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遅刻魔と百人一首  作者: 夢見るカルガモさん
出会いはある日突然に
13/32

5

 引き返すのがうんざりするほど遠くに来てしまった。帰りの体力も残しておくべきだったと嘆いたが後の祭り。雪菜は深くため息をついて踵を返した。来た道をそのまま引き返したはずなのに、雑木林の先に現れたのは見覚えのない小径だった。

「あれっ!」とすっとんきょうな声を上げた。園内マップを思い返しても、野鳥の森の先には何もなかった気がする。こんなときすぐに引き返せばいいのだろう。しかし、目の前の道がどこにつながっているかが気になった。スマホを見ると、なんと十一時十一分。彼女は偶然にかこつけて少しだけ探検しようと思った。

 葉むらにはさまれた土道はでこぼこで、行く道をふさぐかのように大きな石が転がっていた。それが雪菜の冒険心を駆り立てた。じょじょに道が細くなり行き止まりかと思ったら、ぱっと道が開けた。

 雪菜の目に飛び込んできたのは、精霊が水遊びをしているような瑠璃色の池だった。池の左右には雑木林が広がり、向こう岸にはヨシ原があった。人々の記憶から忘れ去られ、ふらっと迷い込む者を静かに待ちつづけているかのようだ。雪菜は池の縁にしゃがんで表面をなでた。真夏なのにひんやりしていた。

 彼女は立ち上がってあたりを見渡した。二、三十メートル離れた場所に人がいた。車いすに乗った女性とその後ろにしゃがんでいる男性である。

 まったく気づかなかったけれどいつ来たのだろうと、雪菜は彼らをぼんやり眺めた。視線が男性にしぼられると、真夏の夜空にオリオン座を見つけたようなそぐわなさを感じた。人に向けるのは失礼とわかりながらも、雪菜は双眼鏡をのぞいた。

 男性は頭を垂れ、手をだらんと下げ、両膝をついている。女性は車いすの背に体を預けているせいか、男性の異変には気づいていなさそうだ。

 雪菜は考えるより先に駆け出した。

 全力で走ったせいで、彼らのもとについたころにはすっかり息が上がっていた。雪菜は肩を弾ませたままきいた。

「だ、大丈夫ですか?」

 男性はぽかんと口をあけて雪菜を見上げたが、すぐに表情がゆるんだ。

「ああ。心配してくれたんだね」

「あ、もしかして、勘違いでしたか? すみません。しゃがんでいらっしゃったので、つい……」

 男性は立ち上がり、

「ありがとうね」と頭を下げた。

 ほっとため息をついて彼から視線を外すと、水草の間に浮いている花が目にとまった。花びらは薄紅色と白百合色の二種類ある。どちらも雄しべは柚子色だった。

「きれいですね」と雪菜がつぶやくように言うと、

「そうだねえ」

「ハスですかね」

「これはスイレンだよ」

「よくわかりますね」

「ええとね、ハスは水面から一メートルほど高い場所で開花するんだけど、スイレンは水面かその近くで開花するんだよ。スイレンの葉は切れ込みがあるからすぐにわかるよ」

「へえ。お詳しいんですね。私、ごっちゃになっていました。教えてくれてありがとうございます」

 男性はにこりと笑った。初対面にもかかわらず気を許してしまいそうな甘い笑顔だ。

 女性が口をはさんだ。

「お名前きいてもいい?」

「あっ、申し遅れました。丹場雪菜と申します。牡丹の『丹』に、広場の『場』に、天気の『雪』に、菜の花の『菜』です。あっ……漢字の説明はいらなかったですよね」

「ううん。教えてくれてありがとう。きれいな名前ね」

 女性は眼鏡越しにもわかるほど優しい目をしていた。

「そうですか? 私、自分の名前って好きじゃないんですよね。『菜』という漢字から思い浮かべるのって、やっぱり野菜じゃないですか。雪と野菜って合わないし、もし野菜が大根だったら雪と区別がつかなさそうですよ。それに私、六月生まれですし」

「そうなの? 私は、強さと美しさを兼ね備えている、素敵な名前だと思うよ」

 雪菜はぴんと来なかったが、

「はい。そう考えるようにします。ありがとうございます」と前向きに答えた。

 雪菜に続き、二人も自己紹介をした。

 女性は七條和子しちじょうかずこと名乗った。麦わら帽子をかぶり、アンダーリムの眼鏡をかけ、胡蝶蘭のワンピースを着ていた。胸元のブローチは銀の小鳥が南天をついばむもので、その一点が輝いていた。雪菜は彼女の微笑に気品を感じたけれど、不自然なほど浮き上がった鎖骨と、手首の出っ張りが目についた。

 男性は七條勝利(しょうり)と名乗った。背の高さは美月より少し低いくらいだろうかと雪菜は思った。プラチナフレームの眼鏡に、半袖のポロシャツに薄いスラックスを着ている。白髪や服のしわにも清潔感があった。この春、傘寿を迎えたそうだ。

