第12章 銀王生誕祭
奥まった牢屋には、見るも無残な有様の男が一人、たたずんでいた。暗がりの中から、ツクヨミの名を呼んだのは、間違いなくその男だ。
髪と髭は伸び放題で、絡まった髪の中から、両目だけが大きくかっと見開いている。その不気味に力強い目だけが、生きている証だった。その目がなければ、まるで大きなボロ布のようだ。
男は頑丈な鉄格子の中で、手かせ足かせをはめられ、更に身動きが取れない状態でいた。何故、この男だけがここまで厳重に拘束されているのだろう。タツヤは不思議に思った。
よほど重要な人物なのか、恨みを買っているのか。それとも単に、扱い切れないほど暴力的なのか、理由は不明だ。だが、敵がこの男を特別視しているのは明らかだ。
やつれているせいで老けて見えるが、年は三十代後半くらいだろうか。服はボロボロ、体中が傷だらけで、顔にも大きな痣がいくつか見て取れた。
ツクヨミは、一瞬戸惑いを見せた。あまりに酷い状態なので、男が誰なのか、わからなかったのだろう。
「…椎間公爵?」
それから、思わず声を上げ、ツクヨミは男のところに駆け寄った。
その男はツクヨミの姿を見ただけで、涙を流さんばかりの顔になった。が、はっと我にかえると、注意深く周囲を見渡し、騒がないよう唇にそっと指をあてた。そのささいな動作にも、慎重さが見て取れる。腕に繋がれた鎖が、少しだけ鈍い金属音を響かせた。
ツクヨミは、ショックを隠しきれず、呻くようにつぶやいた。
「まさか、あなたがこんな酷い扱いを受けているとは。すまない、公爵。私のために…」
椎間公爵のすさまじい有様に、ツクヨミは言葉が続かなかった。部外者のタツヤでさえ、その凄惨な姿には少なからず衝撃を受けた。この公爵という人物が、気丈な性格じゃなかったら、おそらく正気ではいられなかっただろう。
たとえ囚人でも、王侯貴族の身分ゆえ、それなりの待遇がなされているものと、ツクヨミたちは勝手に思い込んでいたらしい。それも、無理からぬ判断だ。二人がどんなに優秀でも、子どもは子どもだ。人生経験は乏しく、しかも、宮殿と言う特殊な世界での経験でしかない。敵は、あらゆる手段も辞さない冷酷無慈悲な連中だ。宇宙での漂流経験を積んだ今とは異なり、その頃の、いわば温室育ちのツクヨミたちには、考えも及ばなかったに違いない。
しかし、現実は、生ぬるい予想を遥かに超えていた。タツヤは、ツクヨミの瞳の中に、衝撃と共に、大臣たちに対する強い憎しみを垣間見た。
「王子、やっとお会いできましたね。お元気そうで何よりです。私は大丈夫ですよ。こんな投獄はしょっちゅうです。出たり入ったりの繰り返しですよ。革命家には、つきものですからね」公爵はまるで何でもなかったかのように、軽やかに言ってのけた。「ただ、目をつけられた私は、投獄のたびに、縛りがきつくなり、今回は、とうとう、手かせ足かせもつけられてしまいましたがね」
椎間公爵は、腕を上げてみせた。鎖の音が、また冷たく鳴り渡った。
カイは、タツヤと示し合わせ、大きなリュックの中から電子のこぎりと消音ジェルを取り出した。二人は、消音ジェルを巧みに使いながら、静かに素早く、牢屋の堅固な鉄格子を切断し始めた。作業は順調だ。すぐに鉄格子は切断され、人が通れる穴が開いた。
ツクヨミを先頭に、三人は牢獄の中に入って行った。タツヤとカイはすぐに、椎間公爵の手首をがっしりと掴んだ、分厚い手かせを切断し始めた。
公爵は、カイたちに作業を任せるため、腕を挙げたまま、他人事のように言った。
「今回の摘発は、やけに大がかりでした。私の関係者が、根こそぎ捕まりましたからね。しかも、ほとんどが解放されず、ここに不当に拘留されたままのようです。謀反の証拠もないのに、この有様ですよ。でも今回捕まって、一つだけ収穫がありました。大臣の背後で手を引いている奴の正体を、ようやく突き止めました」
椎間公爵はその名を口にするのも、おぞましいとばかり、目を細めた。ツクヨミは、異常なほど緊張した。
「マルディンという名の呪術師です」
ツクヨミはその名を知らないとばかり、軽く頭を振っただけだったが、カイは反対に、すぐさま顔色が変わり、作業の手がぴたりと止まった。
