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第13章 奪われた金の印

 そうだった。計画の第二段階が始まるのだ。マナミに告げられたタツヤは、あらためて気を引き締めた。

 タツヤは、床に倒れていたカイを素早く引き起こした。カイは、口の端から血を流し、ふらつきながらも、起き上がった。

「ありがとう。ケンゾーの言うとおり、確かに味方は多いほうがいいや…」

 カイはあたりをざっと見回し、ツクヨミの無事を確認すると、一瞬ほっとしたような顔をみせた。そして、急いで大広間全体の状況を見極めると、すぐに挑むような厳しい表情に変わり、しっかりとした足取りでツクヨミのもとへ向かった。

 あちらこちらで繰り広げられた乱闘や小競り合いで、大広間は混乱していたが、今や、情勢は一変していた。乱入した少年たちとその一派は、客人や宮殿の人々から大きな支持を得ていた。

 宮殿の職員、侍従たち、警備兵、そして招待客の一部までもが、明らかに少年たちに協力しているのだ。国賓のオーム大公は、加勢こそしないものの、少年たちを見て大きくうなずき、暗に同意を示していた。

 場の変化を感じ取ったコーネリウスは、苦々しい顔をしていたが、どうにもならないと悟ったのだろう。側近の者たちは、いつの間にかいなくなり、応援の警備兵も何故かやって来ない。その上、大勢の客人たちに囲まれ、その場から逃げ出すのは不可能だった。

 ツクヨミは、顔にかかった栗色の髪をかきあげ、自分を助けた人々に一礼すると、大広間の奥にある小さな舞台に上がった。カイもまた一礼すると、舞台の脇にある拡声器のスイッチを押し、マイクを取った。

「平和な星からお越しくださった皆さん、お騒がせしてすいません。僕らは、反乱軍でもないし、悪戯で皆さんを騒がせているわけではありません。今ここにいる彼こそが、正真正銘のツクヨミ王子であることを、僕たちは証明したいだけです。どうか、あと少しだけ、僕らに時間をください」

 カイは力をこめて、叫んだ。カイの声は大広間中に、そして月桃園にまでこだました。大勢の客人は声をひそめ、成り行きを見守った。反対の声は、どこからも上がらない。警備兵たちも動きを止め、これから起こる何かを見極めようとしていた。

 舞台の上では、ツクヨミが銀のリュナを胸もとから取り出し、おもむろに吹き始めた。人々は、驚いたような表情を浮かべたが、すぐさま柔和な顔つきになると、不可思議な音楽に引き込まれていった。リュナの奏でる旋律が、人々の心の中に浸み込んでいったのだ。

 なんて物悲しい、それでいて懐かしい旋律だろう。タツヤは、リュナの音色に全身を貫かれた。悲しくて涙がどうにも止まらないのに、出て行く涙の分、懐かしさが込み上げ、胸の中が潤いで満たされていく。この懐かしさは、それぞれの過去を、月の記憶を、そして共通の時間を思い出させてくれる。

 そうだ、かつての月には、この旋律のように美しく、平和で満ち足りた世界が広がっていたのだ。銀の精霊たちが自然に集い、戯れ、祝福する月の神殿と宮殿。野望や欲望をもっとも忌み嫌う、清く純粋な銀の精霊たち。その精霊に愛された預言者と王家の一族。

 その美しかった月が、今ではすっかり邪悪に覆われ、破壊されようとしている。正しき者にしか、真実を語り継げないのに、その正しき者は虐げられ、真実は葬り去られようとしている。

 悲しい、心底悲しい。月の心は悲しみに張り裂けそうだ。

 リュナの音色は、それを耳にした人々の心の中、体の隅々に染み渡った。今、人々は自分の指先に、足先に、髪の毛の先にさえ、リュナを感じている。客人たちは全員その場に立ちつくした。ほとんどの客人が、とめどもなく涙を流している。

 屈強な警備兵たちさえがっくりと膝をつき、目には涙さえ浮かべているではないか。タツヤを取り押さえようと腕をつかみかけた警備兵たちも、当惑しながら手を離していた。感動と後悔と懐かしさと悲しみが激流となって、人々の中に渦まいていた。

 不思議だ。神秘的なリュナの音色は、王族の住まいである銀宮殿へ、そして中庭にある月桃園を越え、遠くアペニン山脈まで、余すところなく響き渡っていく。タツヤは、自分が見知っているかのように、肌で感じていた。

 そして、タツヤは、アペニン山脈の奥にある神聖な建物を捉えた。建物の中には、輝く炎のような生き物が自分をじっと見つめている。銀色の、形の一定しない、不可思議な生き物だ。あの神殿の奥に潜むと言われている、銀の炎なのだろうか。

 目があるわけでもないのに、何故か自分を見ていると強く感じる。これはきっとリュナが見せる幻想に違いない。そう思ったが、その光り輝く生き物は、あまりに生き生きと目の前に迫っているので、タツヤはそら恐ろしくなってきた。

 そうしているうちに、ふとリュナの音色が変わった。そのとたん、輝く生き物の幻想は、目の前からふっと消え失せた。

 今度は力強く、希望に溢れた旋律に変わった。ピルラ星で聞いたリュナよりも、さらに何倍も力強い旋律だ。

 たちまち人々の心は、重苦しい感情の鎖から解き放たれ、生命に溢れた喜びを実感するようになった。全身の血管の隅々まで、神経線維の末端まで、生命の喜びは激しく振動した。それは、内奥にしまい込まれた崇高な魂を引きずり出し、強烈に揺さぶった。魂は、その歓喜の振動に、今にも卒倒しそうだ。

 狂気のような喜びは、全身を駆け巡り、全身からほとばしると、大勢の人々を、感動の塊のような一個の生物に変化させた。人々はいつの間にか、悲しみの涙の代わりに、歓喜の涙を流すようになっていた。

 人々は、なおもリュナの音色に激しく揺さぶられ、翻弄され、突き動かされた。

 しばらくすると、大広間の奥にある扉が突然開いた。王族たちの暮らす、銀宮殿に通じる廊下の扉だ。

 そこに、カイが一人の青年を連れて現れた。青年は寝巻きの上に白いガウンを羽織っており、足もとが少々おぼつかない様子だ。年は二十歳くらいだろうか。美しく物悲しい瞳が、とても印象的だ。青年は、肌が異様なほど青白く、やせ細り、厚手のガウンの上からでも、尖った肘や膝がわかるほどだ。

 それでも、隠せない品の良さが顔に現れている。大広間の眩し過ぎる光と大勢の視線に突如さらされ、青年は顔をしかめ、ひどく怯えた。だが、その顔はツクヨミの兄と言ってもいいほど、ツクヨミにそっくりではないか。

「ツクヨノ様」

 客人の一人が叫んだ。誰もが目を見はった。

「本当にツクヨノ様だ。弟王子が、長い眠りから目覚められた」

 信じがたい光景に我が目を疑った人々は、一時すっかりおし黙ってしまった。が、次の瞬間、大歓声と拍手が巻き起こった。ツクヨノと呼ばれた青年は、雪崩のような拍手と歓声に驚いて、小さく身を震わせた。

