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遅刻魔と百人一首  作者: 夢見るカルガモさん
遅刻魔の見た時間
26/32

7

 二学期の終業式が近づいたころ、雪菜の居残り掃除は最終日を迎えた。十日ほど前から山本先生が黒板に大きく「残りあと●日」とカウントダウンしてくれた。はじめ雪菜の中にあったのは、よろこびと面映ゆさだけだった。けれども最後の掃除を終えたときには、その二つをかき消すくらいのおぼろげな戸惑いが面となって広がっていた。

「よしっ、丹場。これにて掃除終了だ。よく頑張ったな」

「ようやくって感じですよ」

「掃除を始めてからも、ちょくちょく遅刻するからだろうが。どうだ、達成感あるか?」

「そうですね……」と雪菜は教室を見回した。

 山本先生は明日からも同じ学校にいる。もし雪菜が願えばいつでも会えるはずだ。しかし、彼女にはもう指導室に来る理由がない。山本先生に会いたくなって指導室に来ても、これまでと同じ密度で話はできないだろう。長い夢から覚めて現実に戻らなければならない。そんな気持ちになったのだ。

「いろんな気持ちがあって、なんと伝えていいかわからないです。今日まであったものが、明日にはなくなってしまうなんて、なんだかさびしいものですね」

「まあそう言うな。初めてここに来たときは不満だらけの顔をしていたが、今は見違えるようになったじゃないか」

 山本先生は思い出したように、

「そう言えば、あれから七條先生とは会っているのか?」

「海秋沙駅のそばに大きな自然公園あるじゃないですか」

「ああ、バーベキューやっているところか」

「はい、そうです。そこで時間を合わせて週に一、二回会っていたんですけど、この間、もう会うのはおしまい、って言われてしまいました」

「そうなのか……。七條先生なりに悩んだのかもしれないな」

「嫌われたのかなってショックでした」

「そんなことあるもんか。丹場は知らないだろうが、昔の七條先生はとにかくおっかなくてな、逃げようもんなら地の果てまで追っかけてきそうな気迫があった。退職してから急におだやかになって、その変化に驚いたものだ。私は前にこう言っただろう?  時間は物の形を変える、と。ところが、変わらないものもあるんだ。こう言っては叱られるだろうが、七條先生はあまり理性的なタイプではなくてな、情にほだされてよく行動が先走ってしまうし、場の雰囲気にのまれて何でも引き受けてしまうところなんか、今も昔も変わらない。あっさり人を切り捨てられるほど器用な人でもないだろう。もし心配なら勝利さんに相談してみたらどうだ?」

「いきなり電話かけたら失礼じゃないですかね?」

「考えすぎじゃないか?」

「そうですかね」

「人と人の関係にはどうしてもタイミングってものがある。丹場と七條先生の間に何があったかはわからないが……」と言ってから、先生はふっと表情を崩し、

「なーに、そんな不安そうな顔をするんじゃない。もしうまくいかなかったら、そのとき悩めばいいじゃないか。それに、そのタイミングがいつかは、私よりも丹場──おまえのほうがわかるんじゃないのか?」

 先生と話しているうちに、雪菜は自分の内にも変化が起きているのを知った。以前なら駆け出してから考えたのに、考えすぎて動けなくなっているだなんて。自分らしくないと思った。

「私、なんだか臆病になってたみたいです。ありがとうございます」

 山本先生はほほ笑みながら、

「さて丹場。最近百人一首で感動した歌あったか?  もしあったら、最後に授業してくれないか?」

「はい。わかりました。これは本見ないでも大丈夫です」

「おお。頼もしいな」

 雪菜は黒板に書いた。

 ──我が袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし

「これは二条院讃岐にじょういんのさぬきの歌です。現代語訳は、『私の着物の袖は引き潮でも見えない沖の石のように、人は知らないけれども、涙でぬれて乾く暇もない』です。和歌には、よく袖がぬれたって表現が出てくるじゃないですか。最近はすぐに、涙を袖で拭いたからぬれているんだなと、頭が回るようになったんですけど、沖合の石に例えて、ずっとぬれていると詠んだ歌は少ないですね」

