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遅刻魔と百人一首  作者: 夢見るカルガモさん
出会いはある日突然に
11/32

3

 のちに雪菜と美月の間で語られる、「神岡美月の事件簿」が生まれたのもこの夏だった。

 八月に入ってまもなく雪菜は美月からこんな話を聴いた。

 美月は夏休みに入ってすぐ「哲学カフェ」に参加したらしい。姫鵜駅から五つ離れた阿比あび駅にある喫茶店で行われ、「死とは何か?」をテーマに十五、六人ほどで議論したのだという。参加する前は年配の人や気難しい人が来るのだろうと予想していたみたいだ。ところが、実際は大学生をはじめ二、三十代と年の近い人のほうが多く、胸元につける名札もニックネーム可という打ち解けた雰囲気で行われたそうだ。

「実はね、そこで知り合った一人と、毎日連絡を取ってるんだ~」

 知らないところで美月が親しい人を作っていたのは寝耳に水だったが、雪菜にとっては、人見知りのはずの美月が一人で参加したことのほうがおどろきだった。恥ずかしさよりも共通の趣味の人と話したいという気持ちのほうが勝ったのだろうか。雪菜は不思議で仕方なかった。

 美月の意中の人を、二人は「ときめく」という言葉から「時の君」と名づけた。

 昼下がり、美月から「重大発表がある」と電話があった。

 二人は公園に行くわけでもなく住宅街をぶらぶら歩きながら話をした。

「哲学カフェの日から、毎日ビデオ通話してるんだっけ?」

「そうそう」

「時の君に誘われたの?」

「ううん。私からだよ」

「すごい! 勇気あるね。かっこよかった?」

「うーん。特別目を引くって感じではないんだけどね」

 美月は指を折りながら、

「笑顔がいいでしょ~。哲学に詳しいでしょ~。優しいでしょ~。話もうまいでしょ~。そしてね、将来性もあるんだよ」

 雪菜の耳慣れない言葉に、

「将来性?」とたずねると、

「うん。慶応の文学部で自分でも小説を書いてるらしいの。ハイデッガーの理論を分解して現代で再構築したらどうか、っていうのがテーマみたいなんだよ」

 雪菜がハイデッカーの名前を聞くのははじめてだ。おそらく哲学者の名前なのだろう。皆さんご存じのという風に美月が言ったのは気になったが、

「難しそうな小説書いているんだね。頭いたくなりそう」

「でね、でね、新人賞は逃しちゃったらしいんだけど、編集者から電話かかってきて、今まで書いた作品を全部見せてください、って言われたんだって」

「すごいじゃん! デビュー間近なのかな」

「たぶん。あっ、あとねえ、プログラミングにも詳しいんだよ。私はよくわからないけど、パイソンとか、ルビーとか、ジャバなんとかも全部できるって言ってたし」

 雪菜の知る限り、美月は中学のとき好きな人がいた。隣のクラスの男子だった。しかし、声をかける勇気がなくおろおろしているうちに、別の子に捕られたという悲しい過去があった。

 ほぼ一方通行の会話やその移り変わりやすさから、美月が浮かれているのは雪菜の目にも明らかだった。

「何でもできる人なんだねえ。そういう人の頭の中ってどうなってるんだろうね」と雪菜が言うと、

「だよねえ。脳が普通の人の三倍くらいあるんじゃない?」

「いやいや、脳は普通に一個でしょ」

「脳って一個、二個って数えるものなの?」

 美月がきょとんときいたのが、雪菜にはおかしく思えた。

「どうだろう。数えたのはじめてだからよくわからないけど」

 二人でひとしきり笑ってから美月が言った。

「それでね、プログラミングって外国語みたいなものなんだって。だから何個も習得するにはセンスが必要らしいのよ」

「あ、そうだよね。プログラミング言語、っていうくらいだもんね」

 それからも美月は、彼は夏目漱石全集を持っているらしいとか、彼の優しさは女子にしかわからなさそうだとか、思いつくまま話しているようだった。しかし、彼女はなかなか本題に入らない。ふむふむと聞いていた雪菜もとうとうしびれを切らせて、