「ツクヨノ」

 ツクヨミが舞台から叫んだ。ツクヨミはリュナを吹く手をいつの間にか止めていた。しかし、リュナの音色はこだまのように響き続けている。

「…ツクヨミ…兄さん?」

 青年がかすれた声で、やっと答えた。ツクヨミは舞台を降りて、青年のもとへ駆け寄った。

「よかった、やっと目覚めてくれた。ああ、長い間、本当に長い間、この日を待ち続けていた…」

 青年の顔が徐々に緩み、冷たく暗い闇の底から、ようやくぎこちない笑みが現れた。

「うん、銀色のリュナの音が聞こえたよ。リュナの精霊が、僕を深い沼の底から引き上げてくれたんだ」

 ツクヨミは、青年を抱きしめた。まだ14歳のツクヨミが、20歳くらいの青年に兄さんと呼ばれている光景は奇異だったが、それは真実だった。なぜ真実なのかと問われても、おそらく答えられる者はいないだろう。しかし、真実であるのを、その場にいる誰もが、疑わなかった。

 二人の横にいるカイは、安堵の表情を浮かべている。

 ツクヨミは、青年の腕を取ると、キリリと姿勢を正した。

「さてツクヨノ、ようやく真実を語るべき時がきた。ここにいる大勢の客人が証人となってくれるはずだ」ツクヨミは、青年の顔を見上げて言った。「おまえをこんな長い眠りに陥れたのは誰なのか、私たちに教えておくれ」

 青年は顔を少し曇らせ、それから落ち着かない表情で大広間を見渡した。

「兄さん、よく覚えてないけれど、誰かに術をかけられたんだ。すると、とたんに体が動かなくなり、あそこにいるコーネリウス大臣に、白い薬を無理やり飲ませられた」ツクヨノは、大広間の一角を指さした。「そうしたらどんどん眠くなって、深い沼に沈み、あとはずっと…」

 おぞましい記憶が生々しく蘇ってきたのか、青年の息づかいは荒くなり、しまいには真っ青な顔をして、何一つしゃべれなくなってしまった。

 ツクヨミは、今にも倒れそうな青年を必死に抱きとめながらも、大広間の反対側にいるコーネリウスを睨みつけた。人々の厳しい視線もいっせいにコーネリウスへと注がれた。

「嘘だ。私は薬など知らない。失礼ながら、ツクヨノ殿は目覚めたばかりなので、寝ぼけておられるのだ。悪い夢でも見たのだろう」コーネリウスの顔色は、明らかに変わっていた。「お客方、どうか私を信じていただきたい。あそこにいる少年は、母親を殺した凶悪犯、ツクヨミだ。皆さん、こんな猿芝居に騙されてはいけませんぞ」

 コーネリウスがわめいた。さっきは、ツクヨミの偽者だと騒ぎながら、今度は本物のツクヨミだとのたまう。

 しかしコーネリウスの話を信じる者は、もはや誰一人いなかった。何故なら、リュナの音色が真実を語ったからだ。言葉のない旋律は、言葉より真実だった。何が真実なのか、リュナのおかげで人々は身をもって全てを理解したのだ。警備兵たちも無言のまま、コーネリウスに怒りの眼ざしを浴びせていた。

 そこへ、聞き覚えのある、ひときわ力強い声が大広間中に響き渡った。

「大臣殿、そんな見え透いた言いわけを、いつまで続けるおつもりか?」

 椎間(しいま)公爵が拡声器もなしに、大広間に向って叫んだのだ。弟王子が現れた同じ扉から、今度は公爵が、変装を取り、素顔のままで現れた。公爵を見知っている人々は、驚きざわめいた。

 椎間公爵は、扉の後ろから、車椅子に乗った一人の老人を人々の前に連れ出した。老人はひどく憔悴しており、重い病を患っている様子だったが、冒しがたい気品に溢れ、不屈の精神に貫かれている。

「銀王様」

「陛下」

「お父上」

 いろいろな叫び声が、大広間の中を一度に飛び交った。月王国の統治者、銀王は、みんなの呼び声に答えるかのように、一度だけ小さく、しかし、しっかりとうなずいた。

 銀のうろこでおおわれた厚いガウンをはおり、その間から、腰の赤いベルトにつけた金の剣が見え隠れしている。

 銀王は車椅子に乗ったまま、確かめるように大広間を見渡した。最後に、扉のすぐ横にいるツクヨノと呼ばれた青年を見て微笑み、それからツクヨミに目を留めた。

「我が息子ツクヨミ、よくやったぞ。おまえが奏でるリュナの深い音色のおかげで、私も、ツクヨノ同様、目覚めることができたのだ」

 銀王は、車椅子の上から人々に向って語りかけた。憔悴しきった体から出たとは思えないほど、底力のある威厳に満ちた声だった。その目は力強く輝き、確固たる意志に燃え上がっている。その王たる威厳に、人々の間からは驚嘆の声が次々にあがった。

「皆の者、誤解するではないぞ」銀王はさらに声を張り上げた。「今まで私は目を開けたまま、眠らされていたのだ。ツクヨミの吹いたリュナのおかげで今やっと、我が目で物事が見えるようになり、我が口でしっかりものが言えるようになった。だが見渡せば、月はなんと邪悪な色に染まっていることか。私には、銀の精霊たちの嘆きが聞こえてくる。さて、誰が私に術をかけてこんな状態にし、ツクヨノを眠らせ、その罪を兄ツクヨミに着せようとしていたのかな。忠実なる臣下である大臣よ。答えるがよい」

 銀王の高貴な威厳の前に、傲慢な態度をとっていたコーネリウスはすっかり小さくなり、へりくだって頭を垂れた。

「銀王様、恐れながら私は存じません。もちろん私ではございません。何より証拠に、私は呪術を使えません」

 決して逸らさない銀王の厳しい視線に、コーネリウスはたじろぎ、肉づきのいい顔から、一気に汗を吹き出した。

「なるほどな。確かに、おまえは呪術を使えない。そんな大それた力を持ち合わせるほど、大物ではない。ならば、誰が、背後でおまえを操っていたのだ?」

 コーネリウスは、何も答えなかった。いやむしろ、答えられなかったのだろう。

「おまえが仕えるべき王にさえ、答えられないと言うのか?それとも、私が正統な月の王ではないと、おまえはそう言いたいのか?」銀王はややあって、右手の手のひらを掲げて人々に見せた。「これを見るがよい。月王国の正当な王位の証である、金の印を」

 掲げられた銀王の手のひらには、黄金の三日月がまぶしく光輝いていた。それは、小さな三日月だが、その光は、天井で光を放つ壮大なシャンデリアよりも、遥かに強烈で神々しく、まるで小さな太陽が手のひらに収まっているようだった。

「おお、まさしくあれは金の印だ。まさかここで、金の印を拝めるとは…」

 客人の一人が叫んだ。それに続いて何人もの客人が、感嘆の声をあげた。

「金の三日月が手のひらと一体になっている。もはや疑いようもない。正真正銘の王だ」

 銀王がほんの少し指を動かすと、黄金の三日月も手のしわと同じように、指の動きにあわせて動く。確かに黄金の三日月は、銀王の手のひらの一部になっている。決してまがい物ではない。

 金の印を目にした幸運な人々は、自分たちが波乱の現場にいるのもすっかり忘れ、黄金の三日月にうっとりと見とれていた。

 銀王は透明な鋭い瞳で、コーネリウスをまっすぐ射抜いた。

「金の印のもとでも答えられないと言うのなら、私が代わりに答えてやろう。おまえの魂胆はわかっている。おまえは月の王になりたかったが、金の印を持っている者でなければ、月の王にはなれない。しかし、この金の印を得るには、その前に、次期王位を約束する、銀の印を持っていなければならない。それで兄王子ツクヨミが持つ、銀の印をおまえたちは奪おうとした。ツクヨミから銀の印を奪い、操り人形になっている私に一旦銀の印を返し、私が改めておまえにそれを渡せば、おまえは銀の印を持つ後継者として、次期王位につける。私を殺さずに生かしておいたのは、そのためだろう?その後で私を殺せば、おまえは晴れて金の印を持つ月の王となれるのだ。おまけに、ツクヨミに罪を着せ、凶悪犯として始末してしまえば、おまえたちには邪魔者もいなくなり、全てを手に入れられるのだ」