「そうだな。それにしても渋いの選んだな」

「はい。この歌はですね、和泉式部いずみしきぶの歌の本歌取りなんです」と言って、雪菜は黒板にもう一首書いた。

 ──我が袖は水の下なる石なれや人に知られで乾く間もなし

「本歌取りとは、ざっくり言うとオマージュです。有名な和歌の言葉を使って、その世界観を取り入れるんです。二条院讃岐がこの歌を詠んだら空前の大ヒットになって、彼女は『沖の石の讃岐』と呼ばれたんです。なんだかふざけているみたいで笑ってしまいますけど、この歌にはもっとおもしろい話があるんですよ。山本先生、ぬえって知ってますか?」

「たしか……妖怪だったか?」

「はい。頭はサル、胴がタヌキ、手足がトラで、尾がヘビをしているんです」

「いろんな動物が混じりすぎて想像できないな」と先生は笑った。

「ですよね。二条院讃岐の父は、なんと宮中に表れた鵺を退治したのでも有名なんです」

「丹場はそういう話好きそうだな」

「はい。都市伝説大好きです。でも残念ながら、鵺の正体って、実はある野鳥だと言われているんです」

「そうなのか?」

「はい。トラツグミという鳥なんです。見た目は地味なので説明するのは難しいんですけど、特徴と言えば、おなかにたくさんの三日月斑があるくらいですかね。夜中とか早朝に『ヒィー、ヒィー』って寂しそうに鳴くので不吉なものとされて、鵺と思われたみたいです。トラツグミはずんぐりむっくりの体型をしていて、餌を取るときにお尻をふりふりするんですよ。地面を揺らしてミミズを驚かせるためなんですが、『トラダンス』とも呼ばれていて、かわいすぎて反則なんです!」

「しかし丹場は本当によく勉強するな。まさか百人一首とバードウォッチングの知識をつなげるなんてびっくりだ。 今の丹場なら理解できるだろう。もし和歌の道に進むなら、是非とも押さえてほしい概念だ」

 山本先生はゆっくりと立ち上がり、黒板に「幽玄」「有心」と書いた。まるで師匠が弟子に奥義継承をするみたいだと雪菜は感じた。

「幽玄を一言で言うのは難しいのだが、物事の趣というものはだな、言葉では言い尽くせない余情があるんだ。五感で直接感じとれるものではなく、想像力をふんだんに働かせてはじめてとらえられるものといったイメージだな。松尾芭蕉の『古池や蛙飛び込む水の音』がいい例だろう。丹場、この俳句からどんな情景が浮かんだ?」

「えっと、季語は蛙なので春ですよね。古池から花曇りの日を想像しました。静寂のなか、蛙が池に飛び込むとチャプンと音が聞こえてきます。そして池にゆっくりと波紋が広がります。波紋が消えるとまた深い静寂がやってくる。そんな感じですかね」

「おまえは詩人か!」と山本先生は言って、

「さて次は有心うしんだ。有心とは情意のこもった歌風を言ってな、深い情趣の中にある余情を、優美に、そして妖艶に表現することをいう。だから私たちは和歌を鑑賞するときには口語訳に縛られず、言葉の選び方、表現、韻律、格調を味わおうとする姿勢が大事なわけだな。幽玄から有心へと発展させていったのが──説明は不要だな。藤原定家だ」

「頭では理解しているつもりですが、口で説明しろと言われたら難しそうです」

「理解度何パーセントくらいだ?」

「五十パーセントくらいでしょうか。幽玄は物の奥深くに隠れている本質で、有心はその本質をどう表現するのかといったところですかね」

「それだけわかったら大したものだ。あとは丹場が和歌と向き合って深めていくといい」

 夏至にはじめて指導室を訪れたときには、西日が雪菜の立っている位置まで届いてなかったはずだ。しかし冬になって、もう膝あたりまで陽が当たっている。季節の移ろいを感じた。この窓から夕焼けを見ながら山本先生と話をするのは、もうこれが最後なのだろう。