「ところで、さっき言ってた重大発表って何?」

「雪菜さん! よくぞきいてくれました」と美月は子犬がしっぽを振るかのように目を輝かせて、

「それでは発表します。なんと……」

 彼女はぴょんぴょん跳ねながら、

「明日の花火大会、誘われちゃいました!」

「おおっ。すごいじゃん」

「ねえねえ、手つながれたらさ、そのまま握り返せばいいの?」

「だと思うけど。握り返すか、振り払うかのどちらかじゃない?」

「ああ、そうだよね。もしだよ? もしキスされたらどうするのよ~」

 美月は満面の笑みで雪菜の肩を叩いた。

「痛いよ。それも受け入れるか、拒むか、どちらかしかないんじゃないの? それ以外の方法知らないよ」

「使えないやつ」

「なんだと~」と雪菜が美月の鼻に手を伸ばしたら、彼女はのけぞって、

「鼻フックはやめて」と逃げて行った。

 こちらに戻ってくる気配はなさそうだ。

 雪菜はメガホンみたいに手を添えて

「うまく行くといいね~」と叫ぶと、美月の明るい声だけが返ってきた。

「ありがとう。また連絡する。じゃあねえ」


 花火大会の土曜日になった。夜、また美月から電話があった。彼女はタコ公園に来てほしいとだけ言って切った。雪菜にとっては、一刻も早く自慢したいけれどぎりぎり理性を保っているようにも、逆に何かいやな思いをして拗ねているようにも聞こえた。雪菜は結果によらず呼び出しがあるだろうと読んでいた。しかし、まだ八時前。予想以上に早い時間だ。

 タコ公園は正式名称ではない。砂場近くに、はげてすっかり緑青色になったタコの銅像があるから、どちらともなくそう呼びはじめただけだ。タコ公園は雪菜の家から自転車で五分くらいの場所にある。LED街灯が立ち並ぶ大通りに面し、向かいにはコンビニがある。街路の灌木や公園の喬木が車の音をさえぎるためか、明るさのわりに静かな場所だ。緊急の話がある場合にはこうして集まり、ひそひそ語り合うのだ。

 雪菜は公園に着いてすぐ、ブランコに乗っている美月を見つけた。視線を落としながら地面を蹴っている。デートの様子をほのめかすかのように、ブランコの軋む音が公園の隅まで渡っていた。

「お待たせ~」と雪菜は明るい調子で駆け寄ったが、美月は一瞥しただけだった。キキョウの浴衣を着て頬に明るい艶まで浮かんでいるのに、何やら複雑そうな顔をしている。

 こんなとき、もし雪菜が不用意な発言をしようものなら、美月はなおさら興奮し、話す暇を与えないくらいまくし立てる。今日は刺激せず聞き役に徹したほうがよさそうだ。雪菜は心に決めて声をかけた。

「どうしたの?」

「話がある」

「うん。だから来たんだよ。人生初の彼氏できた?」

 美月はつっけんどんに言った。

「まさか! あんなやつ、好きになるわけないじゃん」

「昨日までとはテンションが違うね。何があったの?」

「聞いてくれる?」

「うんうん」

「告白されたんだけどね、その告白が最低だった」

「なんて言われたの?」

 おそらく時の君のものまねなのだろう。美月はひょっとこみたいに口を突き出して、

「『月が、キュッ、きれいですね』だって」

 時の君がそんな短文で言い淀んだのがおかしく、雪菜はぷるぷる肩を震わせて耐えていたら、

「しかもさ、花火もクライマックスで、まわりにもたくさん人がいたんだよ。思わず見ちゃったけど、月なかったしさあ、ってか、ちゃんと花火見ろよ!」

 雪菜はたまらず噴き出して、

「月がなかったのもおもしろいけどさ……。時の君らしく最高のタイミングってのがやばいね……」

「雪菜。怒るよ?」

 美月はキッと雪菜を睨んだ。歯で下唇を噛んだままこちらを見ている。今にも飛びかかってきそうだ。

「……ごめんなさい。でもさ、詰まったからアウトというのはさすがに厳しすぎない?」

「違うじゃん!」と美月は声を荒げて、

「名前に月がつく子とデートして、月ないのに『月がきれいですね』とか、もうぐちゃぐちゃでわけわからないじゃん! そもそも月って何なのよ。何かの比喩? あいつには私に見えてない物が見えてるの?」

 暴れ狂うスプリンクラーのように飛び出す言葉に、雪菜が忍び笑いをしていると、

「それにね、これにはまだ続きがあって、あいつたぶん慶応じゃないし、新人賞の話も嘘だったんだよ」

「え、嘘?」

「うん」

「なんで嘘ってわかったの?」

「私、時の君の小説に興味あったから、読ませてってお願いしたんだよ。私、ハイデッガー好きじゃん?」

「いや、はじめて聞いたし、そのハイデッガーがわからないんだけど……」

 しかし美月は雪菜の言葉には反応せずに、

「そしたらあいつ、身ばれするのが怖いって言ったの」

「あ、そっか。哲学カフェだと偽名でも良かったんだっけ?」

「そうそう」

「まだ美月を信用してなかったのかな?」

「違うって! 最後まで聞いてよ」

「あ、ごめんごめん」

「新人賞もペンネームでいいみたいなんだけど、あいつは本名で出してたみたいなの。私はよくわからないけど、あいつ、ペンネームを使う作家は説得力ない、って言ってたし」

 雪菜も本が好きだ。『モモ』ではまるで一緒に冒険しているかのように胸を高鳴らせ、『思い出のマーニー』では深い余韻のあまり本を閉じた後しばらくぼんやりしていた。それほど物語に入り込んでしまうせいか、作家の説得力がどうとか気にした記憶はない。美月は話を続けた。

