霧の向こう
霧の色は、白というより鈍い銀に近かった。
光を吸い込んだまま反射することを忘れたような、無音の膜。
燈は杉林を抜けると、急に視界が開けた。
そこに、いくつもの屋根が並んでいる。
けれど、窓はすべて黒い。
電柱も、標識も、時間さえも、何年も前から止まっているようだった。
「……ここが、照木」
声に出すと、霧の粒が唇に冷たく降りた。
集落の入口には、朽ちかけた看板が立っていた。
何度も雨に晒され、文字のほとんどは読めない。
だが、かろうじて残った一行だけが視線を射抜いた。
《此処より先、照らす者の棲む地》
燈は肩のバッグを握りしめた。
ほんの数時間前まで、オフィスの蛍光灯の下で編集作業に追われていた。
気がつけば、こんな場所へ来ている。
自分でも理解できない衝動が、足をこの先へ進ませる。
舗装が途切れ、湿った石畳が続いていた。
足元で落ち葉がしずかに崩れ、湿った土の匂いが立ち上る。
視界の奥に、一軒だけ灯りのついた家が見えた。
やわらかい橙色の光が、雨戸の隙間から漏れている。
この村に人がいる。
そう思った瞬間、胸の奥で何かが震えた。
燈は躊躇いながらも、木戸を押した。
軋む音が霧の中に消えた。
縁側に、誰かが座っていた。
白いワンピースを着た少女。
長い髪が湿った霧を吸い、艶やかに垂れている。
細い両腕で、薄黄色のノートを抱えていた。
少女は視線を上げた。
その瞳は淡い灰色で、曇り空の光をそのまま閉じ込めたように、深い影を湛えていた。
「……あなたは?」
燈は声を絞り出す。
「香月燈です。……この村を探して来ました」
少女はしばらく瞬きをしなかった。
それから小さく首を傾げ、呟く。
「……ああ。あなたが、来る人」
「来る人?」
「昨日のノートに書いてあったんです」
少女は胸に抱えたノートを開いた。
紙はところどころ黄ばみ、端が破れかけていた。
そこに、揺れる文字が一行だけ刻まれている。
《あした、来る人に会う》
燈は息をのんだ。
「君の名前は?」
「野坂……灯」
少女は、名前を思い出すようにゆっくりと言った。
そして目を伏せる。
「たぶん。……今日も忘れなかったみたい」
「忘れる……?」
「わたし、朝になると、いくつかが消えます。思い出そうとしても、なくなるんです」
言葉が霧に溶けた。
風が縁側を渡り、ノートのページをふわりと揺らした。
燈は一歩、近づく。
「君は、この村にどれくらいいるんだ?」
灯は俯いたまま、小さく笑った。
「わかりません。昨日も、きっとその前も、ずっとここにいたような気がします」
燈は喉の奥がひりつくように乾いた。
「君は……誰を待っているんだ」
少女は視線を上げる。
曇った瞳に、ほんのかすかな光が宿った。
「……あなたを、だと思います」
霧が少し濃くなった。
風の音も消え、世界に二人だけが取り残された。
「だから、来てくれてよかった」
灯はそう言って、そっとノートを閉じた。