照らす者たち
あかりは、もう一度名乗ろうとして、唇を閉じた。
自分の名前を確かめるように、ノートを抱きしめていた。
「わたし……やっぱり、昨日のことは思い出せません」
声は震えていた。
燈はそっと視線を落とした。
「大丈夫だ」
「……どうして、そう言えるんですか?」
「君は忘れても、俺が覚えている」
あかりは目を伏せ、少しだけ安堵の色を浮かべた。
だがその奥に、何か言いかけて飲み込んだ気配があった。
(この村は……何をさせようとしている?)
周囲を見渡すと、霧が晴れかけ、久しぶりに集落全体が見えた。
家並みが幾つも、確かに存在していた。
昨日までのように消えてはいない。
けれど、奇妙なことに気づく。
すべての家の戸口に、同じ印が残されていた。
黒い煤のような印。
それは、ある形を象っていた。
「……灯の印……」
燈は、胸の奥から呼び覚まされる記憶を感じた。
幼いころ、この村で過ごした数日。
夜ごとに焚かれる火。
ひとつの火を絶やさぬため、交代で見張りをする習わしがあった。
“灯を絶やさぬ者”
そう呼ばれていた人々がいた。
(灯――あかり)
ふいに、あかりが顔を上げた。
「わたし、少しだけ……思い出しました」
「何を?」
「――この村は、忘れる場所じゃない。
……記憶を、移す場所」
風が一陣、吹き抜けた。
あかりは、瞳を閉じる。
「忘れたと思っていたことが、全部なくなるわけじゃないんです。
ここに、残るんです。
“灯”が、受け取るから」
「灯が……?」
あかりはノートを抱きしめた。
「わたしがずっと持っているのは、わたしだけの記憶じゃない。
……誰かが置いていったものを、何度も引き受けてきた」
声が微かに震えた。
「きっと、あなたも――わたしに何かを預けたことがある」
燈は胸が締めつけられた。
(そうだ。俺は……)
遠い声が脳裏に蘇る。
「いつか、思い出さなくていい。
でも、灯だけは残してほしい」
あかりが、小さく震えながら目を開ける。
「わたしの役目は……忘れられたものを、照らすこと」
「……照らす者」
頷く。
「だから……この村に来る人は、きっとみんな“欠けた何か”を取り戻しに来るんです」
燈は言葉を失った。
(この村は……記憶の墓標だ)
霧の向こうで、再び鐘が鳴った。
それは今度、はっきりとした合図に思えた。
呼ばれている。
“灯を託した者”として。
あかりは立ち上がる。
「行きましょう」
「どこへ?」
「……祠の奥。
わたしが最後に預かったものが、そこにある気がします」
霧が、ゆっくりと道を開いた。
二人は並んで歩き出す。
振り返ると、さっきまであった家々は、また白い影に溶けていた。
けれど、もう怖くはなかった。
そこに在るものは、決して失われるわけではない。
――灯が照らし続けるかぎり。