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ある日の放課後。雪菜が海秋沙自然公園の池のほとりに着くと、すでに七條夫妻が待っていた。さっそく二人に美月を紹介し、美月に二人を紹介した。
この日雪菜は一人でここに来るつもりだった。美月に今日は予定があるから先に帰ってと伝えたら、彼女は「あ! もしかして男?」と騒いだり、「私も連れて行ってよ」としきりに言うので、しぶしぶ連れてきたのだ。
美月は人見知りのくせに雪菜のあとについてきたがる。雪菜は美月がなじめるか心配だったけれども、七條夫妻が雪菜にそうだったように、美月も敬称で呼び、親しげに話してくれたから彼女も会話に入りやすかったようだ。美月の顔からはこわばりが消えていた。
近況を話していたとき、雪菜は身の回りで起こった珍事を思い出した。
「あ、そうだ。勝利さん、和子さん、聞いてくださいよ。この間、変なことがあったんですよ。学校から帰ったら、母が電気もつけずうなだれるように立っていたんです。きつねに憑かれたような顔していたから、『めっちゃ怖いんだけど……。どうしたの?』ってきいたら、母は目だけ動かして放心したように言ったんです。『雪菜がね……事故に遭っちゃったみたいなの。今すぐ病院に行かなきゃ……』って。母の手を見たら財布をギュッと握りしめていたんですよ。これはまずいと思って、『いやいや目の前にいるじゃん。それ単なる詐欺だって──』と必死に止めたんです」
「雪菜ちゃんのお母さんは、人を信じやすい方なのかな?」と勝利がきいた。
「いえ、かなり警戒心強いほうだと思うんですけど、いったんこうと決めたら突っ走っちゃうタイプで、イノシシよりも猪突猛進なんですよ」
「なんだかすごいね」と勝利は笑って、
「最近の詐欺って、警察の番号からかかってくるっていうじゃない? 僕は経験ないけどさ、雪菜ちゃんのお母さんみたいにパニックになっちゃう気持ちはわかるなあ」
「そんなもんですか?」と雪菜がきくと、和子が言った。
「百人一首ではないんだけど、藤原兼輔──紫式部の曾祖父ね、彼の歌にこんなのがあるの。
──人の親の心は闇にあらねども子を思う道にまどひぬるかな
『親の心は闇のように判断力を持たないわけではないけれど、子どものことになると、理性を失って迷ってしまうものだなあ』という意味ね」
場にふさわしい和歌を和子はさらりと暗唱した。雪菜は手品を見たかのように拍手した。それにしてもおどろきだ。七條夫妻が母の奇行に共感したことも、すでに平安時代に詠まれていたことも。
会話が一段落すると、和子がたずねた。
「雪菜ちゃん、百人一首の勉強は進んでる?」
雪菜は思い出したかのように手を打った。
「あ、そうそう。忘れるところでした」
彼女はスクールバッグから『一冊でわかる物語百人一首』を取り出して、
「おもしろい歌があったんですよ」と言って、小式部内侍の和歌を読み上げた。
──大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立
「あの……ちょっといいですか」と美月は七條夫妻に断ってから雪菜にたずねた。
「その歌、どういう意味なの?」
「えっとこれは前提知識が必要な歌なんだけどね、作者の小式部内侍は子どものころから和歌が得意だったの。でも、母の和泉式部が代わりに作ってるんじゃないか、って噂があったんだよ。小式部内侍が歌会に参加したら、藤原定頼にこんな皮肉言われるの。『お母さんの元に使いは出しましたか? 代作が届かないのは心配でしょうね』って。そこで彼女はこの歌を詠んでやり返したの。意味は『大江山を越え、生野を通って、母のいる丹後国へ行く道のりは遠いので、私はまだ天の橋立を踏んだことないですし、母からの手紙も届いておりません』だよ」
「それのどこがすごいの? 全然普通じゃん」と美月が言った。はじめてこの歌に触れたとき、雪菜も美月と同じような感想をもった。これは噛めば噛むほど味が出る歌なのだ。雪菜は共有したいと思って、
「じゃあ、美月にテストしていい?」
「うん。どんと来い!」
「掛詞って何でしょう?」
「ギャグでしょ? 木の『松』とwaitingの『待つ』みたいな」
「おお、いいね。じゃあ縁語は?」
「エンゴ? 習ってない」
