欠けるもの
翌朝、燈は違和感とともに目を覚ました。
――何かが、おかしい。
枕元には自分のノートが置かれている。
昨夜、祠で見つけて持ち帰ったものだ。
そのはずだった。
しかし、ページをめくると、中身が違っていた。
最初のページにあった自分の名前が消えている。
その代わりに、見覚えのない筆跡で、こう書かれていた。
《きみは、また忘れようとしている。
でも、この村は覚えている。
灯が、それを灯している。》
背筋がひやりと冷えた。
夢だろうか?
けれど、手の中のノートは確かに昨日のものだった。
起き上がり、縁側に出る。
霧は前日より薄い。
陽の光がかすかに射し込んでいる。
そのなかに、あかりの姿はなかった。
「……灯?」
返事はない。
裸足のまま、家を出て集落を歩く。
昨日まであったはずの家が、いくつか消えていた。
屋根ごと消え、土台だけが草に覆われている。
目を凝らしても、記憶と現実のズレが直らない。
(おかしい……何かを、忘れている)
昨夜、あかりと話したはずだ。
名前を呼んだ。
確かに、それを覚えている。
なのに、彼女の顔が、ぼんやりと霞んで思い出せない。
「……どうして……?」
唇が震える。
風が一陣、吹き抜けた。
その音が、まるで警告のように耳に残った。
村の真ん中にある小さな広場に、ひとつだけ鐘があった。
石でできた古い台座に吊るされた鉄の鐘。
誰も鳴らしていないのに、ゆらりと揺れていた。
燈は近づき、そっと手を触れる。
すると、胸の奥にまた“痛み”が走った。
今度は明確なイメージが脳裏に刺さる。
――自分がこの村を去るときの記憶。
あかりが、笑っていた。
泣きそうな笑顔だった。
「だいじょうぶ。
灯は、忘れないから」
燈は目を見開いた。
彼女が、そう言っていた。
自分が村のことを忘れるのを、知っていたのだ。
(なぜ……?)
遠くで、小さな足音がした。
振り返ると、あかりがいた。
昨日と同じ白いワンピース。
昨日と同じ笑顔。
けれど――
その目は、燈を知らなかった。
「あの……こんにちは。
あなた、村の人ですか?」
燈の呼吸が止まった。
「……あかり?」
「え……その名前、どうして?」
あかりはノートを抱きしめていた。
その表紙には、見慣れた筆跡で名前が書かれていた。
《わたしの名前は、あかり》
だが彼女は、その意味をもう知らない。
燈は目を伏せた。
自分が忘れはじめているのと同時に、
彼女もまた、“思い出さなくなっている”。
それは、時間の経過ではなかった。
この村そのものが、そうやって存在を保っている。
誰かが来て、誰かが忘れる。
そして、灯が残る。
「……あの……会ったこと、ありますか?」
あかりが、恐る恐る訊いた。
燈は、小さく頷いた。
「……きっと、ある。
でも、君が覚えていなくても、それでいい」
あかりは、困ったように微笑んだ。
「変な人ですね」
燈は微笑み返す。
「――でも、またきっと思い出す」
そう言ったとき、あかりの目に、一瞬だけ光が揺れた。
それが記憶の端なのか、それとも希望なのかはわからなかった。