夜の貌
杉の梢が揺れていた。
けれど、風の気配はなかった。
燈は湿った石畳をゆっくり歩いた。
あの家を離れて数歩だけで、霧はさらに濃くなり、夜がいっそう深く重なったようだった。
一歩ごとに、足元が柔らかく沈む。
視界の端に、かつて誰かが住んでいた家の輪郭がぼんやり浮かんでいる。
屋根の瓦は崩れ、壁は苔に覆われていた。
それでも、どこかで灯りが揺れていた。
(あれは……)
白い光が家の奥で滲んでいる。
まるで提灯を掲げた人影が、ゆっくり歩いているようだった。
「……誰だ」
声は霧に呑まれた。
だが人影は答えることなく、淡い光を残して角を曲がった。
燈は無意識に歩みを速めた。
古い家並みを抜けると、石段があった。
苔むした石に、どこか見覚えがある。
子供のころ――
夢の中で、何度もここを登った気がする。
(違う。夢じゃない)
胸の奥で何かがざらりと音を立てる。
石段を昇り切った先に、小さな祠があった。
屋根の隙間から、月の光が差し込む。
祠の前に、白い影が立っていた。
それは人ではなかった。
影は、顔も手も、どこか不確かに霞んでいた。
それなのに、燈はなぜか懐かしさを覚えた。
「……」
影はゆっくり振り返る。
輪郭が揺らめき、声もないのに、何かを訴えるように見えた。
「……誰だ」
返事はなかった。
だがそのとき、頭の奥に微かな囁きが過った。
「忘れないで」
瞬間、鋭い痛みが脳裏を刺した。
目を閉じ、額を押さえる。
浮かんでくる。
知らないはずの情景。
幼い自分が、女の人の手を引かれて、ここに立っていた。
白い霧。
あたたかい手。
声がする。
「あかりと一緒にいなさい」
(――あかり?)
目を開くと、影はもういなかった。
残されていたのは、祠の奥に置かれたひとつの木箱。
燈は箱をそっと引き寄せた。
蓋を開けると、中にノートがあった。
古く、表紙が剥がれかけている。
手に取った瞬間、指先がかすかに震えた。
表紙に、幼い文字が書かれていた。
《香月ともる》
息が止まった。
このノートは、自分のものだ。
だが、見た覚えはない。
(どうして……)
視界が暗く揺れる。
遠くで、あの風鈴のような音がまた鳴った。
頭の奥に、微かな囁きがもう一度響く。
「忘れないで」
指が、ページをめくる。
最初の行に、震える文字が並んでいた。
《わたしはこの村を忘れる。
でもきっと、また戻る。
そのときは思い出さなくていい。
ただ、ここにいたことを信じてほしい。》
ノートが、手の中でゆっくり重くなる。
胸の奥が冷たく、痛む。
「……忘れたのは、俺か」
呟きは、霧に沈んでいった。
祠の奥から、ゆっくりと霧が這い寄る。
夜の貌は、まだほんの一部しか見せていない。
燈はノートを胸に抱え、石段を降りた。
振り返ると、祠はもう影に溶けていた。