 コーネリウスは、その場にへなへなと座り込んだ。悪事はここで全て暴かれ、真実がようやく姿を現した。その真実を初めて知った警備兵たちは、大きな衝撃を受け、同時に、怒りに燃えた。自分たちはずっと騙され続け、欲と野望でいっぱいの反逆者に、その身を捧げていたのだ。

 警備兵たちは、大臣を取り囲むと、銀王の次なる命令を待ち静かになった。

「私は、呪術を使っていない。私に呪術は使えない…」

 哀れな大臣は床に両手をつき、うなだれ、独り言のように何度も同じ言葉をつぶやいた。もはや大臣は、床にうち捨てられた、抜け殻同然だった。礼服を身にまとった惨めな脂の塊でしかない。野望は砕け、権力は奪われ、一転して罪人となったのだ。

 大広間はみごとに静まり返り、天井のシャンデリアさえ、吐息を止めた。

 ここで、波乱の晩餐会は幕を閉じるものと、誰もがそう思った。が、その時、コーネリウスは突然すっくと立ち上がると、血走った目をかっと見開き、何かを訴えるように口を大きく開いた。

 だが、言葉の代わりに出たのは、短いうめき声で、そのまま勢いよく前のめりに倒れ込んだ。不吉な大音響が、大広間にこだました。

 コーネリウスはそれっきり動かなくなった。床に転がったコーネリウスの背中には、見たこともない真っ黒な孔が開いている。おびただしい血がそこから流れ出て、大広間の床を染めあげていった。

 近くにいた人々から、悲鳴が上がった。警備兵たちがすぐさま駆け寄ったが、コーネリウスは既に事切れていた。

「待て、触るな。これは呪いの仕業だ」

 公爵が大声で叫んだ。見ると、背中の孔からは、ミミズのように長く黒い虫が何匹も這い出し、空気に触れると煙になって消えていった。

 それを目撃した警備兵たちは大混乱となり、いっせいに後退した。コーネリウスと共にいた軍人は、早くも大広間の出入口に逃げ出していた。少し遅れて、これがもはや余興でないと気づいた客人たちが、次々悲鳴をあげはじめ、大広間は再び騒然となった。

 危険を察知した椎間公爵は、銀王をかばうように、さっと銀王の前に飛び出した。ほぼ同時に、カイも、ツクヨミと弟王子ツクヨノの前に躍り出た。

 これだけ大勢の人が見守る中で、いったい誰がどうやって、コーネリウス大臣を殺したのだろうか。見えない敵に、誰もが息を押し殺し、耳をそばだてた。

 どこからか風が吹いてきた。

 今度の風は生暖かく、嫌な感じの風だ。人々の不安は最高潮に達し、大広間は一気に、ピリピリとした空気に包まれた。

 すると中庭の月桃園から、一人の男が静かにやって来た。いつの間にか、月桃園には濃い霧が立ち込めており、その男のシルエットが濃霧の中から少しずつ明瞭になってきた。

 霧の中から現れた男は、灰色の長いローブを身にまとい、フードで顔を半分隠している。一見すると、物静かな修道士か、隠者のようだ。顔立ちは柔和で、歩く姿は品がよく、欲望むき出しの、下品な大臣とは正反対だ。

 それなのに、次の瞬間には、誰一人その男の顔を思い出せない。しっかり見ていたはずなのに、年齢や出身星系はおろか、顔形がまったく記憶に残らないのだ。男の存在すら、人々の記憶からどんどん薄れていく。それでいて、異様で強烈な邪悪さだけが、見た者の脳裏にいつまでも印象としてこびりついていた。

 吐き気がするほどおぞましい余韻を後に残して、本人の存在は消えていく。実に不思議な現象だった。

 男は何事もなかったように、堂々と大広間の中に入ってきた。客人たちは男が歩いて来るのを、ただ、ぼう然と眺めるだけだった。次から次へと起こる月宮殿の大事件に、客人たちは逃げ出す機会を逃し、もはや、付き合わざるを得ない状態だった。

 謎の男は、まっすぐ銀王のところに向って進んで行った。途中で、大臣の哀れな亡骸を冷たく一瞥したが、そのまま通り過ぎた。

 銀王の前で生きる盾となっていた椎間公爵は、銀王には指一本触れさせないとばかり、全身に気迫を込め、先手を打とうと足を踏み出した。

 しかし、謎の男が椎間公爵の前で、指をほんの少し動かすと、椎間公爵は全身の骨が抜かれたように、ぐにゃりとして床に倒れた。その気味悪い倒れ方に、みんなはぞっとした。

 カイや椎間公爵の仲間たちは、こぞって銀王のもとへ駆けつけようとしたが、男が軽く手をあげて制止すると、突然手足が固まり、誰もがその場から一歩も動けなくなってしまった。足を踏み出そうとしたタツヤも、もちろん、手足が氷のように固まり、言う事をきかなくなった。

 男は銀王の座っている車いすの前に立ちはだかると、銀王を軽蔑するように見下ろした。しかし、銀王は微塵も動じることなく、目の前の男を力強く見上げた。

「おまえが私とツクヨノに術をかけた、呪術師か」

「いかにも。私はマルディン。闇の精霊の加護を受けている呪術師だ」

 マルディンと名乗った男は、不敵にもにやりと笑った。

 その名を聞いた客人たちの何人かは、とたんに恐怖の悲鳴をあげた。きっと恐るべき噂を耳にしていたのだろう。その叫び声で、大広間はますます緊迫した空気に包まれた。

 ツクヨミは、湧き上がる激しい怒りと憎しみではち切れそうだったが、体はまるで言うことをきかず、はがゆい思いに唇を噛みしめていた。

 先ほど大広間に入った時、ツクヨミが突然足を止めたのは、おそらくマルディンの気配を本能で感じ取ったからだろう。マルディンは呪術を使い、既に大広間に潜んでいたに違いない。自分の姿を透明化するか、もしくは、そこにいるのに、誰にも気づかれない術を使っていたに違いない。全員の動きをピタリと封じる呪術師だからこそ、そんな芸当もたやすいのだろう。

 それでも銀王は、マルディンがまるでそこにいないかのごとく振舞い、毅然とした態度を崩さなかった。

「わからぬのか?マルディンよ、おまえの野望は打ち砕かれたのだ。傀儡の大臣は死に、銀の印を持つツクヨミは、こうして王宮に戻った。もうお前の出る幕はない」

 しかしマルディンは眉一つ動かず、いっそう軽蔑をこめた目で銀王を見下ろした。

「中身がどうであれ、王としての威厳を崩さない心意気は褒めてやろう。だが、果たしておまえは王と呼ばれるのにふさわしい人間なのか?」

 マルディンの問いに、銀王は小さく眉をひそめた。

「どういう意味だ?」

「おまえが過去に行った数々の悪業についてだ。人々は騙せても、真実を見抜く私を欺くのは不可能だ」

 銀王は憤然と声を荒げた。

「お前と違い、銀の精霊に恥じるような行いはしていない。王たる私が銀の精霊に背けば、月はとっくの昔に滅びているはずだ。そんな安っぽい脅しに、私が乗るとでも思うのか?」

