蛍火はその根雪を融かせるか
友情というものは、蛍火に似ていると思う。
容易くなかったことになるそれは、あっさりと死んでしまう虫のようだ。
私は、虫が嫌いだ。
もちろん一番嫌なのは見た目だけど、それよりも。
あれほどしつこく暑苦しく鳴いていた蝉も、儚くも美しく地上の星のごとく煌めいていた蛍も、ほんの瞬きのうちに死んでしまう。
その儚さが、一番、嫌いなんだ。
「ひっさしぶりー!」
「ひゃっほー!」
「いつ来たのー?」
「えっと、あの、※〇▽☆×さん?」
「えっ、ウッソーマジ嬉しいんだけどーてかカワイイんだけどー」
うっかり突っ込んでしまった待ち合わせスポットで、あっちもこっちも再会を、あるいは出会いを喜び合う声にもみくちゃにされる。
どの声も、喜びに弾んでいるかのようだけれど。
注意深く観察していると、ほとんどの人たちが何某かの噓をついている。
あっちは再会を喜び合うふりをしながら互いにマウントを取ろうと必死だし、あの人は最高に白々しくほめながら相手をあからさまに見下してるし、あっちは無理矢理呼び出されたのか最高に迷惑そうだし、誰も彼もちっとも幸せそうじゃない。
それはお前の願望ではないのか、そう自問自答する。
多分、それだけじゃない。
ささくれ立って過敏になってしまった感覚が拾い集める負の感情に、気分が悪くなる。
込み上げてくる吐き気を飲み下して、慌ててその場を離れる。
友情なんて所詮はごっこ遊びの延長なのだ。
私の中で、傷ついてねじくれてしまった感情がそうささやく。
皆自分自身の役割を演じていて、そこには損得勘定で動く空虚な関係しか存在しない。
優し気な言葉も、差し伸べられた手も、暖かな雰囲気も全ては虚構の産物だ。
求められた価値を返せなくなれば、そこにはいっそ清々しいほどに何も残らない。
いや、自然消滅ならまだ良いのだ。
一番恐ろしいのは、争い合った末の決裂。
隠し持っていた本音を、振り回して、振り回されて、その鋭い刃で滅茶苦茶になるまで傷つけあうのを喧嘩または決裂した状態とくくるなら、あれはもうほぼ修復不能な精神面での殺し合いだと思う。
より面の皮が厚い人間が生き残るパターンのヤツで、先に泣き出し、相手の不当を訴えられる狡猾さがある方が勝つたぐいの話だ。
他人は、経緯など重視してくれない。
いつだって、どちらがより哀れっぽいかで悪役を決める。
友情?何それ美味しいの?
感情に振り回されて、相手に利用され陥れられる方が悪いのだと、繰り返し思い知らされた。
平等、公平、仁愛、そこにそういう崇高さなど存在しない。
人間なんて、印象が全てみたいな生き物で、そこに搭載されている脳みそは割とポンコツで、ありとあらゆるものを捏造し、錯覚し、錯誤する。
恋愛感情も、友情も、相手に対する思い込みと印象で脳みそが暴走した結果でしかない。
端的に言えば。
自分にも他者にも、私は等しく嫌気がさしてしまった。
人間なんて、嫌いだ。
トイレの個室に逃げ込んで、鍵をかける。
顔を覆い、深々とため息をついて自分の感情に慎重にふたをかぶせる。
深呼吸を繰り返して、体の震えが収まるのを待つ。
「全然進歩しないな」
自分の人生の先が見えてしまったあの時に。
自分で描いた未来予想図に打ちのめされて、立ち上がれなくなった時に。
誰に助けを求めればいいのか、どれほどアドレス帳をめくっても誰もいなかった時に。
もう、いいやと。
そう思ったところから何も変わらない。
それまでどうやって生きて来たのか、そこからどうやって生きた来たのか、時々自分自身が分からくなって足が前に出なくなる。
心がバラバラになりかけると、体の感覚にまで影響する。
こういうのを、一般的には心身症とかいうのだろう。
風邪の初期症状みたいなやつだ。
そうやって気力を消耗しきって疲れたら、何も考えずに寝てしまうのが一番健全で健康的な対処法だ。
