまるで湯気に当たったかのように白づいて見えた。

 お悔みを告げてから生前の和子の様子を教えてもらった。

「僕たちねえ、毎朝話していたんだよ。和子さんが横になって、僕は彼女の隣に座っている。話の内容はね、思い出せないくらい平凡なものだよ。幸せってこういうものなのかなって感じるくらいのね。おとといの和子さん、天井を見上げて『きれいな虹ねえ』と言ってゆっくりと目をつぶったんだよ。びっくりして名前を呼んだんだけどね、もう二度と目を覚まさなかった。去年の春から二人で覚悟してきたはずなんだけど、今日がその日だなんて……どうしても認めたくなくてね。和子さん、最期は自宅で過ごしたいと言ってたから、その願いを叶えてあげられたのが、せめてもの救いかな……」

 勝利と和子の最後もにわかに訪れたようだ。彼らの過ごした五十年のはかなさに、雪菜は胸がしめつけられるようだった。覚悟なんてできるはずがない。彼女はたまらず勝利の肩をさすった。喪服のなめらかな手触りが彼の体温を隠していた。

 話が終わって雪菜はほかの葬列者にならって席に着いた。美月が小声で「雪菜、大丈夫?」ときいた。動揺せずにいられた理由は自分でもわかっていた。車いすがないからここには和子がいないと思った。

 勝利が「和子さん。雪菜ちゃんたち、来てくれたよ」と、棺の中にいる彼女に話しかけていたときもそうだった。和子が別の場所にいる気がしてならないのだ。そのうちすぐに戻ってくる。そしてスイレンの咲く池のほとりで話ができる。そうだ。また四人で百人一首の話をしよう。

 雪菜は混乱しているわけではなかった。頭では和子の死を理解できている。しかし、感情が追いつかない。和子の訃報を聞いたあの瞬間から、雪菜の時間は止まったままなのだ。目の前にとめどなく広がる夕凪の世界はかたくなに同じ形を守り続けているように思えた。

 告別式がはじまった。導師が小さな鐘を鳴らしながら入場した。静謐だっただけの式場が荘厳さをまとった空間へ変わったのを雪菜は感じた。最初のうちは読経をなぞるように聴いていたが、和子の顔が浮かぶと集中できなくなった。はじめて会った日に笑顔を振りまいた和子。古典の話になると口数が多くなる和子。ツグミを見て「だるまさんが転んだみたい」とほほえんだ和子。たくさんの思い出が浮かんでは消え、そして消えては浮かんだ。

 ひとまず落ち着こうと、雪菜は数珠に視線を落とした。すみれ色の房を二つに分けたり、紫紺色の玉をなでたり手元を遊ばせた。読経の隙間から葬列者のすすり泣きが聞こえる。

 導師の声は体を痺れさせる鈍い響きがあるのに、耳から入ってくる音は単調で、その落差が雪菜の不安をかき乱した。不協和音はそれだけではなかった。線香の香りもだ。鼻孔をくすぐる甘い匂いは、和子に思いを馳せている雪菜にそっと寄り添いながらも、まどろみの世界にいざない、言葉を溶かしてしまうのだ。

 どこかからドォンと重い音が聞こえた。遠くで雷が轟いたような、何かが爆ぜたような。音は間隔をあけながらも規則正しく聞こえた。わずかながら大きくなっていくようだ。雪菜の夕凪の世界が微かに揺れた。海面に波紋が立った。

 そのときだった。螺旋のように絡まり合った糸の塊から一本の糸を手繰り寄せるかのように、和子の匂いを嗅ぎ分けたのだ。雪菜はあわてて顔を上げた。目の前の光景、その明暗はこれまでとは異なっていた。急に別の葬儀場に迷い込んだような強い錯覚だった。

 そして彼女ははっきりわかってしまった。和子はもうこの世にいないのだ。もう二度と彼女に会えないのだ。堤防が決壊するかのように内からあふれ出る気持ちを抑えられなくなると、雪菜の止まっていた時間が動き出した。氾濫した川のように感情があふれ出し、彼女はたががはずれたように泣きじゃくった。力で押さえつけようとすると、悶えるような嗚咽になった。美月が背中をさすったのがわかった。

 ご焼香のとき、

「和子さん。出逢ってくれてありがとうございました」と伝え、雪菜は深く頭を下げた。じゅうたんに涙がしたたると、それは時間をかけてゆっくりと広がっていった。

 葬儀が終わり、四十がらみの女性司会者が故人紹介をした。雪菜の知っている和子もいれば、知らない和子もいた。

「本日ここに集まりました皆様に、故七條和子様についてお伝えしたいと思います。七條和子様は去る二月二十三日七時十九分、愛するご家族に見守られながら、八十二歳の天寿をまっとうされました。和子様は長年、水薙鳥みずなぎどり高等学校で教鞭をとられ、多くの生徒の人生に深い影響を与えてこられました。送り出した生徒は一万人近くだと聞いております。厳しくも愛情に満ちた指導で、生徒たちから畏敬の念を持って見られる一方、深く慕われる存在でもありました。時には困難を抱えた生徒を退学させまいと深夜まで奔走し、ある男子生徒の──『もう先生を裏切れないから』という言葉に涙され、教育者としての使命に満ちた日々を過ごされたようです。定年後は海秋沙コミュニティーセンターに通い、合唱サークルに参加され、音楽を通じて新たな喜びを見出されました。オーケストラや日本舞踊にも造詣が深く、芸術を愛する心を最後まで持ち続けられました。晩年はかつての教え子たちが訪ね、また新しい友人との語らいを心待ちにされたりと、豊かな人間関係に恵まれた日々を送られたようです。闘病しながらも弱音を吐かず、最後まで笑顔を絶やさない方でした。本日喪主を務める夫の勝利さんをはじめ、ご遺族の皆様とともに、七條和子様の温かな人柄と、教育者として、また一人の人間として、残された大きな足跡をしのび、ここに謹んで哀悼の意を表したいと思います」

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