 和子が見上げているのに気づき雪菜は

「あ、すみません」としゃがんだ。

「ありがとうね。おいくつなの?」

「おかげさまで十七になりました」

「おかげさまって」と和子は口を押さえながら笑って、

「青春真っ盛りなのね。一人で遊びに来たの?」

「はい。最近の高校生はソロ活動が流行っているんですよ」

「ん? バンドか何かしてるの?」

「あ、すみません。そういうわけではなくて……。一人をソロって言うじゃないですか。だから一人で活動するのを言ったんですけど、わかりにくかったですね」

「なるほどね。最近の言葉は難しいから。夏休み、部活動はないの?」

「はい。私、中学では美術部でしたが、高校では帰宅部なんですよ。ぱっと見で、私、何部に見えますか?」

「もうそのとおりにしか見えないかなあ」と勝利が軽く言った。

「あ、そうですよね」

 雪菜が頭をかくと、勝利も和子も笑った。場が明るくなった。

 和子の年齢は不明だが、勝利と同じくらいと考えると、雪菜の五倍近く長く生きている。雪菜は最初こそ気を遣ったが、彼らはとても話しやすく、いつのまにか初対面のぎこちなさは消えていた。

 和子がきいた。

「今日は何かを見に来たの?」

「ちょっと長くなりますがいいですか?」

「うんうん」

「うちの高校に山本先生という悪い人がいるんですよ。何回も遅刻する私も悪いんですけど、遅刻した分だけ生徒指導室の掃除しろ、なんて言うんですよ」

「あとどれくらい残ってるの?」

「四十回……くらいです」

 雪菜が言うと、勝利が軽く笑って、

「それはちょっと多いかなあ」

「やっぱり……。でも山本先生は掃除のあと、いろいろ話してくれて、あっ、山本先生は古典の先生なんですけど、教えるのがめちゃくちゃ上手なんですよ。おかげで私、百人一首に興味が出てきまして。勉強を進めていくうちに、和歌に描かれているのは人間と自然だとわかりまして。それで今日ここに観察に来たというわけなんです」

「雪菜ちゃん。それ、すごい発見よ」

 和子が孫をあやすみたいにほめた。雪菜は面映ゆくなった。

「そうですかね」

「うんうん。百人一首ではどんな歌が好きなの?」

 雪菜はお気に入りの和歌を暗唱した。

 ──村雨の露もまだ干ぬ真木の葉に霧立ちのぼる秋の夕暮れ

「どんな意味なの?」と勝利が口をはさんだ。

「『にわか雨が過ぎ、その露がまだ乾ききっていないうちに、杉や檜などの葉にゆっくりと霧が立ち上ってゆく。そんな秋の夕暮れであるよ』という意味なんです。この歌、すごいんですよ。上の句は葉っぱにズームして見ている感じじゃないですか。でも下の句ではだんだんとカメラが引いてパノラマみたいに見えてくるんです。この歌を読んでいると、にわか雨が通ったあとの夕晴れをぼんやりと眺めているような、寂しいけれどどこか懐かしい気持ちになったんですよ。入り日を愛でる心はきっと、武士にも、商人にも、農民にも、日本人みんなに備わっていたんじゃないんですかね」

 雪菜が自信満々に言うと、

「雪菜ちゃん」と和子が呼んだ。

「実りの秋という言葉もあるけど、たとえば米農家は収穫で忙しい時期でしょ? 秋の夕暮れを楽しめたのは、僧侶や貴族など時間を持て余していた人だけじゃないのかな?」

 雪菜はボーッと入り日を眺めるのが好きだ。日本人の遺伝子に組み込まれているに違いないと信仰さえしていた。和子の指摘は思いがけなかった。突然カメラのフラッシュが焚かれたように、雪菜の脳裏に強く焼きついたのだ。

「そう言われてみれば、そうですよね! 和子さん、どうして詳しいんですか?」

 雪菜のうわずった声に、和子はおかしそうに笑った。

「実は私ね、二十年以上前の話だけど、高校で古典を教えていたのよ」

「そうなんですか?」

「うん。雪菜ちゃんはどちらの高校?」

「磯鴫です」

「ああ。隣の駅よね。さっき雪菜ちゃんの口から百人一首って聞いて、昔を思い出してね。これも何かのご縁なのかな」

「もしかして、和子さんも百人一首が好きなんですか?」

「もちろん。私も高校生のころ、はじめて和歌に興味をもったの。一番身近にある和歌と言ったら、やっぱり百人一首でしょ?」

「私、今まで古典の勉強をおろそかにしていたので、文法がわからなかったり、知らない単語も多いんですよ。その都度調べているんですが、思うように進まなくて……。何かいい方法ありませんかね?」