「いやいやいや、絶対習ってる。テストにも出てたし、二学期になってからもやってるはず」
美月は雪菜によく哲学の話をする。難しい内容でもわかりやすく語る美月を見るたび雪菜は感心する。しかし、古典の話になるとどうしてこうもいい加減になってしまうのだろう。雪菜は不思議で仕方ない。
「この歌のすごいところはね、芸術点の高さなんだよ」
「フィギュアスケートみたいな?」
「そうそう」
雪菜はジェスチャーも交えて、
「『いく野』には地名の『生野』と『野を行く』が掛かっていて、『ふみ』には『文』と『踏み』が掛かっているんだよ。縁語っていうのは連想ゲームみたいなものでね、一つの和歌に関係ある言葉を詠み込んで、塩コショウみたいに味付けするの。この歌では、『橋』と『踏み』が縁語。これだけでもすごいんだけどね、もっとすごいの。大江山(大枝山)、生野、天の橋立という順番で出てきたでしょ。おどろくなかれ、これは地図通りの順番でね、つまり距離も表しているんだよ」
「歌もすごいけど、雪菜もすごい」と美月はビー玉のような目になった。
「これにはまだ続きがあってね、小式部内侍は詠み終えて、定頼の袖をつかんだの。でも定頼は返歌できずに、振り払って逃げ出したって言われてるんだよ」
「でもね、」と和子が口をはさんだ。
「定頼は軽率なところもあったみたいだけど、小式部内侍と恋の噂があったくらいだから、代作疑惑を晴らすために一芝居打ったんじゃないか、とも言われているのよ」
「へえ、そんな裏があったんですね。知りませんでした」
雪菜はぽかんとしたが、
「あっ、それでですね、この『大江山』にそっくりな歌があったんですよ」と言って雪菜はもう一首読み上げた。
──有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする
「雪菜、解説プリーズ!」
「オッケ~。これはしばらく来なかった男が『あなたが心変わりしたかと思いまして』と言い訳したとき、大弐三位が詠んだ歌なんだよ。現代語訳は『有馬山から猪名の笹原に風が吹くと、笹の葉がそよそよと鳴ります。その<そよ>ではありませんが、そーよ、そーよ、忘れたのはあなたの方ですよ。どうして私があなたを忘れたりするのでしょうか』だよ。ちなみにこの大弐三位は紫式部の娘」
「へえ。紫式部の子どもも有名だったんだねえ。あれ?」と美月は声は上げて、
「でもさ、雪菜が言った二首、全然違うじゃん。さっきそっくりだとか言ってなかった?」
「ああ。この二首はどちらも『歌枕』から始まるんだよ」
「何それ?」
「あっ、ごめん。『歌枕』っていうのは和歌の詠まれた場所でね、アニメで言うところの聖地みたいなもんかな」
「ああ。わかりやすい」
「小式部内侍の歌は『大江山生野』で、大弐三位の歌は『有馬山猪名』から始まる。そしてね、どちらも三句目の最後に『ば』があるしさ、四句目にある『ふみ』と『そよ』がそれぞれ掛詞になってて、その位置まで同じなの。さらに和泉式部と紫式部というライバル同士の娘だし。なんか怪しくない?」
「うん。めっちゃ怪しい」
「雪菜ちゃん、すごいじゃない! 一首一首深く学んでいるのねえ」と和子は雪菜をほめた。
「あなたの言うとおり、この歌は定家が意図的に仕掛けたものだろうね。そしてね、大弐三位が『有馬山』を詠んだ相手というのも、実は藤原定頼と言われているのよ」
スイレンを眺めながら四人で百人一首の話をする時間は、野に咲くラベンダーのように華やかだった。雪菜はこの時間が止まってほしいと願ったくらいだ。
「百人一首って、もしかしてめちゃくちゃおもしろい?」と美月がきいた。
「うん、いろんな人が出てきておもしろいよ。『一夜めぐりの君』と呼ばれる遊び人が出てくるでしょ~。日本三大怨霊のうち二人も出てくるでしょ~。あとね、昼は朝廷に、夜は閻魔様に仕えてたとんでもない人もいるから一度はまったら抜け出せないよ。でも一番楽しいのは、和歌を読むとその人になれてね、その人の目線でしか見えない景色が見られるところかなあ」
雪菜がせっかく百人一首を学ぶ楽しさを伝えたのに美月は、
「ダメだ……。『一夜めぐりの君』から先が入ってこない……」と腹を抱えて笑った。
帰る時間になって七條夫妻にあいさつすると、