「マルディンだって?本当に、マルディンなのか?だって、あれは伝説じゃないのか?」
カイは、思わず声を張り上げた。公爵がすかさず指を口にあて、静かにするよう促した。カイの狼狽ぶりを目の当たりにしたツクヨミは、何かを思い出したのか、はっとして身をすくめた。
「まさか、以前、王立魔術研究所が調査した、噂の呪術師か?人の心を簡単に操り、何でも自分の思い通りにできる、化け物のような…」
ツクヨミは呆然としながら、カイの方を見た。カイは驚いたままの表情でうなずく。
「一級魔術師が殺された事件に絡んで、神官たちが調査したけれど、結局、マルディンという呪術師はどこにも見つからなかった。だから、架空の人物にすぎないという結論に落ち着いたはずだ。そもそも誰も、マルディンを見たり会ったりしていないんだから、話にならないよ」
しかし、椎間公爵は確信に満ちた顔で断言した。
「いいえ、マルディンは、確かに実在するのです。何より、私がこの目で見ていますから。しかも、ただ見ただけじゃないですよ。あいつの呪いを受けたのです。あなたの計画を知っていると勘違いし、私にしゃべらせようとしたのです。あいつの呪術は、あなどれません。噂どおり、人や物を自由に操り、人の心の中や未来すら見通す力を持っているようです。それゆえ、月の魔術師たちも皆、報復を恐れ、口をつぐんでいるのでしょう。いや、もしかしたら本人たちも知らないうちに、既に呪術をかけられているのかもしれません。例えば、自分と出会った者には、忘却の魔術をかけて記憶を消すとか、使えそうだと思った人物には、服従の呪文をかけて操るとか…」
それを聞いたツクヨミは、ほんの一瞬だが、発作が起きたのかと思うくらい、激しく身震いした。
「もしそれが本当だったら、銀王や弟は、まさか…」ツクヨミは、とっさに自分の口もとを押さえた。
「誠におぞましい話ですが、王族の方々は、おそらくマルディンの呪術で、既に支配されているでしょう。奴に対抗できる、同等の力を持った魔術師は、残念ながら月にはいないのです。王宮に関わった一級魔術師たちは、次々と謎の死を遂げ、残った魔術師たちも他へ逃げてしまいました。月神殿の神官たちも、宮殿への出入りを大臣によって禁止されています。そのため、銀王に呪術がかけられているかどうかの判定すら、できない始末です。マルディンが関わっているのなら、私の推測ですが、おそらく銀王は服従の呪術にかけられ、弟王子は毒物と呪術により、昏睡から目が覚めないのだと思います」
それを聞いたツクヨミは、頭を抱えて身悶えした。本来なら、絶叫したいところだが、声を出せない状況なので、身をよじるしかなかったのだろう。
「父上、ツクヨノ。ああ、二人は長い間、身の毛もよだつ状態にされているのか。絶対に許せない。悪を暴き、それ相応の報いを受けさせてやる」
ツクヨミは自分の足を拳で叩いて、爆発寸前の感情を落ち着かせた。それから、燃えるような目をあげて言った。
「しかし、それだけの力があるのなら、私の心中も見通し、今後の計画さえ、既にばれている可能性もある。だとしたら、今後はより危険だ。私が今ここにいるのも、わかっているのかもしれない」
そこにいた全員がぞっとして、鳥肌が立った。
誰もが、目には見えない、得体のしれない力を、心底恐ろしいと感じた瞬間だ。これでは、敵の正体がマルディンだとわかっても、恐怖は少しも減らない。むしろ、誰一人としてマルディンを把握できていない以上、恐怖は増すばかりだ。
タツヤは、海賊白頭以上に、マルディンを手強い相手だと感じた。しかも、今までの人生では全く無関係だった魔術や呪術が、ここ月では当たり前のように使われ、飛び交い、他人の人生や生命を弄んでいる。
こんな最悪の状況で、マルディンに打ち勝って、月を取り戻せるのだろうか。どう見ても、ツクヨミたちは力不足で劣勢だ。
それなのに、独り公爵だけが、ものともせず、淡々としゃべっている。実際マルディンに呪いをかけられ、相当危険な目に遭ったはずなのに、まるで、自分だけは呪術や魔術が効かないかのように、平然としていた。