 マルディンがほくそ笑んだ。

「では、挨拶代わりに、封印した記憶の一部を返してやろう。お前は、私の顔に見覚えがあるはずだ」

 マルディンがそう言ったとたん、銀王は大きく顔を歪めた。何かを言葉にしようとしたが、声にならず、驚愕の表情のまま、凍りついた。

「ほら、思い出しただろう?いいや、この顔を一生忘れるはずがない。この顔こそが、おまえの罪の証拠だ。一つ、いい事を教えてやろう。おまえの命は、とうの昔に風前の灯だった。それを私が呪術で繋ぎ留め、生かし続けてやったのだ。私は、いわば、命の恩人だ。おまえの命はもうずい分前から、私が握っている。だが、リュナにより呪いを解き、こうして目覚めた今、おまえの命の灯も、間もなく尽きるだろう。大臣の命も、私の手中にあったが、私を裏切ろうとしたので始末した。どのみち、根っから卑しいだけの男だ。用がすめば、生かしておく価値もない」

 さすがの銀王も顔色を変え、激しく動揺しているのが誰の目にも明らかになった。

 人々の間からも、息をのむ音や悲鳴が微かに漏れ聞こえた。予想はしていたものの、コーネリウス大臣は、自分が仲間だと思っていたマルディンに殺されたのだ。ところがマルディンの方は、大臣を、仲間どころか、虫けら同様にしか考えていなかった。

 ここで人々は、恐ろしくもおぞましい真実に気がついた。マルディンの言葉が正しければ、ためらいなく人殺しを行う呪術師に、銀王の命が握られていることになる。

「さて、血塗られた月王族よ。もはや月の統治者は、月王族である必要はなくなった」

 マルディンは人々の方にむかって、声を轟かせた。そして、従者が取り囲んで守っているオーム大公をチラリと見た。

「月の統治者にふさわしいのは、正しき力を持った、正しき者だ。正しき力は、偽りの力を凌駕する。ここに示したとおり、私はその力を十分に備えている。そして、私は、月の平和と発展だけでなく、銀河系全体の力のバランスを維持し、更なる平和と発展に貢献できるだろう。今や強大な力がなければ、この月を守るのも、外宇宙の敵に立ち向かうのも不可能だ。王族特権を振りかざし、ひたすら私腹を肥やす体制のままであれば、この月は早々に滅びるだろう。おまえたち月の従者どもは、忠誠を誓うべき相手を間違えたのだ」

 マルディンは、カイの方を一瞬、見やった。それから、まだ強張ったままの銀王を見すえて言った。

「リュナを祝福する銀の精霊は、月を守っているのではない。実は王族だけを守る、不正な力の持ち主なのだ。だから、銀の精霊は、月にだけしか効力を及ぼさないが、闇の精霊は、宇宙のどこにでも満遍なく、偉大な力を行使できる。つまり、正しいのは、闇の精霊だ。その闇の精霊に、私は加護を受けている。何より証拠に、私の呪術が効いている今、リュナに宿っている銀の精霊は、このとおり、何一つできないではないか」

 マルディンは、空しい黒孔のような目をツクヨミに向けた。そのとたん、ツクヨミはぞっとして、大きく打ち震えた。まるでマルディンの暗い目が、体の中に入り込んだかのようだ。

 それをタツヤたちも同時に感じ取り、同じようにぞっとした。しかし、ツクヨミの胸にぶら下がっているリュナが、ひときわ光り輝き、何とかそれを食い止めている。

 実際、ツクヨミは麻痺していた手足をほんの少しずつだが、動かし始めている。手足さえ動かせれば、リュナを吹いてマルディンと戦えるはずだ。ツクヨミは恐怖と戦いながら、必死に手指を動かそうとしていた。

「偉大な闇の精霊こそが、この月を守り、力のバランスで平和に導くのだ。王族は、月の力を自分たちの存続のためだけに使い、月の人々を欺いている。それゆえ、銀の精霊も、今やその力を失い、王の証である金の印は、王族のもとを離れたがっているのだ。私の話が偽りでない証拠を見せてくれよう」

 銀王は自分の身を守ろうと、腰の短剣に手を伸ばしたが、マルディンの前に、その自由は奪われてしまった。カイは、レーザー銃を使えないかと、懸命に手を動かそうとしたが、手は動かず、代わりに額から汗がしたたり落ちるばかりだった。

 マルディンは、懐から短剣を取り出した。その場にいる全員が息をのんだ。誰もが、マルディンは銀王を刺し殺すだろうと、最悪の場面を予想したからだ。銀王は凍りついた表情のまま、マルディンを凝視した。

「止めろ!」

 まだ動けないツクヨミの絶叫が轟く。

 マルディンは素早く呪文を唱えると、銀王は、操り人形のように、自ら右手を宙に上げた。その銀王の手のひらには、金の印が燦然と輝いている。

 マルディンは、躊躇なく、銀王の手のひらを短剣で突き刺した。銀王はうなり声をあげたが、マルディンはそれを無視して、銀王の手のひらから短剣を引き抜き、宙に掲げた。輝かしい金の三日月は、串刺しのように短剣に突き刺さったまま、空中で輝いていた。輝きは、若干陰ったが、それでも大広間を照らし出すくらい、明るく煌めいている。

 苦しげなうめき声が、大広間中に響き渡った。銀王は、血まみれの右手を左手で押さえると、車椅子にぐったりもたれかかった。銀王の血だらけの手のひらから、黄金の三日月は消えていた。

 マルディンは、黄金の三日月が刺さったままの短剣を、ゆっくり左右に振り、満遍なく人々に見せつけた。まさに不敵の笑みを浮かべ、奪い取った三日月を人工光の中でさらしている。

 マルディンは、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

「さて、これはまだ、借り物の金の印だ。次は、これを本物にしようじゃないか」

 マルディンは、そう言うと同時に、ツクヨミの方に振り返った。再び恐ろしい視線にさらされたツクヨミは、恐怖と怒りのあまり、立ったまま気絶しそうなほど興奮していた。

 いよいよ、ツクヨミの身が危ない。このままでは、銀のリュナが奪われ、ツクヨミの命さえ、奪われかねない。銀の印さえ手に入れば、マルディンにとって、ツクヨミ王子はただの邪魔者でしかないからだ。

 カイは何とか体を動かそうとするが、気ばかり焦って、体はいっこうに言うことを聞かない。その歯がゆさに、ギリギリと大きな歯ぎしりを響かせている。

 文字通り、誰も何もできない。これはもう宿命だと思って、諦めるしかないのか。

 が、ここでマルディンは、突然、何かに驚き、月桃園出入口の方に鋭く振り向いた。何が起こったのかは、わからない。こちら側からは、何も見えないし、何も聞こえない。だが、マルディンの様子は明らかにおかしかった。マルディンは、微かに口もとを歪め、急いで金の印を懐にしまい込んだ。

 そのとたん、ツクヨミの胸もとにあるリュナが、力強く輝き出した。ツクヨミは、どうにかしてリュナをつかみ、震える手でゆっくりと持ち上げた。リュナは、だんだんと輝きを増し、やがて小さな太陽のように輝き出した。その輝きに、マルディンは嫌と言うほど顔をしかめた。そればかりか、リュナの光に当たらないよう、より深く、顔をフードの奥に引っ込めた。