「どんなところに時間がかかっちゃうの?」

「一番時間かかるのは掛詞のところですかね」

「ああ。難しいよね」と和子は腑に落ちたかのように言った。雪菜は続けて、

「人間と自然の、二重の文脈がからまりながら流れていくじゃないですか。入り組んだものになると、和歌と現代語訳の──対応関係とでも言うんでしょうかね、それがうまくつかめず頭がこんがらがってしまうんです。次の歌に行けばいいんでしょうけど、つい意地になってしまいまして……。結局時間だけが経って、私、古典に向いていないのかなと思ってしまいます」

「掛詞に慣れていないのに、自然と人間に掛かっているのにはもう気づいているの? 雪菜ちゃん、やっぱりセンスがあるのね」

「ええ~。ほんとですか?」

「うんうん。掛詞はパターンなのよ。一つ一つ押さえていくうちに知識がつながるものだから、そこまで気張らないでいいと思う。せっかく百人一首に興味を持ったんだから、楽しんでほしいなあ。おすすめは音読すること。言葉は生きているから音から見えてくる世界もあるのよ」

「音読ですか?」

「そう。これは教師やっているころには口が裂けても言えなかったけれど、」と和子は前置きして、

「古典の勉強となると、急にみんなまじめになって、現代語訳を覚えようとするの。でも訳自体はそこまで重要ではないのよ」

「ええっ、そうなんですか? 意味がわからないと頭に入らない気がします」

「たしかにね。もちろん現代語訳が必要ないとは言わない。でもね、やっぱり和歌の方が大事なの。和歌と現代語訳の関係ってね、昔の言葉を今の言葉で表したものだから、たとえば、そうねえ……、本体と陰みたいな関係なのよ。ボールに太陽が当たると地面には陰ができるでしょ。その陰は、模様のない真っ黒な楕円よね。でも陰から何のボールかわかるかしら? サッカーボールかもしれないし、バスケットボールかもしれない。ラグビーボールの可能性だってあるわね。つまり何が言いたいのかというとね、陰から何のボールか分析するよりも、本体そのものに目を向けてごらんという話。音読は和歌そのものに意識を向けるのにとても効果があるのよ」

「そうなんですね。でも詩吟のように読むのは恥ずかしいです」

「そんな本格的に読まなくていいのよ。恥ずかしくない読み方で大丈夫」

「はい、わかりました。それにしても、先生をやっていらしたとは意外でした。これは素朴な疑問なんですが、問題児のほうが記憶に残るって本当ですか?」

「うーん。そういうわけでもないかなあ。教師と言っても人間だからね、どうしても好き嫌いってできちゃうのよ。もちろんお仕事だから、私情をはさまず平等に接してきたつもりよ。でもこの年になって振り返ると、記憶に残したい人が残っている気がするかなあ」

「なるほど~。一番記憶に残っているのはどんな生徒ですか?」

「リーゼントの男の子よ。言葉足らずの子でね、授業中に机を蹴っ飛ばして出て行っちゃったり、おとなしく授業受けているかと思えば、『また推量の助動詞かよ。一つにまとめろよ!』と悪態をついたりで大変だったの」

「そんな天然記念物みたいな人いたんですか?」

 二人の話にうなずいていた勝利が急に噴き出した。

「雪菜ちゃん、おもしろい人だねえ」

「あっ、そうだ! さっきリーゼントみたいな鳥がいたんですよ」

 気をよくした雪菜は野鳥図鑑を取り出して、

「えっとたしかこのへんに……。あ、この鳥です!」

 二人はのぞきこむように図鑑を見ていたが、

「もしかして雪菜ちゃんの言いたいのはモヒカンかな?」と勝利がたずねた。

「あっ、そうですね、うっかりしていました」

 雪菜の勘違いに、和子はくすくす笑って、

「こんなかわいい鳥がいるのね」

「はい。キクイタダキという鳥で、日本で一番小さいみたいです。……あっ、すみません。今はじめて知ったんですけど、この鳥はモヒカンというわけでなく、頭の上に菊の花をのせているみたいなので、キクイタダキというようです」

 それからも雪菜は図鑑を見せながら、

「こんな変な鳥もいるんですよ」と言ったり、

「びっくりすること言っていいですか? 私もさっき知ったんですけど、実はカラスって二種類いるんですよ」と鳥の話をした。

 一時間ほど話しているとスマホが鳴った。母からだった。

「あんた、まだ公園にいるの? 昼はラーメン作るって言ったよね」

「ラーメンって今はじめて聞いたんですけど」

「待ってるから早く帰ってきなさい」

「はーい」

 帰る準備をしてから、

「そろそろ帰りますね。ありがとうございました」と敬礼すると、勝利と和子がそれぞれ、

「こちらこそありがとうね。楽しかったよ」

「私たち、よくここに来るの。またお話ししましょうね」と言った。

 雪菜はもう一度頭を下げてその場を後にした。

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