「先生。最初の居残り掃除の日、私、遅刻の何が悪いのかわからないと言ったじゃないですか。あれからいろいろ考えたんです」

「納得できる答えが見つかったのか?」

「はい。身も蓋もないと思うんですけど、『なぜ遅刻してはいけないか』という問い自体に意味はないと思うんです。時間は大切だからとか、社会のルールだからとか、建前程度の答えしかありません。しかし遅刻がきっかけで、私にはいろんな変化がありました。山本先生のおかげで百人一首に夢中になったし、古典だけじゃなくて人生の知恵も教えてもらいました。今まで漠然と捉えていた時間をじっくり考える機会もありました。百人一首が好きになって勝利さんや和子さんとも出会えました。より自然が好きになってバードウォッチングという趣味ができました。今まで流されるように生きてきましたが、人生を前向きに考えられるようにもなりました。遅刻分の埋め合わせをしたという意味では、プラスマイナスゼロになるのでしょうけど、同じゼロでもその裏にはいろんな意味があると思うんです。山本先生、私がはじめて指導室の掃除をしたときに教えてくれましたよね。『因果応報』にはもっと深い意味があるんだ、って。最初はぴんときませんでしたが今ならはっきりとわかるんです。生徒指導室の掃除をやるか一生懸命考えましたけど、やると決めて本当に良かったと思います。当たり前のように遅刻していたあのころと今では、私に流れている時間が違います。今の自分が好きなのでもう遅刻しません!」

 雪菜が宣言すると、山本先生は深々とうなずいた。

「丹場が納得できたなら、それが正解だろう」

 それから少しだけ話をして、雪菜が名残惜しいですが──と帰ろうとすると、先生は恥ずかしそうに

「家に帰ってから開けてくれ」と言ってイラストつきの封筒を渡した。手紙をくわえた鳥と郵便ポストで待っている犬が描かれていた。

 昇降口に向かう途中、やはり封筒の中身が気になった。山本先生には悪いと思いながらも、雪菜は柱のかげに隠れて封筒を取り出した。便箋が一枚入っていた。中を見ると、書道師範顔負けの字が書いてあった。

『丹場へ

 私が「お疲れ様」というのはこれが最後になるな。今はどんな気分だ?  清々しさを感じているところだろうか。それとも小さな感傷に浸っているところだろうか。

 掃除よく頑張ったな。今日は掃除したくないと思った日もあっただろう。さぼって帰りたいと思った日もあっただろう。それでも一度も休まず指導室に通ったのは本当にすごいと私は思う。同じ事をこつこつ続けるのは何よりも難しいのだから。

 人生は長い。人を騙したり嘘ついたりせず、きちんと向き合っていれば必ず壁にぶつかる。抜き差しならない事態に困惑し、頭を抱える時もあるだろう。

 指導室で私と過ごした日々は──逃げ出したくなった時にふと思い出して笑顔になれる、そんな丹場の財産の一つであってほしいと思う。

 放課後楽しそうに百人一首の話をする丹場を見て、高校時代を懐かしく思い出した。素敵な時間をありがとう。たまには顔を出して、百人一首や鳥の話をしにきなさい。』

 雪菜は生徒指導室を振り返った。居残り掃除を命じられて指導室をこっそり通り過ぎようとする、半年前の自分が見えるようだ。

 掃除をやると決めてこの場所から雪菜の青春が動き出したのだ。あのときは自分の心に素直に行動できたが、もし勇気がなくて一歩踏み出せなかったら、今も変わらぬままだったのだろうか。

 雪菜はもう一度和子に会いに行こうと思った。和子は「もうこれで会うのはおしまい」と言ったが、あんな別れ方で終わらせていいわけがない。たとえ拒否されたとしても、同じ時間を過ごしてくれた感謝だけは伝えよう。雪菜は山本先生に背中を押されたように昇降口を駆け抜けた。

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