 リュナが、あとほんの少しで口もとに届こうとした時、マルディンの鋭い視線が浴びせられ、再びツクヨミの体が硬直した。

「金銀そろえて頂く予定だったが、まあ、いいだろう。どうせまた近々、会うだろうから、それまでは、命も銀の印も、お前たちに預けておこうじゃないか。せいぜい別れを惜しむがよい」

 マルディンはツクヨミを一瞥すると、滑るように大広間を通り抜け、霧が立ち込める月桃園に出て行った。

 マルディンの姿が視界から消え去ると、全員の呪縛がやっと解けた。全員、自由を取り戻したものの、筋肉はずっと緊張を強いられていたので、次々と床に倒れ込んだり、柱やテーブルに力なくもたれかかったりしていた。

 気丈な椎間公爵は、ぐったりした銀王のもとに駆けつけた。すぐさま衛兵たちも自分を立て直し、銀王とツクヨミ、ツクヨノのところへ集まると、取り囲んで守りの態勢を取った。

 ツクヨミは、マルディンの呪縛に全力で抵抗したためか、リュナを握りしめたまま、力尽きてその場に倒れこんだ。それでも、左手を挙げ、カイに合図を送り、力なく叫んだ。

「私は大丈夫だ。それより、奴を絶対に逃がすな!」

 それを見届けたカイたちは、警備兵と共に急いでマルディンのあとを追い、まだ霧の立ち込める月桃園へ飛び出した。カイは、まだ足が多少もつれていたが、逃すまいと必死の形相だ。

 タツヤもすぐに起き上がると、両足に力を入れた。しっかりと、床を踏みしめる感覚が戻っていたので、迷わず、カイたちに続いて月桃園の中へ出ていった。アキラもまた、すぐに動けるようになり、タツヤと共に月桃園へ飛び出した。

 王族を守る味方は十分いるので、大広間に残る王族の方は安全だが、マルディン追跡の人数がまったく足りていない。つまり、まともに歩ける兵士が圧倒的に少なかった。

 どうやら、年が若い子どもの方が、回復は速いようだ。歩けるようになった若者たちから順々に、月桃園へと繰り出して行き、追撃隊に加わった。

 しかし、マルディンを追いかけた先陣の人々は、月桃園の中央付近で立ち往生した。確かにマルディンの後ろ姿を捉えていたのに、消え行く黒い霧を目にしただけで、何一つ見つけられなかった。結局、マルディンを取り逃がしてしまったようだ。

 その場に立ちすくむ人々を尻目に、生暖かい風ばかりが月桃園を吹き抜けていった。奇妙な霧は、いつの間にか消え失せ、いつもの透明で美しい月桃園に戻っていた。

 タツヤとアキラが先陣の一団に追いついた。月桃園のちょうど真ん中付近では、カイが絶望のあまり、地面にがっくりと膝をついていた。

「金の印が奪われるなんて、ありえない。金の印は、他人が奪えるはずないのに、どうしてなんだ…」

 カイは、信じられないと言った面持ちのまま、宙を見つめている。タツヤとアキラはわけがわからず、その場で戸惑っていた。すると後ろから追いついた、利木と呼ばれていた大男が、荒い息を整えた後、二人にそっとささやいた。

「銀の印は、人から人へとやり取りできるが、金の印は王となるものに現れたら、本人が死ぬか、本心から王位を辞退しない限り、一生その人物についてまわるものなのだ。いわば、人体の一部になるのだよ。それなのに、マルディンにあっさり奪われてしまった。だから、この件が広く知られると、銀の精霊が銀王を見放し、月王国そのものが崩壊するのではないかと、国民は思うだろう。我々宮殿関係者は皆、それを恐れているんだ」

 それを聞いたタツヤとアキラは、複雑な月王族の事情に困惑した。マルディンは、そういった月王族に関わる秘密まで精通しているばかりか、利用しようとしているのだ。呪術も凄腕だが、用意周到な点も含め、よほど王室、特に銀王に怨恨があるのだろう。

 マルディンは公言していたとおり、記憶の封印を少しだけ解いたとたん、銀王は明らかにマルディンを知っている反応を示した。過去に何があったのかは、わからない。しかし、二人は、何等かのよくない因縁で結ばれているのだろう。

 そして、マルディンはこうも言っていた。銀王は数々の悪行を行っていたと。丸々信じるわけではないが、案外それが、二人の因縁の原因なのかもしれない。

 タツヤたちは、打ちひしがれたカイにかける言葉を見つけられない。利木は、カイの様子を見届けると、何も言わず、暗い顔のまま大広間へ引き上げて行った。後から駆けつけた人々も、何の手がかりも得られず、皆ぞろぞろと大広間へ戻って行く。

 今は、カイをそっとしておく必要があるのかもしれない。タツヤたちは、自分たちも大広間に戻ろうと振り向きかけた。その時タツヤは、木々の間から漂う、香ばしい匂いに気がついた。何だろうと思っていると、すぐ目の前の茂みの中から、風格のある老人が、こつ然と姿を現した。

 タツヤとアキラは、突然の出来事に驚き、たちまち警戒した。一瞬、マルディンが戻ってきたのかと勘違いしたのだ。だが、老人は弱腰の二人を見ると、ふっと微笑んだ。そのとたん、緊張がすっかり緩み、二人はほぼ同時に確信した。間違っても、この人物はマルディンではないと。

 老人は、地面に膝をついているカイにゆっくり近づいて言った。

「金の印が奪われた理由…それはな、銀王がとっくの昔に死んでいるからだ」

 老人は、みごとな銀髪と、長い銀の顎鬚を風になびかせ、銀白色の長い衣を着ている。敵ではないが、どう見てもただ者ではない。非常に落ち着いた声で、目もとは優しげだが、それでいて銀王にも負けないくらいの威厳を放っている。話すたびに、銀の髪と顎鬚が小気味よく揺れ動き、松明の明かりにキラキラと輝いていた。

 そして、マルディンとは反対に、一度その姿を目にすると、神秘のベールに包まれた崇高な印象が光となって脳裏に焼きつき、いつまでも離れない。

 失意のカイも顔をあげ、ゆっくりと立ち上がった。

「あなたは預言者ですね?」

 カイは、一目で、目の前の人物を見抜いた。

「いかにも」預言者は、カイに目を留めた。「おまえさんは見たところ、青銀の騎士だな。名は何と言う?」

「カイと言います。ツクヨミ様をずっとお守りしてきました。預言者殿、陛下が既に亡くなっているとは、どういう意味なのですか?今の陛下は、本物ではないと?」

 預言者はゆっくりうなずくと、カイの背後にいるタツヤとアキラをちらりと見て、それから静かに語り出した。

「先ほど、忌まわしき呪術師が言った通りだ。銀王は呪術師の強大な術によって、無理やり生かされてきたのだ。誠に嘆かわしい話ではあるが、本来なら銀王の寿命は4年前に、尽きておる。呪術が解かれた今、生きる力の弱い銀王から金の印を奪うのは、たやすいだろう」

 タツヤは、預言者の言葉に衝撃を受けた。マルディンがさっき大広間で公言していた話は、決してでたらめではなかったのだ。天に逆らって人間の寿命を延ばすとは、何と壮絶な力なのだろう。神をも愚弄し、人の運命を狂わせ、月王国全体を否応なく邪悪に引きずり込む。月王族は、今、とんでもない魔物を相手にしているのだ。