ちゃんとぐっすり眠れば、起きる頃には空腹も、手足の感覚も、平衡感覚も大体戻っている。
気の合わない相手に愚痴をこぼすよりも、弱みをさらすことができない相手に問題ないふりをし続けるよりも、よっぽど効果的な対処だと思う。
つらつら考えていると、鞄の中でスマホが鳴り始めて思わずビクッとする。
慌ててトイレから走り出て、スマホを取る。
「申し訳ありません、今出先でして」
何事もなかったかのように笑顔で電話を取り、事務的に会話を進める。
今も昔も、何も変わらない。
私は今までも、これからも、誰かに望まれる私を演じて生きていくだけだ。
「はい、はい、承知いたしました。明後日の15時までですね。間に合わせます!…はい、ありがとうございます。失礼いたします」
皆、自分自身の役割を演じて生きている。
助けを求める誰かがいたら、これからだって私はきっと何の見返りも求めずにその人を助けるのだろう。
持てる力の全てを注いで、誰かのために尽くすだろう。
だけど、必要がなくなった私を、きっと誰も顧みたりしない。
どんな思いで私が去っていったのか、それを尋ねる人など、どこにもいない。
あえてそう生きてきたし、これからもそれは変わらない。
「大丈夫、勘違いしたりしない」
必要な時に頼れる仲間であっても、そこに友情なんて存在しない。
困っている時に助けを求められる相手など存在しないし、それを嘆くことも、辛いと思うこともやめた。
見返りなんて求めたら、生きていけない。
報われることを求めたら、生きていけない。
何かを求めたら、私は生きていけない。
何も欠けたものなどないかのように、何も失ったことなどないかのように、私は背筋を伸ばして揺らがない存在であるかのようにふるまう。
それが私に求められる役割で、私が演じ続けなければならない役目だから。
「あ、久しぶりー!」
誰かの弾んだ声に、思わず振り返りそうになった自分を制して何もなかったかのように歩き出す。
「あ、久しぶりだね!元気だったー?」
私以外の誰かが、待ち合わせて、楽し気に再会を喜ぶ。
今度はちゃんと楽しそうで、心から嬉しそうな弾んだ声に思わずホッと息を吐く。
友情なんて言うものは、画面越しに眺めるぐらいがちょうどよい代物だ。
親友なんて私にとっては物語の中の住人でしかない。
それで、いい。
誰かが、私のことをこの上もなく冷たいと評したけれど。
この世界そのものが、私にはこの上もなく冷たい。
私を照らすことさえない蛍火は私の心を温めることすらないけれど。
それでもそれは儚くて、とても綺麗だと思う。
どれほどその儚さを嫌悪しても、存在さえ塗りつぶされた影のように失っていく私よりは明らかな光だから。
私はそれを、手に取ったりしない。
手に取れば、それはただの光る虫でしかなくて。
現実というのは、いつだっていびつで残酷で、醜い。
ただ眺めているだけが一番、美しいのだから。
「あ!」
視線の端で捉えたのは、どこか見覚えのある人で。
だからこそ、私は背を向ける。
私は、既に死んでしまった虫だ。
今更手に取っても、もう光ることはないだろう。
飛べなかった虫は、何の価値も与えられずに死んでいくだけだから。
だから感傷さえ抱くことなく、そんなものは土に還してしまうに限る。
朽ちていく様子を、あるいは残酷にも食い尽くされていくのを見守るのは悪趣味だ。
だから立ち止まらず、興味など持たず、気づいてもいないかのように歩み去る。
現実というのは、いつだって私を蝕む残酷な悪夢そのものだから。
その手を取ってしまったら、私はまた誰かに望まれるままの私になるだろう。
向けられる感情に切り刻まれて細切れになっていく私を誰も憐れむことがないこの世界で、私は最後のひとかけらまでこう思うだろう。
私がいない世界は、美しいか?―――と。
私は神も、友情も信じない。
この世は残酷で、無情だ。




