灯の記憶
燈が家に戻ると、霧は少しだけ薄くなっていた。
縁側に灯が座り、ノートを膝に置いていた。
その表情は、少しだけ怯えていた。
「……遅かったですね」
「……ごめん」
燈はノートを胸に抱えたまま、灯の隣に腰を下ろした。
湿った空気の中で、二人の呼吸だけが小さく重なった。
「何か、見たんですか」
灯は目を伏せた。
「祠があった。中に……俺の名前が書かれたノートが置いてあった」
灯はゆっくり顔を上げる。
「……覚えてますか?」
「覚えていない。けれど、手が知っていた。……俺が、ここにいたことを」
灯の指先が、膝の上のノートをなぞった。
「わたしも……何かを思い出しそうになるんです。夜になると、とくに」
霧が縁側を撫でるように漂う。
「わたし、きっと……違う名前でした」
燈は横顔を見た。
「どんな名前?」
「わかりません。でも――」
灯は瞳を閉じた。
「今でも夢を見るんです。
小さい頃、わたしが、誰かの手を引いている夢。
その人に呼ばれているのに、名前を思い出せない」
燈は胸の奥が苦しくなるのを感じた。
「たぶん……それは、俺なんだろう」
「……」
灯はゆっくりノートをめくった。
何度も上書きされた文字の下から、古い記録が浮かんでくる。
かすれた筆跡が、薄い光の中に滲んでいた。
《あかりへ》
燈は息を呑んだ。
灯も、震える指で文字をなぞる。
《わたしは、きっと忘れる。
でも、それでいい。
あかりが憶えていてくれたら、それでいい。》
霧の向こうで、遠い鐘の音が鳴った。
「……“あかり”」
灯は、確かめるように小さく呟いた。
「これが……わたしの、本当の名前なんでしょうか」
「……そうかもしれない」
燈は答えた。
けれど、言葉の奥に、奇妙な痛みがあった。
“灯”と“あかり”。
同じ意味を持つ言葉。
(なぜ……)
そのとき、灯が顔を上げた。
瞳の奥に、かすかな光が揺れていた。
「――わたし、思い出しました」
「何を?」
「……あなたと、昔、一度だけこの村で会ったこと」
「……本当に?」
灯は頷いた。
「でも、それ以上は……まだ霧の奥にあります」
霧が風に流れ、一瞬だけ道が見えた。
「わたし、確かにあのとき、あなたに言ったんです」
「何を?」
灯は目を伏せる。
「――“ここに戻ってくる”って」
燈の胸に、微かな記憶の影が落ちた。
霧の中で、幼い声がする。
「いつか戻ってきてね」
あの声。
あの手。
「……あかり」
灯は小さく微笑んだ。
「ありがとう。……わたしの名前を呼んでくれて」
遠くで、夜の鳥が一声鳴いた。
霧が再び、ゆっくりと濃くなる。
今度はもう、恐怖だけではなかった。
その向こうに、何かを取り戻せる気がしていた。