 ここでタツヤは、さらに恐ろしい真相に気づき、独りぞっとした。ツクヨミがマルディンと戦い、マルディンを倒すのは、風前の灯である父王の命を絶ち切ることでもある。ツクヨミは、当然それに気づいているだろう。またしても、過酷な選択に迫られるのだ。

 一方カイは、明らかに顔色が変わり、それからひどく真剣な表情になった。

「では、教えてください。金の印が奪われたらどうなるのですか?月王国はどうなるのです?金の印を奪った者が王位につくのか、銀の印を持った者が王位に上がるのか。それとも、もともと金の印と合体していた銀王が、王位を続けられるのか」

 カイは口から泡を吹かんばかりの勢いで、預言者につめ寄った。

「落ち着きなさい。この異常な状況下では、誰が月の統治者に最もふさわしいのか、銀の精霊も、判断がつきかねるのだろう。今のところ、奪われた金の印は生きてはいるが、効力を発揮していない。中立の立場のまま、静かに、王にふさわしい者を待っている。だが、金の印に闇の精霊の力が吹き込まれると、金の印は闇に加担し、闇の統治者を受け入れるだろう。そうなれば、月は、呪術師や闇の精霊に乗っ取られてしまう。ただし、金銀、両方の印がそろって相通じない限り、金の印に闇の精霊は入り込めない。だから、手遅れにならないうちに、奪われた金の印を呪術師から取り戻すのだ。」

 カイは、がっくりと肩を落とし、それからまた真顔で預言者と向き合った。

「あいつと戦うなんて、無理だ。闇の精霊を自由に操る呪術師なんて、とても勝ち目がない。僕たちはあまりに無力過ぎるんだ。あいつに対抗できるのは、預言者殿だけです。さっきだって、あいつは預言者殿の気配を感じ取って、いったん引き下がったのでしょう?月を守るため、どうか僕たちに力を貸して、共に戦ってください」

 カイは、なりふり構わず、必死に懇願した。

「残念ながら、それはできない。青銀の騎士なら、十分承知しているだろう?私は歴史を変えるような出来事に直接介入し、結果を左右する明確な発言は許されていない。預言者がそんな行為をすれば、月王国はたちまち銀の精霊から見放され、滅びてしまうからだ」

 預言者は顔を曇らせながらも、きっぱり言ってのけた。

 カイは、そんな事情はよくわかっていた。知っているはずなのに、なおも食い下がった。

「だけど、あんな呪術を使う化け物とは、まともに戦えない。たとえ月正規軍が全力でかかっても、あいつには歯が立たない。全兵士の動きを、瞬時にピタリと封じてしまう力を持っているんだから」カイは、預言者を責めるような目で見た。「あなたが目覚めたのは、まさに今回の件で、月王国を助けるためではないのですか?」

 苛立つカイとは反対に、預言者は余裕の微笑みを返した。

「私は、あくまでも預言者だ。預言者には、預言者の役割がある。その役割を、おまえさんはいつか知るだろう。だが、正しき者に知恵を貸すのは許されている。おまえさんたち、ツクヨミ王子とカイには、銀のリュナがあるだろう?リュナを使いなさい。リュナの力を最大限に使うのだ。まだまだ、本来の底力を発揮してはいない。おまえさんたちも、リュナもね。おまえさんたちは何のために、月を離れたんだね?そして、何のため、月に戻って来たんだね?私には全てわかっておるぞ」

 カイは複雑な面持ちで、預言者を見上げた。預言者は、何もかも知っている。その上で、ツクヨミとカイに、戦えと進言しているのだ。

 だが、カイはまだ、その真意を完全にはくみ取れないのか、茫然自失のままだった。預言者は、少し厳しい顔つきになった。

「一つ、予言しておこう。あの邪悪な魔物に立ち向かえるのは、王子とおまえさん、2人だけだ。唯一の最終兵器が、リュナを持つおまえたち2人なのだ。それなのに、おまえさんは戦う前から勝てないと思い込んでいる。だが、闇の力が、金銀の印に注ぎ込まれたらどんな結果をもたらすのか。闇の精霊による、月の乗っ取りだ。もしもそうなったら、月はおろか、地球も、いや太陽系全体が危険な状態に陥るであろう」

 カイはまだ、半信半疑な目で預言者を見上げている。

「奴は、銀の印、すなわちツクヨミのリュナも奪い、二代続けての王位を勝ち取ろうとしている。金銀、両方そろえれば、それらを次々、配下の者に交代させ、永遠に月の玉座を独占できるからだ。あいつは、私の気配を感じ取り、いったん引き下がったが、必ずすぐに、おまえたちと出会うだろう。出会い、そして戦うのは、おまえたちの宿命だ。それは同時に、あいつの宿命でもあるのだ」

 預言者は、厳しい口調になった。

「それと、もう一つ忠告しておく。あの呪術師は、半分は人間であるが、半分はそうではない。残りの半分は魔力そのものでできている。あの凄まじい魔力は、どこか他所から流れ込んでいる。だから、勢い余って殺そうなんて考えてはいけない。肉体を滅ぼしても、邪悪な魂は力と共に生き残るからだ。いや、むしろ肉体がない分、呪術の力は途方もなく膨れ上がり、厄介になる。封印するのだ、銀のリュナを使ってな」

 預言者は、何一つ許さない厳しい態度で言い放った。カイは、すっかり押し黙ってしまった。

 本当に、ツクヨミのリュナが、マルディンに対抗できるのだろうか。タツヤもまた、信じられなかった。しかも、2人の少年だけが、マルディンに立ち向かえると、預言者は断言した。月の存亡が、たった2人の少年の、小さな肩にのしかかっている。それは、あまりに無謀過ぎる話ではないのか。

 預言者はもとのように優しげな目に戻ると、二、三度まばたきし、踵を返し歩き出した。

 カイ、タツヤ、アキラの三人は、月桃園の茂みに入っていく預言者の後姿を無言で見送った。

 すると何を思い出したのか、預言者は急に足を止め、振り向いた。

「カイ、おまえさんにちょいと話がある。こちらへ」

 カイは不審な顔をしながらも、預言者のもとに、一人駆け寄った。カイが月桃の茂みの前まで来ると、預言者はカイに何かを耳打ちした。そのとたん、カイの顔つきが変わった。タツヤとアキラが遠くから見守る中、カイは納得しかねるといった表情のまま、預言者に一礼して、二人のところへ足早に戻ってきた。

「どうした?さらに厄介な問題でもあるのか?」

 アキラが、心配そうにカイの顔を覗き込んだ。

「いや、たいした話じゃない。励まされただけだよ。きっと僕が、あまりに頼りなげに見えたんだろう」

 カイはバツが悪そうに答えたが、2人と目を合わせようとしない。内心、動揺しているのが見て取れる。うまく取り繕えないカイに、深く立ち入ってはいけないと感じた二人は、それ以上何も触れなかった。

 3人は遅れて大広間に戻った。大勢いた招待客のほとんどが、既にいなくなっていた。

 驚くべき事態に偶然居合わせた招待客は、さぞショックだっただろう。銀王とその一族の復活を祝福しながらも、目の前で大臣が殺されるのを目撃し、王位を表す金の印を呪術師に奪われるという凄惨な場面にさらされたのだ。

 明朝、客人たちは複雑な心境で、それぞれの星へ帰って行くだろう。そして、これから、各星の新聞や週刊誌を大いに沸かせるに違いない。

 哀れな大臣の亡骸は既に運び出され、侍従たちは惨憺たる大広間の後片付けを始めていた。

 最後まで残っていたオーム大公は、タツヤたちが戻ってきたのと入れ違いに、従者を引き連れ大広間から出て行った。

 今回の一件を、超巨大な銀河連邦がどう判断するのか、誰もうかがい知ることはできない。しかし、たとえ誰が月の統治者になったとしても、小さな月王国との微妙な関係を、銀河連邦はこのまま保っていこうとするだろう。

