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この日は始業式だけで放課となった。夏休みに和歌に夢中になった雪菜は、一刻も早く山本先生と話したくてたまらなかった。彼女が指導室の掃除を終えたのは十一時前だった。
仕事中の山本先生に報告すると、先生はトイレでふんばるような神妙な顔で椅子を回した。
「お疲れさま。……焼けたか?」
「はい。少し焼けました。図書館に行ったり、バードウォッチングしたりで大忙しだったんですよ」
「すごいなあ。充実した夏休みになったみたいだな」
「はい。先生はどこか行かれたんですか?」
「家族で軽井沢に行ってきたぞ」
「えっ! 軽井沢ですか?」
雪菜が声を張り上げると先生は怪訝な顔できいた。
「ん。何かあるのか?」
軽井沢は雪菜の思い出の場所でもなければ、憧れの場所でもない。つい先日目にした地名で、偶然とは思えないめぐり合わせにおどろいたのだ。
「そういうわけじゃないんですけど、先生知っていますか? 軽井沢は三大探鳥地なんですよ」
「なんだそれ?」
「バードウォッチングの聖地ってところですかね」
「ああ、探鳥な。ちなみに残りの二つはどこなんだ?」
「奥日光と富士山麓ですよ」
「ほお。丹場は野鳥に詳しいのか?」
「いえ。母から野鳥観察の極意を授かりまして」
勢いあまってうそぶいてしまった雪菜に山本先生は疑う様子なく、
「すばらしいな。その極意とやらを教えてくれないか?」
「えっと、そうですね。最初の入口は鳥を見てかわいいと思えるかどうかでしょうけど、私の一番のおすすめは目を見ることです」
「目か?」と、先生は考え込むように腕を組んだ。
「はい。じっと目を見ながら行動を観察していると、親しみを感じますし、人間を相対的に見られるんですよ」
雪菜は七條夫妻と会った日を含めて三度野鳥観察をして手応えを感じていた。
「ずいぶん難しいこと言うんだな」
「いえ、そこまで深い意味があるわけじゃなくてですね、たとえばこの前電線にムクドリが二羽止まっていたんですけど、その間にもう一羽やってきたんですよ。そしたら窮屈だったらしく、右端のムクドリが二、三歩ずれたんです。そんな状況、私たちも経験ありますよね。え、なんで真ん中に入るの? みたいな。あとですね、キジバトが『止まれ』の標識に止まるなり、左右確認した奇跡を目撃したときもあります。左右確認は単に安全のためとしか思いませんでしたが、もしかして動物の本能に基づいた行動なのかなって考えたりします」
「なるほど、そんな楽しみ方もあるのか」
「そうなんですよ~。先生も鳥に興味あるんですか?」
「知人にも同僚にもバードウォッチング趣味の人いなかったからな。どんな世界なのだろうと気になったんだ。丹場は興味をもったら、とことん追求するタイプなんだな」と先生は言って、
「私が古典の道を志したとき、恩師からこんな言葉を教えてもらった」と、苦しそうに立ち上がった。
「どうしたんですか?」
「……痛風だ」
先生の動きは手足が棒になったみたいにぎこちなく見えた。
「痛そうですね」
「ああ。骨折したかと思うくらいだ」
山本先生は「いてて……」と言いながら黒板に『花鳥風月』と書いた。
「どんな意味かわかるか?」
雪菜はその文字を指差して、
「この四つのことですよね?」
「普通そう思うよな。ところが、花鳥風月は自然界の美しい景物──と言うと抽象的すぎるが、風流を感じられるものに対して使われるんだ。花は春の美しさ、鳥は秋の哀しさ、風は夏の涼しさ、月は冬の寂しさの象徴だと言われている」
「鳥も風流なものに入るんですね。それにしても花鳥風月が四季と関係ある言葉とは知りませんでした」
「私は疑いをもっているが、人間、花鳥風月の順で理解ができるようになると言われている。丹場は鳥には詳しそうだが花はどうだ?」
「見るのは好きですよ。子どものころ外に遊びに行くよりも花の図鑑ばかり見ている時期があったらしく、母が心配したそうです。あ、でも、このあいだ、スイレンとハスを見間違ったくらいなので広く浅くなんですかね。山本先生はどこまで進んでいますか?」
「仕事柄、花と風と月はわかっているつもりだが、鳥と言われて思い浮かぶのは、ウグイス、ホトトギス、雁など風物だけだな」
「先生、そろそろ百人一首の話に移っていいですか?」
「なんだなんだ。またずいぶんと唐突だなあ」と山本先生は口をゆるめた。
「おもしろいネタを仕入れたんですよ。早く言いたくて始業式のあいだ、ずっとうずうずしていたんですから」
「そうか。ではまた授業してくれるか?」
雪菜は返事をしてから「花鳥風月」の隣に和歌を書いた。
──立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば今帰り来む