「いいえ。あいつは、王子の計画を知りませんよ。知らないから、私を尋問して聞き出そうとしたのです。居場所についても、アンドロメダ方面で何らかの事実をつかむまでは、王子は行方不明のままでした。呪術師としては凄腕ですが、決して完璧ではないのです。しかし、今までは、王子がここ月から遠く離れていたので、感知できなかっただけかもしれません。今後は、より一層の警戒が必要です」
ツクヨミは、少しだけ安どの色を浮かべた。全てが筒抜けになっているわけではなさそうだ。公爵は、姿勢を崩さず、話を続けた。
「それにしても、あの時、ようやく合点がいきました。王子が我々に計画を一切話さなかった理由をです。もし計画を知っていたら、私はあいつの呪術で、何もかも話したでしょうから。そうなれば、計画を逆手に取り、私を呪術による操り人形として、王子たちの元へ送り込んだかもしれません」
公爵は、自分を納得させるように、元気よくうなずいた。周囲の不安な空気にも、全く動じていない様子だ。手かせが外れ、公爵の両手は自由になった。
ツクヨミは、深刻にうなずいた。
「おっしゃるとおりです。あの時は、黒幕の正体を知らなくても、宮殿に見えない敵が入り込んでいるのを想定し、行動するしかなかったのです」
「その点で、殿下はマルディンに勝っていますよ」公爵は、満足げにうなずいた。「ところで王子、その計画は、いかほどまで?」
「いろいろと問題があったけれど、結果としては、ほぼ予定どおり。でも、これからが本番です。本当はゆっくり休んで頂きたいが、時間がない。今は、あなたの力が、いや、ここにいる皆さんの力が、どうしても必要なのです。ぜひ協力をお願いしたい」
「もちろんですとも」ツクヨミがまだ言い終わらないうちに、椎間公爵は即答した。「長期間、拘束はされていましたが、全員、すぐに動けますよ。こういう時のために、日頃から声を掛け合って、すぐ動けるように鍛えていたのですから。そう言えば、懇意の警備兵から聞いた話によると、近頃あいつは、正体を完全に隠さず、宮殿に神出鬼没しているようですよ。ですが、誰もその容貌を覚えておらず、いつのまにかそこにいる、消えているという話ばかりで、捉えどころのない幽霊のようだとも」
ツクヨミとカイの顔が、少年とは思えないほど大きく歪んだ。
「マルディンが、とうとう表に出てきたのか」カイが、茫然としてつぶやいた。
「これは近々何かが起こりそうだな。あいつが噂どおりの能力を持っているなら、私が月に戻って来たのも、勘づいているだろうし」ツクヨミは眉をひそめた。「あるいは、私を待っているのかもしれない」
「残念だけど、僕もそう思う」
カイも同じように眉をひそめた。
「とにかく、椎間公爵、早速ここを出ましょう。杏姫に、あなたを助けると約束したし」
ちょうど、足かせが外れた公爵は、立ち上がって両足を軽く踏み鳴らしていたが、その足踏みがピタリと止まった。椎間公爵はぎょっとして、目が飛び出さんばかりの形相になった。
「娘に、杏に会ったのですか?」
「ええ、先ほど会いました。姫は、すこぶる元気ですよ。あなたの言いつけどおり、クレーター屋敷をしっかり守っています。そしてあなたが無事帰って来るのを待っています」
その一言で、椎間公爵の疲労は一気に吹き飛んだ。公爵の暗かった瞳は、生命の息吹を取り戻し、自称していた『守りの革命家』の名にふさわしい、情熱の炎が再び燃え盛っている。そして、拳を力強く上に挙げてみせた。
公爵を縛りつけていた鎖は全て切断され、公爵は今や完全に自由の身となった。
椎間公爵の解放に成功すると、タツヤたちは手分けして、公爵の仲間である、月宮殿の副総務長の利木や月正規軍のジアン大佐とその部下、月総合警察署長の須藤たち一派、研究者のグループ及び椎間公爵の関係者を次々と解放した。
そして、解放した人々に手助けされながら、更に、侍従や家政婦なども解放し、総勢五十数名が自由の身となった。
人々のほとんどは、長い牢屋生活でやつれ、初めは足もともふらついていたが、すぐに、通常の状態に復活した。全員、健康に問題はなさそうだ。狭い廊下に出てきた人々は互いに肩を抱き合い、解放を静かに喜び合った。