 何故なら、そこには政治がらみの思惑が複雑に交錯しているからだ。この微妙な関係が続くかぎり、月王国は銀河連邦の強大な星々に取り囲まれていても、存続できるのだ。

 だが、それは同時に、たとえマルディンのような怪しげな者が月の統治者になったとしても、銀河連邦は、反対もせず受け入れる立場を暗に示している。正当な月王族だけを支援するとは、決して言わない。実に巧妙で、計算高い連中だ。だから月も、彼らの手練手管に惑わされず、大国のすき間を生き抜いていく知恵が求められている。

 タツヤは、自分たちが立ち入れるのは、ここまでだと認識した。タツヤ、アキラ、マナミの部外者3人は、これ以上、月王族や月王政の秘密に立ち入るべきではないと、子どもながらに理解していた。そこで3人は、とりあえず別館の地下へ戻ろうと話し合った。ところが、歩き出してすぐに、3人はカイに呼び止められた。

 カイも含めたタツヤたち4人は、今回の件で功労が認められ、特別に銀王との拝謁が許されたと伝えらえた。タツヤたち3人は、思いもよらない招待に、緊張を隠せなかった。銀王の休憩所である奥の間には、既に、家族の再会を果たしたツクヨミ、ツクヨノがいるはずだ。

 カイに引き連れられ、タツヤたち3人が通されたのは、大広間の奥にある豪華な部屋だった。その部屋は、銀の糸で刺繍された壁掛けがぐるりと一周、張り巡らされている。廊下側に控えている衛兵の前を通り、部屋に足を踏み入れると、見慣れない初老の男が、まず目についた。

 その男は、黒いマントをはおり、独特の雰囲気を漂わせている。目もとは優しげだが、思慮深そうな顔立ちで、強いものを内に秘めている。その男は、寝台に横たわっている銀王の前にひざまずいていた。銀王とその男の間には、ツクヨミやツクヨノが同じように跪いている。

 タツヤたち4人も、椎間公爵の後ろでそっと跪いた。

 銀王は、先ほどより一層、衰弱しているように見えた。車椅子に座っているのも厳しく、用意された仮寝台に横たわっていた。マルディンに短刀で傷つけられた右手には、包帯が痛々しく巻かれている。

「金の印を奪われてしまうとは、なんという失態だ」

 銀王は寝台に伏したまま高熱にうなされるように、呻いた。一同は返す言葉もなく、跪いたまま、黙って銀王を見つめるばかりだった。

「ああ、一刻も早く、金の印を取り返さなければ。あんな化け物に、月を乗っ取らせるわけにはいかない」

 銀王の息づかいは、大きく荒かった。こうしてしゃべっているのも、相当苦しそうだ。

「ツクヨミ、私の最後の願いだ。あいつを倒して金の印を取り戻すのだ。あれを取り戻せるのは、おまえしかいない」

 銀王は、そばにいるツクヨミの手を取った。ツクヨミは銀王の手を力強く握り返したが、その顔は暗かった。

「陛下のおっしゃるとおり、あんな奴に、月を明け渡すわけにはいきません。私だって絶対に金の印を取り戻すと約束したい。だけど、いったいどうすれば、強力な術使いのあいつを倒せるのか、まるで見当がつかないのです。陛下、私はどうすればいいのでしょう」

 銀王の手は、掴んでいたツクヨミの手を離すと、寝台の脇にだらりと垂れた。

「わからない。いまや私は体力も気力も衰え、昔のようにはいかないのだ。おまえを手助けしたいが、これではどうにもならん。神殿副神官長イラ殿よ、あの魔物に対抗する方法はないのか」

 イラと呼ばれた初老の男は、立ち上がると、長いマントを翻して銀王に近づき、再びひざまずいた。一瞬ためらったが、意を決したように口を開いた。

「陛下。このイラは神殿に勤めてから30年になりますが、宴席の客人たちも含め、約500人の人間をいっぺんに動けなくさせる呪術は、初めてです。私が駆けつけた時には、呪術師は姿を消しておりましたが、もし対決したとしても、打ち勝てたかどうかは怪しいところです。良くて、相打ちだったかもしれません。所要で出かけている神官長の力をもってしても、同じでしょう。認めたくはないのですが、本人の言うとおり、あいつの力は、月の精霊の力を超えているのかもしれません」

 銀王は眉間に皺を寄せ、目を閉じた。生気のない、やせ衰えた顔には、絶望と苦悶の色が浮かんでいる。

「では、あいつに月を明け渡せと言うのか?泣き言を聞くために、お前をここに呼んだのではないぞ」

 すると、イラと呼ばれた男は、背筋を伸ばすようにして顔を上げた。

「いいえ。いくら強敵とはいえ、相手は肉体のある人間。今すぐには思い浮かびませんが、必ずどこかに弱点があるでしょう。弱点を見つけ、命がけであいつから月を守ります。少々、私に時間をください。神殿内で至急対策を話し合い、宮殿と調整します。とりあえず、王族の方々を守るため、一級魔術師の資格を持つ神官を3名、巫女を3名、宮殿に配置済みです」

 結局、マルディンを打ち負かせる人物も武器も、今はない。有望な解決策は、何もないのだ。ただ、一級魔術師や巫女を宮殿に配置して、気休め程度に防衛を強化するだけだ。希望を見出せないこの状況に、銀王は瞼を閉じたまま、首を横に振るばかりだった。

 そこへカイが一歩前に進み出た。

「陛下、ツクヨミ殿に仕える青銀の騎士カイです。ぜひ、お伝えしたいことがあります。申し上げてもよろしいでしょうか」

 銀王は、薄っすらと目を開けた。カイの姿を認めた銀王は、一瞬おびえるように顔をこわばらせたが、ややあって、口もとに笑みを浮かべた。

「ああ、そなたはツクヨミと共に健闘した青銀の騎士だな。見覚えがある。まだ若いのに、たいした活躍だ。礼を言うぞ」

「お褒めの言葉、光栄です。でも、共に戦ったのは、私だけではありません。椎間公爵殿を中心とした、大勢の人々。そして、ここにいる地球人のタツヤたちも陛下と共に戦っております」

 カイはそう言って、タツヤたち3人を軽く銀王に紹介し、経緯を簡単に説明した。タツヤたちは、椎間公爵に促され、銀王のそばまで近づくと、それぞれ顔を見せた。

「地球人?そなたたちも、みな、まだ若いではないか。それなのに、月王国のために危険を承知でツクヨミを助け、力を尽くしてくれたのだな。礼を言うぞ。だが、これ以上の無理は禁物だ。相手は、人間の姿をした化け物だからな」

 銀王は、そう言うと、心配そうに眉をひそめた。

 その場にいた、タツヤたち3人以外の全員が、内心えらく驚愕していた。冷酷無比とも言われた銀王が、地球の少年たちに、身を案じる言葉をかけているではないか。これは、いまだかつてなかったことだ。これまで銀王は、月の住民にさえもほとんど関心を示さず、むしろ冷淡にあしらっていた。

 かつての銀王なら、子どもだろうが、他星人だろうが、一切情を挟まず、敵と戦う駒として遠慮なく使い捨てにしただろう。実際、太陽系内では、無慈悲な王として有名だ。原因は不明だが、銀王は明らかに変化している。3人以外は、誰もがそれを肌で感じ取っていた。

