残された写真
霧は夜の帳と重なり、さらに深く冷たくなっていた。
燈は縁側に座り、灯が戻ってくるのを待った。
戸の向こうで、かすかに物を探す音がする。
どこか遠い場所で、風鈴のような鈍い音が響いていた。
何かを知らせる合図のように思えたが、確信はなかった。
灯はやがて戻ってきた。
胸に抱えた箱を、大切に撫でるようにしている。
「これ……あなたに、見てほしいんです」
おそるおそる差し出された箱は、古びた桐の文箱だった。
燈が蓋を開けると、白黒の写真が一枚だけ入っていた。
懐かしい気配が、胸を突く。
モノクロームの風景。
杉の並木の前に立つ若い女性がひとり。
隣には幼い少年がいる。
その少年の手を握る、もうひとりの少女――
「……」
燈は言葉を失った。
小さな手を伸ばし、微笑んでいる少女。
それは、目の前の灯にそっくりだった。
「この人……」
「わたし、昨日も、この人を見ていました。たぶん、わたしだと思います」
灯は震える声で言った。
「でも……どこか違う気がするんです。あの頃のわたしは、別の名前だったような気がして」
燈は視線を落とす。
写真の裏面に、墨で何かが書かれている。
指でなぞると、ざらりとした感触が残った。
《雲照らすものへ託す》
雲照らすもの。
また、その言葉だ。
「……この“雲照らすもの”って、何だ?」
灯はゆっくり首を振る。
「わかりません。でも……きっと、この村のどこかに、それを知っている人がいる」
霧の外にある世界が、遠くに薄れていく。
自分が東京にいた時間さえ、まるで夢のように遠かった。
「君は……この村で、何を待ってるんだ?」
灯は唇を噛み、言葉を探す。
そして、ぽつりと呟いた。
「――思い出せないんです。
でも、毎朝ノートに書いてあるんです。
《わたしは待っている》って。
……わたしが誰かを待っていることだけは、消えない」
燈は目を閉じた。
霧の中で、遠い記憶の影が蠢く。
幼いころ、夜にだけ夢に見た風景があった。
ひどく白くて、冷たくて、けれど温かい手が自分を引いてくれる夢。
あれも、照木だったのだろうか。
「……もう一度、村を見てくる」
立ち上がると、灯が袖を掴んだ。
「気をつけてください」
「どうして?」
「夜になると……ここは、変わるんです」
燈はその目を見た。
その瞳には、幼い怯えと、覚悟のような静けさが同時に宿っていた。
「もし――もし戻ってこられなくなったら」
灯は言葉を切ると、もう一度ノートを抱きしめた。
「――わたしのことを、忘れないでください」
霧の奥で、風が息をひそめる。
燈はうなずき、写真を胸にしまった。
その重さだけが、自分の存在を確かに感じさせてくれた。
ゆっくりと足を踏み出す。
霧の向こうには、まだ何も見えなかった。
だが、その先に何かが――
自分がずっと欠けていた何かが、待っている気がしてならなかった。