牢獄には本物の殺人犯が3人いたが、彼らには強力な催眠スプレーで眠ってもらった。杏姫の工具箱には、必要なものが何でもそろっている。そこにいた誰もが感心すると、公爵は誇らしげに微笑んだ。
カイは、大勢の仲間たちを牢獄の出入口の方に連れ出した。出入口手前にある柱の陰には、警備兵を監視しているアキラがいた。アキラは、カイに気がつくと、問題ないと目配せで伝えた。
老警備兵はさっき見た時と変わらず、椅子に身を投げ出したまま、いびきをかいて眠り込んでいる。カイは小さくうなずくと、皆をそっと呼び寄せた。椎間公爵が、半分残った青い酒瓶を見てにやりとした。
「銀王生誕祭の月光酒は、よく効くんだよ。年に一度のめでたい酒だから、特別上等に作られているのさ。普段こんな上等酒にありつけない連中は、ここぞとばかり、飲むからね」
改めて催眠スプレーを使う必要もないが、念のため、酒瓶に残った月光酒には、睡眠薬を仕込んでおいた。
五十数名の一行は老警備兵を横目に、ぞろぞろと長い階段を登り、広々とした宮殿別館の地下フロアに上がった。ここにも警備兵はおろか、誰一人見当たらない。おそらく宮殿警備兵のほとんどが、晩餐会が催される本館の大広間に集結しているのだろう。
地下2階に広がるフロアは、博物館さながらの倉庫になっていた。非常に広いが、薄暗く、少々埃くさい。古代月王国の宝である月長石の彫刻や歴史を感じさせる重々しい剣、月神殿の模型、銀の炎を象った巨大なオブジェが、威風堂々と立ち並んでいる。展示室ではないので、布やカバーで覆われている物も多く、かなり雑然としている。出番がなく、今はひっそりと隠されているが、この薄暗いフロアは、宝の山だ。宝のごった煮状態とでも言ったらいいのだろうか。
タツヤは、この光景に何故か心を打たれた。歴史の深さ、宇宙の神秘、不可思議な月の品々が、ここには詰め込まれている。ピルラ星の博物館もそうだったが、ここの陳列物には、ピルラ星以上に興味がそそられる。こんな状況でなければ、ゆっくり鑑賞したいとさえ思ったが、今はそれどころではない。タツヤは、心の手綱をキリリと締めた。
ツクヨミたちは、この地下2階フロアを一団の拠点に決めた。まさにうってつけの場所だ。広大で薄暗く、身を隠せる死角がずい所にある。おまけに、逃げ道である、地下牢倉庫へも直通している。地下牢へ続く階段と地上へ続く階段には、既に見張りを一人ずつつけていた。
フロアの片隅では、ツクヨミとカイ、椎間公爵の3人が長い間ひそひそと話し合っていた。
部外者であるタツヤとアキラとマナミは、その間、救出された人々と互いに簡単な自己紹介を交わした。人々は、驚いた。それと同時に、疑惑さえ感じた。何故なら、月にとって重要で危険な作戦に参加しているのは、まだ年端も行かない子どもたちだったからだ。
しかし、ツクヨミたちと共に、宇宙船で数々の困難を乗り切った話をすると、疑惑が驚嘆に変わり、感心するようになっていった。そして、ツクヨミ王子に惜しみなく協力し、自分たちを救出してくれたタツヤたちに、より一層感謝の意を表し、笑顔で3人を迎えた。
ここにいる全員は、みな同志だ。月生人だろうが、地球人だろうが、ツクヨミ王子の下、同じ志を持った仲間なのだ。
人々は、タツヤたちを皆で守ると断言してくれた。まだ深くは関わっていないものの、彼らは、人間的にも優れているし、何より心がとても温かい。今までずっとひどい目に遭わされてきたのに、ツクヨミや月王族を守ろうとする熱い思いは、少しも萎えていなかった。そればかりか、より強い闘志が燃え上がっていた。
これから先は、ツクヨミと椎間公爵を中心にして、月チームの人々が活躍することになるだろう。
タツヤたち3人は、一歩後ろに下がり、足手まといにならないよう、注意深く行動する予定だ。万が一の場合についても、既に話し合いは済んでおり、ある程度の安全は配慮されている。