「十月の話なんだけど、うちでパーティーするのよ。雪菜ちゃんと美月ちゃんも招待したいんだけどどうかしら?」と和子が言った。
雪菜はもちろん参加したかった。反対する母の顔が浮かんだ。答えあぐねていると、
「私も行っていいんですか?」と美月が助け舟を出した。
「もちろんよ。娘や教え子も来てざっくばらんに話をするから、もしよかったら遊びに来てね。おもしろい人たちだから、二人ともすぐに仲良くなれると思うよ」
和子を補足するように勝利が、
「二人とも未成年だから親御さんに許可もらわなければいけないけど、もし心配なら一緒に来てもらってもいいし、僕からもあいさつするからね」と住所を書いたメモを二人に渡した。
夕食のとき、雪菜はさっそく母にきいた。
「勝利さんと和子さんがね、パーティーに誘ってくれたの。美月も一緒だからさ、参加してもいい?」
「夜?」
「うん」
「ダメに決まってるでしょ」
「ええっ、なんでよ。なんでいつも嫌がらせするの?」
「あのねえ、私は嫌がらせしようとしてダメって言ってるわけじゃないの。あんた、まだ高校生でしょ? 何かあったら誰が責任取ると思ってるのよ」
「自分の責任は自分で取る。それに何も起きないって!」
「取れないでしょ。ダメったらダメ!」
「ちゃんと聞いてよ」
「聞いてるってば」
「パーティーに来るの私たちだけじゃなくてね、和子さんの生徒もたくさん来るんだよ」
「ああ。たしか高校の先生してたって言ってたっけねえ」
「そうだよ。だから安心でしょ?」
「最近は教師のほうが心配よ」
「え~、そしたら美月が一人で行く羽目になっちゃうじゃん。なんでそんないじわるするの?」
「だ・か・ら、いじわるしようと思って言ってるわけじゃないの! 今日はやけにしつこいわねえ」
母子家庭の負い目から雪菜は伊澄に反対されるとあきらめがちだった。しかし、今回だけは引き下がりたくなかった。それから二人は参加したい、ダメの応酬をした。母は心変わりしなさそうである。
「じゃあさ、こういうのはどう? あとで勝利さんに電話するからさ、お母さん話してみてくれない? お母さんが変な人って思ったら潔くあきらめるから。話すだけ! お願いします!」
「うーん……」と伊澄は渋ったが、雪菜が手を合わせて一生のお願いを使うと、
「話してみるだけだからね」と妥協してくれた。
夕食後、雪菜は勝利に事情を説明してから伊澄にスマホを渡した。
伊澄は受け取ったときこそ嫌そうな顔をしたが、電話に出るとよそゆきの声になった。
雪菜がそわそわしながら伊澄の前を歩いていた。母は追い払うような手振りで、
「話しているんだから静かにして」と言った。
雪菜は伊澄の隣に座った。息をひそめても勝利の声は聞こえてこない。
母はソファーに浅く腰をかけ、背筋をぴんと伸ばしている。丸い声をしているけれど、気を許しているわけではなさそうだ。雪菜には、まるで突然出会った動物たちが一定の間合いに入らないかのように話しているように見えた。
ところが、話がパーティーに及ぶと伊澄の口調が変わった。
「娘はまだ未成年です!」と叫ぶように言った。
雪菜には勝利の反応がわからない。とっさに母の袖を引っ張ったけれども振り払われた。
十分ほど話して伊澄は、
「疑っているわけではありませんが──」と七條夫妻の名前、住所、電話番号を書き留めて、
「娘ともう一度話し合わせてください」と伝えて電話を切った。
そのあと伊澄は雪菜に七條夫妻の連絡先を出すように言った。雪菜が応じると、伊澄は二つの情報と照らし合わせていたが、
「嘘ではないみたいね。うーん……。私は気が進まないけど、参加したいのよね?」
「うん」
「どうしても?」
「うん。どうしても」
「それじゃあ、夜九時に迎えに行ったらすぐに帰るって約束できる?」
「勝利さんは十時までって言ってたよ」
「それならダメ」
「九時まででいいから! 約束する」
母は突き刺すように雪菜を見た。雪菜は念押しするかのように手を合わせた。
「お願い! お母さんが来たらすぐ帰るから」
「わかった……。いいよ」と伊澄の表情はやわらかくなった。
「私ね、探ってみようと思ったんだけど、七條さん、どんな言い方しても声のトーンが変わらなかったのよね。きっといつもニコニコしている人なんだろうね」
「うん。絶対に敵作らない人だよ」
「わかる気がする」