「でさあ、どの賞に応募したのかまでは教えてくれなかったんだけど、その賞の選評はネットにも公開されてるらしいんだよ。本名で出してるのに身ばれがどうとかっておかしいじゃん」

「そう言われてみれば、たしかに変だね」

「そもそもの話よ、今まで書いた作品を見せてくれ、って言われた人がなんで新人賞に落ちてるのよ。それもおかしいじゃん。あっ、聞いて聞いて! 雪菜待ってるあいだに、なんかおかしいぞって思って、プログラマーについて調べてみたんだよ。そしたらね、プログラムって言語が違っても文法が同じだから、一個極めれば他のやつもすぐ習得できるらしいの! だから何個もできても不思議じゃないって書いてあったの!」

「あれ? 時の君はさ、センスがどうとか言ってたんじゃなかったっけ?」

「そうそう。だからそれも嘘なんだよ。もう嘘まみれだよ!」

「そうかあ。残念だったね」

「もう恋はいいや」

「詐欺にあったみたいだね」

「そうなんですよ、雪菜さん! これは詐欺なんです! 私、決めた。将来政治家になって『みえっぱり禁止法』作る!」

 美月はそのあとも、あの発言もあやしいと騒いでいた。彼女とは性格は違うけれども気持ちの切り替えの早いところは似ていると雪菜は感じる。だからなんとなくわかる。もう溜飲が下がったんだなとか、もうちょっと話したいのかなとか。

 美月は愚痴を吐いているうちにすっきりしたのだろう。

「まあいいや。うじうじタイム終わり。せっかくの夏だもんね」と彼女の声はやわらかくなっていた。


 帰宅したのは九時前だった。玄関に入るなりリビングのドアがあいて伊澄が出てきた。母は雪菜の一メートルほどまで来た。

「どこ行ってたの?」

 伊澄は上がり框から見下ろしている。その厳めしい顔は閻魔様よろしく、雪菜はたまらず後ずさりした。

「美月と会ってたんだけど」

「こんな夜中に?」

「まだ夜中じゃないじゃん」

「夜中でしょ!」

「ねえ聞いてよ。美月に事件が起こったの。だから話聞いてあげなきゃじゃん。ほんと大変だったんだから」

「仮によ。美月ちゃんと会ってたとしてもよ。あんた何も言わずに出ていったでしょ。なんでそんなずるいことするの?」

「だって、これから出かけるって言ったら、絶対にだめって言うじゃん」

「ん? だめって言われるから、隠れるように行動したの?」

 冷静なときなら失言を誘う質問だと警戒できたはずだ。しかし、雪菜は勝手に外出した負い目もあり、つい売り言葉に買い言葉で、

「今そう言ったじゃん」

「ふーん。雪菜がそんな言い方するなんて思いもしなかったよ。なるほどね。自分が悪いってわかってるのに、開き直ってるんだねえ。へえ、なめられたもんだ」

 雪菜はただでさえ近いと感じていたのに、伊澄は上がり框を下りて詰め寄った。

「あんた、いつからそんな人間になったの?」

「いや……そんな大げさな話じゃなくてさ、電話かかってきて深刻そうだったから、話聞いてあげたかったんだもん」

「えっ?」と母は玄関に響く声できいた。

「こんなわかりやすく言ったのに何で聞こえないの?」

 雪菜は自分の声の大きさに我に返った。もちろん本心からではない。うっかり口から出てしまっただけだった。

「あっ……ごめんなさい」

 雪菜は言葉を取り消すように、もう一度家を出て行った理由を説明した。

 伊澄は責めるわけでもなく、悔しそうな目で雪菜を見ていた。

 部屋に戻り、雪菜がボーッと椅子に座っていると、一階からバタン、バタンと扉を強く閉める音が聞こえた。一人になって落ち着くと、母の顔が強く思い起こされた。雪菜は頭を深く抱えた。なんであんな言い方してしまったのだろう。

 伊澄の耳が悪くなったのは母一人だけの責任ではないと雪菜は思っている。本来なら両親の二人で守る家を、母は一人でやっているのだ。イヤフォン難聴を知らなかったのは不運だった。もう治療をしても治らないかもしれない。しかしそれはミスに近いもので、自分だけは母を支えようと決めていたはずだ。

 母はまくし立てるように怒っていたのに、急に黙ったのはあの心ない言葉のせいに違いない。こちらがうまく伝えられなかっただけなのに、母は歯を食いしばって耐えるしかなかった。今ごろひどくみじめな思いをしているかもしれない。

 いても立ってもいられなくなり、雪菜は急いで謝りに行った。しかし伊澄は目も合わせず、「全然気にしてないから」としか言わなかった。

 この日、雪菜は自己嫌悪のまま過ごした。体の傷は時間が経てばきれいになるが、言葉の傷は時間が経っても癒えない。自分はそれがわかっている人間だと思っていた。しかし、この世に一人しかいない家族の、一番触れてほしくないところを攻撃できる人間だったなんて……。あの一言が悔やまれてならなかった。

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