だがしかし、何が起こるのかは、その場になってみないとわからない。マルディンなる最強の呪術師が相手なのだ。おまけに、月宮殿には、悪徳大臣たち一味がはびこっている。それら大勢の敵を相手にしなければならない。タツヤたち3人もまた、月チームの人々と同じ覚悟に包まれ、同じように緊張した。
「さてと、ここからが勝負だな」
内輪の話し合いが終了し、すっかり元気を取り戻した椎間公爵が、早くも指を鳴らした。そこへツクヨミが皆の前にすっと進み出て、公爵と並んだ。ツクヨミもまた、公爵たちと合流できて、安心を取り戻し、大きな自信と決意が全身から漲っている。
「我々は、大臣一派とその背後に控えている敵に対し、一致団結して戦う必要があります。これから始まる宮廷晩餐会は、まさに千載一遇のチャンス。ここで全てがひっくり返り、今までの苦労が報われ、正しい月王国が復活するでしょう。逆に言えば、今ここで全てがひっくり返らなければ、月王国に明るい未来は訪れず、滅亡へと突き進むでしょう。時間が迫っているため、詳しく説明している暇はありませんが、どうか私を信じて共に戦って欲しい」
ツクヨミは、顔を上げ、全員を見渡した。全員が大きくうなずいている。
「ここで、皆さんの考えを確認させてもらいたい。この先も私と共に、戦いに参加するかどうかを、それぞれが自由に決めて欲しい。今まで散々な目に遭ってきた皆さんに、強制はしない。ただし、参加したくない者は、安全のため、動けない者と共にここで待機して連絡役をお願いしたい。いざという時は、地下牢の倉庫から脱出が可能だ。その際は、地下の見張り役が、出入口に誘導する手はずになっている。お粗末な説明で申し訳ないが、私と共に戦ってくれる者はどうか、手を挙げてくれませんか?」
ツクヨミがまだ言い終わらないうちに、全員の手が天井を突き破るがごとく、みごとにまっすぐ挙がった。ツクヨミの顔が喜びに輝き、公爵は隣で満足そうにうなずいた。ツクヨミは、全員の顔を一人一人ゆっくり見渡して言った。
「ありがとう。皆さんの真の勇気に感謝します。皆さんの思いに答えられるよう、私も全身全霊でこの月のために尽くすと約束します。さて、早速ですが、皆さんには、身支度を整えた後、ここからはそれぞれの班に分かれて、作業をしてもらいます」
「そうそう。大舞台には、それなりの衣装が必要だからな」
椎間公爵は素早く部下たちに何かを指示すると、部下たちは地下フロアの横にある扉から出て行った。間もなくすると、彼らは様々な衣装や小物を抱えて戻ってきた。どうやらこの地下フロアの近くには、宮殿で働く人々の制服を管理する部屋や、客人のための予備服が用意されている衣装保管庫があるらしい。
衣装が運び込まれるまでの間、ツクヨミが役割の分担について説明した。決意を含んだ真剣な眼ざしが、ツクヨミの顔にいくつも注がれた。
「まず、ジアン殿は、戻ってくる月正規軍の大軍団を見張って頂きたい。妙な動きをしそうなら、関門所に、最低でも地上基地に軍を留めてもらいたいのです。そして、もし可能なら、彼らに真実を説明し、我々の側につくよう説得を試みて欲しい。なるべくなら、彼らとは戦いたくないのです。責任の重い仕事ですが、軍出身のあなたなら、きっとうまくやれるでしょう」
ジアン大佐の目が輝いた。
「承知しました、殿下。では、部下たちと共に、宮殿の駐屯施設に潜り込み、そこから必要な操作を行います。従事している兵士の数は少なく、王族派も多いため、すぐに掌握できるでしょう。そこを拠点として、戻って来る大軍団を監視し、説得を試みましょう」
ツクヨミはにっこり微笑み、大きくうなずいた。凛とした姿勢を崩さないジアン大佐は、ツクヨミに一礼すると、部下と共にフロアの片隅に移動し、早速打ち合わせを始めた。
「利木殿、あなたには、王宮の総務部を掌握して頂きたい。まずは、人員配置や作業状況を確認し、必要な見取り図を手に入れて頂きたい。そして事が起きる前に、大臣の息のかかった総務長たちを眠らせ、命令系統を遮断し、敵方の宮殿職員の動きを封じて欲しいのです」
「問題なくやれるでしょう。既に、職員の誰が王族側なのか、大臣側なのか、大方の区分けはできていますので」利木と呼ばれた長身の大男は、力強く答えた。「兵士3名と、先ほど使った催眠スプレーをお借りしますよ」
