1番こわいもの
金曜の夜、ビルのエレベーターが突然ガタンと揺れ、停止した。
狭い箱の中は薄暗く、非常灯だけがぼんやりと光っている。
ユウマは思わず舌打ちした。
「……最悪」
残業帰りで、心も体も擦り切れている。
しかも隣にいるのは、見知らぬ中年の男。
こういう状況、昔から苦手だった。誰かと閉じ込められるのが、とにかく怖い。
男は、静かに深呼吸していた。
焦っているようには見えない。
「大丈夫ですよ」
落ち着いた声だった。
「エレベーターの閉じ込めって、意外とよくあることらしいですから」
「……あんた、よくこんな状況で落ち着いていられるな」
「まあ、怖いですよ。でも、ふたりなら少しはマシでしょう?」
ユウマはむっとした。
「他人なんて、あんまり信用できないんでね」
「そうなんですか?」
「裏切られたことが多すぎて。だから他人と狭いとこは……最悪なんだよ」
男は、少し黙ったあと、ゆっくり言った。
「じゃあ今だけは、“裏切らない他人” だと思ってください」
「そんな簡単にいくかよ」
「簡単じゃなくていいですよ。
“騙されたと思って信じてみる”っていう程度で」
ユウマは苦笑した。
なんだその妙に柔らかい言い方は。
エレベーターは静かだ。
外の気配もない。
閉じ込められたと自覚した瞬間、喉の奥がきゅっと締まった。
やばい。呼吸が苦しい。
そんな時、男が声をかけた。
「息、浅くなってます。ゆっくり吸って、ゆっくり吐きましょう」
「……見りゃわかる?」
「ええ。怖い時って、皆そうなります」
男の声は、不思議と落ち着いていて、暗闇でも安心感があった。
ユウマは深呼吸を試してみる。
数秒後、少しだけ胸の痛みが和らいだ。
「ほら、大丈夫でしょう」
「……ありがと」
男が微笑んでいるのが、薄い光の中でもわかった。
「人ってね、こういう時こそ助け合うんですよ。知らない同士でも。
むしろ“知らないからこそ”優しくできる時もある」
ユウマは、その言葉を静かに飲み込んだ。
本当はずっと怖かったのだ。
裏切られた日々も、信じて傷ついた自分も。
他人と距離を置けば楽だと思って生きてきた。
でも今、この狭い箱で優しく声をかけてくれる人がいる。
閉じ込められて十五分。
その沈黙の中で、胸の奥の固いものが少し溶けた。
「……なあ」
「はい?」
「もし俺がまた息苦しくなったらさ。声、かけてくれる?」
「もちろんです」
迷いのない答えに、ユウマは思わず笑った。
その瞬間、エレベーターが唸りをあげて動き出した。
床が震え、ゆっくり下降し、やがて扉が開く。
まるで外の空気が祝福しているみたいだった。
ユウマは振り返って言った。
「……ありがとう。本気で、助けられた」
「いえいえ。あなたのおかげで私も落ち着いていられましたから」
男はきちんと頭を下げ、廊下へ歩き出した。
去っていく背中を見ながら、ユウマは思った。
――案外、人間って悪くない。
そんな単純な一言が、今日だけは胸に素直に落ちたのだ。