 一方、そんな事情を知らない3人は、銀王の心づくしとして、緊張しながらも素直に言葉を受け取った。3人が、過去の銀王について知ったのは、ずい分後になってからだった。

 カイは、口もとをぐっと引き締めると、銀王の目を見ながら語り始めた。

「陛下。実は、先ほど月桃園で預言者殿にお会いしました。そして預言者から、今回の件に関する助言をいただいたので、陛下にご報告申し上げます」

 銀王の痩せこけ突き出た頬に、少しだけ赤みが差して、細い目が再び開いた。後ろで控えている人々からは、小さな歓声が漏れ聞こえ、公爵やイラたちが前方へと詰め寄ってきた。

 入れ替わるようにして、タツヤたちは、その分後方へと下がった。入口の衛兵たちは、顔を輝かせながらも、分をわきまえているのか、部屋の外へと出て行った。

 カイは、預言者と交わした会話の内容を、銀王と、同席している一同に説明した。もちろん、銀王の命がとっくの昔に尽きているという部分は、曖昧に伏せておいた。

 話を聞き終えた銀王は、いく分活気を取り戻し、目にも力が甦ってきた。それを見たツクヨミとツクヨノの兄弟は、ほっと胸をなでおろした。特にツクヨノは、父王がこのまま死んでしまうのではないかと、哀れなほど動揺していたので、僅かな体調の好転にも、子どものように喜んだ。

「そうか」話を聞いたツクヨミは、自分の胸もとにそっと手をそえた。「やはりあいつに対抗できるのは、このリュナしかないのだな。そして、私とカイ、君だ」

 ツクヨミは、拳をぐっと握った。目つきは鋭く、獲物を狙う獰猛な鷹のようだ。自分の戦わざるを得ない運命を自覚し、早くもその運命を受け入れ、覚悟しようとしていた。

 だが、同時に大きな不安を感じているのが、嫌でもタツヤに伝わってくる。単なる楽器でしかないリュナを武器にして、どうやってマルディンと戦うのだろうか。未だに、誰もが信じ切れていないのだ。預言者の話を伝えたカイでさえ、同じように疑いの色を隠せない。

 先ほど、嫌と言うほど見せつけられたマルディンの呪術に、本当に対抗できるのか、誰もが疑心暗鬼になっていた。

 そこへイラが、今度は確信に満ちた口調でツクヨミに言った。

「ツクヨミ殿、預言者は今まで一度たりとて、間違いはありませんでした。今回の目覚めは、おそらくこれを伝えたかったのでしょう。それに預言者が青銀の騎士を通じて、あなたにメッセージを送ったのは、あなたと青銀の騎士の2人がマルディンに立ち向かえる証でもあります。信じるのです、預言者を、リュナを、そして青銀の騎士を」

 イラは、そのままカイの方を見やった。カイは、黙ったままツクヨミにうなずいた。ツクヨミは何か言おうとしたが、そのまま言葉をぐっと飲み込むと、燃えるような目をしてしっかりとうなずいた。

 銀王が、突如、目をかっと見開いた。

「イラの言うとおりだ。ツクヨミ、我が息子よ。私に魔力はないが、おまえの未来が手に取るようにわかるぞ。おまえは、大人のように戦い、あいつに必ず勝利する。そしておまえは、同じ思いを持つ者たちと共に、いつしかこの月をよりよき星に変えるだろう。私にはできなかったことが、おまえなら可能だ」

 銀王は、しわがれ声ではっきりと告げた。言い終わったとたん、突然咳き込み、長い発作がおさまるまで一同は静かに待っていた。

 そろそろ銀王を休ませるべきではと公爵が言いかけた時、何かを持った警備兵が、遠慮がちに部屋の入口へとやって来た。手に掴んでいるのは、黒く醜いコウモリだ。その場にいる全員が顔をしかめた。翼を背中で合わされ、押さえつけられたコウモリは、キーキー騒ぎ暴れながらも、丸められた厚紙を決して足から離そうとしない。それで仕方なく、コウモリごと、ここへ連れて来たようだ。

「恐れながら、ツクヨミ様宛に、至急の手紙が届いております。どういたしましょうか」

 警備兵は、こんなものを王子に渡すべきか悩んでいたが、ツクヨミは、嫌な予感を感じながらも、受け取りを承諾した。

「待て。呪術や毒物が仕込まれているかもしれない。確認してからだ」

 公爵が強い口調で衛兵に叫んだ。すぐ横では、イラが大きくうなずき、早速コウモリの足が掴んでいる手紙を念入りに調べた。問題がないと判断されると、イラは、手紙を抜き取り、ツクヨミに手渡した。

「マルディンからだ」

 ツクヨミは、危うく手紙を落としそうになった。全員の視線が、その薄汚れた厚手の紙に注がれた。

「ツクヨミよ、読み上げてくれないか」銀王がか細い声をあげた。

 ツクヨミは、恐る恐る手紙を広げた。手が小刻みに震えている。

『ツクヨミに告げる。時が満ちた。銀の印を持って、椎間公爵のクレーター屋敷まで来るのだ。明朝、上弦の刻まで待とう。なお、椎間公爵の娘も一緒である旨、つけ加えておく。マルディン』

 読み上げたツクヨミの顔から、さっと血の気が引いた。椎間公爵も同様だった。マルディンはなんと、杏姫を人質にとっているのだ。

 ツクヨミは手紙をぎゅっと握りしめると、全身が大きく震え出した。美しく白い顔が怒りでたちまち真っ赤に染まり、凄まじい形相に変わった。

「許せない。幼い子どもを人質にとるなんて、絶対に許せない。海賊にも劣る、卑劣な行為だ」

 ツクヨノは初めてみる、兄の激しい怒りに怯えている。

 カイも顔色を変え、とっさに椎間公爵に視線を移した。牢屋に入れられ、拷問を受けても平気だった椎間公爵は、魂が抜けてしまったように、呆然としていた。もはや、銀王の前にいることすら忘れ、うつろな目で部屋の中をふらふらと歩き出した。

 小さな部屋にいる誰もが、衝撃を受け、動揺していた。

 しかしその中で、寝台に横たわっている銀王だけが、ただ一人落ち着いていた。冷静な目で、銀飾りで被われた天井をじっと見つめていた。もしや息をしていないのではと疑うほど、銀王は目を見開いたまま、微塵も動かない。

 ツクヨミが、続けて何かを言おうとしたところ、銀王の口が先に開いた。

「どんなに闇の精霊が力を持とうとも、銀の精霊には及ばない。何故なら、歴史がそれを証明しているからだ。闇の精霊が銀の精霊を打ち負かせるならば、今頃この月はおろか、銀河連邦はとっくの昔に滅びているだろう。何故、月が古いままで、強豪惑星のまっただ中に存在し続けられるのか?太陽系の曖昧さを全て、月が引き受けたからだ。銀の精霊の下、太陽系の負の遺産を月が全て吸収し、曖昧さの中に放り込んでいる。それゆえ、善だろうが悪だろうが、月以外の星々は、自らの立場をはっきり表明できるのだ。つまり、他の星々の発展は、銀の精霊に、この月に負っている」

 銀王は、深い、あまりに深い深呼吸をした。それから、ツクヨミとカイに視線を向けて言った。

「戦うのだ、ツクヨミ、そして青銀の騎士よ。そなたたちには、銀の精霊がついている」


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