「現代語訳は『私はあなた方とお別れして因幡国に行きますが、その国の稲羽山の峰に生えている松のように、私を待っていてくれると聞いたならすぐに帰ってきましょう』です。これは在原行平が京から因幡国──現在の鳥取県に赴任するとき、別れを惜しんだ歌なんですよ。これから出かけるのに、もう帰りたいと思っているのがおもしろいんですけど、この歌にはすごい仕掛けがあるんですよ。なんと! 『別れ』『往なば』『待つ』『帰り』『来む』と、人の往来を意味する言葉がなんと五回も出てくるんですよ。それが三十一文字に入っているって感動しませんか? あとこの歌にはもっとおもしろい話があってですね、飼い猫が迷子になった場合のおまじないとしても有名なんです」
「そうなのか?」と先生は豆鉄砲を食らったような顔をした。
「はい。おまじないの方法はですね、短冊に和歌を書いて猫の皿にのせたり、逆さまにして門口に飾ったりといろいろあるんですが、一番簡単なのは、一日三回の音読なんです。私、猫飼っているんですよ。リーベっていう名前なんですけど、スヤスヤ寝ているリーベめがけて何回も音読したんですよ」
山本先生は「そんなことしたのか」と気の抜けたように言ったが、
「うちは犬を飼っているが、犬にも効果あるのか?」
「はい。人にも効き目があるらしいので、きっと犬も大丈夫ですよ」
「わかった。今晩やってみるとしよう」
「はい。是非やってください」
それから話題はペットの名前に移った。
「リーベは化学の『水兵リーベ、僕の船』からとったんですよ。山本先生の家の犬は何という名前ですか?」
「内緒だ」
「ええっ~。いいじゃないですか。教えて下さいよ」
雪菜が聞いても、先生は渋った。
「絶対に笑いません」と彼女がしつこく言うと、
「妻と娘に押し切られただけだからな」と前置きしながら、
「ミルフィーユだ」
西洋貴族が付けたような上品な名前に雪菜は固まった。だんだん思考が追いついてきて、もしミルフィーユが大型犬だったらと想像したり、スキンヘッドの山本先生がランニングシャツを着て「こら、ミルフィーユ」と躾けている場面が浮かぶと彼女はこらえきれなくなった。
「こらこら、笑わないと言っただろうに」と山本先生はむっとした様子だった。
「すみません」と謝りつつも雪菜はしばらく笑っていた。
「そうだ。先生、さっきの在原行平の歌みたいに、百人一首のおもしろ都市伝説はないんですか?」
「そうだなあ。丹場は鳥が好きそうだから」と、山本先生はふたたび痛そうに立ち上がって黒板に書いた。
──かささぎの渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける
「カササギの歌じゃないですか」と雪菜は驚きの声を上げた。
「これ難しかったのでパスしてたんですよ」
「この前話した大伴家持の歌だ。解釈が天上説と地上説に分かれるから難しいかもしれないな。ところで、カササギというのはどんな鳥なんだ?」
雪菜は百人一首の息抜きに野鳥図鑑を見ていた。カササギは好きな鳥の一つだった。
「北半球には広く分布していますが、日本では佐賀にいるカラス科の鳥ですよ。カチカチ鳴くので『勝ちガラス』とも呼ばれています。一見すると白黒のツートーンなんですが、青色光沢の翼がきれいな鳥なんですよ」
「美しい鳥なのか?」
「はい。学名が『ピカピカ』と言うのでも有名なんです」
「本当か?」と先生は疑っていたが、
「さて、これから説明するのは天上説だ。実はカササギは天の川と関係があるんだ。七夕の日に織姫が彦星に会いに行くための橋は、カササギが翼を並べて架けたと考えられていた。実はこれは冬の歌なのだが、『カササギが天の川に架けたという橋に、白く霜が下りているのを見ると、天上の夜もすっかり更けてしまったことだなあ』という意味だな」
「ちなみに地上説っていうのは、どういうものなんですか?」
「宮中の階段におりた霜を天の川に見立てるんだよ。現代では否定されているらしいけどな」
「なるほど~。本の解説では難しく感じましたが、先生の説明はすんなり頭に入ってきました」
「解釈が分かれる歌は、共通で認めているのはどこまでで、争いがあるのはどの部分かに注目したらいいぞ」
「わかりました。教えてくれてありがとうございます」
夏休みに柿本人麻呂の『あしびきの山鳥の尾のしだり尾の』を学んだときには、和歌からヤマドリへと直線的な理解があるだけだった。今回の大伴家持の歌から感じ取ったのはそれとは異なっていた。慣れ親しんだ七夕に関するものだからか、それともカササギの知識があってそのフィルターで百人一首をのぞいたからかはわからない。雪菜は自分の内に眠っていた遠い記憶が突然呼び起されたかのような、強い親しみを覚えたのだ。