利木は、3名の兵士と共に、早速、打合せを開始した。
「須藤殿には、警備状況を把握し、王宮警備班の動きを封じ込めて頂きたい。本館地下コントロール室の通信回路を遮断し、伝達を混乱させれば時間が稼げると思うのですが」
須藤は、なるほどとばかりにうなずいた。「殿下のおっしゃるとおりですね。地下施設の通信回路を遮断するのが、一番手っ取り早く、効果的でしょう。連絡網を封じれば、動けませんから。さらに、偽情報を流して、一か所に閉じ込めるのも手かな」
椎間公爵が思わず手を打った。
「それは、素晴らしいアイデアだ。それで警備兵たちも、無駄な戦いから守れる。敵は、マルディンと大臣一派だからね。王子、よろしいですね?」
「了解だ。ぜひ、実行をお願いしたい。宮殿職員も、警備兵たちも、今の時点で誰が敵で誰が味方なのか、区別がつきにくい。だから、信頼できる味方以外は、なるべく現場に居合わせないのがいいと考えていた。それから」とツクヨミは、ふいにタツヤたちの方に素早く振り向いた。「カイとタツヤは、私と一緒に晩餐会の会場へ来て、三人一組で行動を共にして欲しい。私たちの援護は、椎間公爵殿のグループに依頼済みだ。ただし、どうなるか見当もつかないので、危険を感じたら、それぞれの判断でここへ避難をすること。いつでもさっきの地下道から外部へ逃げられるように、何名か、常に待機させ、ルートを確保しておくよ。椎間公爵のグループは、打合せどおり、招待客や宮殿スタッフ、給仕の振りをして、晩さん会会場に大勢潜入し、私たちを援護して欲しい。それから」ツクヨミは、一番奥にいる二人に目を向けた。
「アキラとマナミは、椎間公爵のグループを手伝ってくれないか?彼らと共に、我々を見守る側になってくれると嬉しい」
2人は、嬉々として首を縦に振った。
ツクヨミは若干14歳ながら、てきぱきと指示を行った。全員が神妙な顔でうなずいている。大勢いる大人たちでさえ誰も、ツクヨミの計画に意義を唱える者はいない。タツヤが一ヶ月ほど前に初めて見た、繊細で気弱な芸術家アリオンは、もうそこにはいなかった。
しかしカイは、怪訝そうな顔をしてツクヨミに言った。
「タツヤを僕らと一緒に連れていくのは、少し危険では?」
ツクヨミは、初めて困った表情を見せると、カイとタツヤに向き合った。
「その件を言おうとしていたところだよ。正直、少し危険かなと、自分でも思っている。しかし、計画を遂行するには、同じくらいの背格好の少年が3名必要だ。月の舞踏団は、三人一組で構成されているからね。2人だけの舞踏団は、あり得ない。これだけでもう、会場の入口で怪しまれてしまう。だから、会場内に入って、目的のところにたどり着くまでのみ、同行をお願いしたいと思っている。タツヤ、君には、他の者たちより少々危険が伴うから、君の意見を今一度聞きたい」
タツヤは、憤然として答えた。
「ツクヨミ王子、逆に聞きたい。僕以外に、この役をやれる奴なんて、いるのかい?」
タツヤは、自信たっぷりに言ってのけた。「運動神経は、君たち2人に劣るけれど、こういう策略には、向いていると思うよ。お声がかからなければ、自分から立候補していたところだ」
ツクヨミとカイは、タツヤの揺るぎない決意に度肝を抜かれた。
「ありがとう。君の勇気には感謝するよ。だが、無理は禁物だよ。さっき言ったとおり、危険を感じたら、すぐに逃げて欲しい。どっちにしろ、君の父親には、相当謝らないといけないね」
タツヤはチラリと父の顔が脳裏に浮かび、良心が少しだけ痛んだ。が、今は世紀の一大事に集中したかった。
「アズミ指揮官にも謝罪をしないといけないな。君らの安全を確保するって約束したのに、これではね」カイが難しい表情でつぶやいた。「でも、君の身は、僕らと公爵のグループが全力で守るよ。今から詳しく説明するから」
続いて各班に分かれ、細かい打ち合わせが始まった。地下の薄暗かったフロアは、声を押さえながらも、活気に溢れていた。それと同時に、身支度を整えるため、人々は交代で地下のシャワールームへ降りて行った。兵士たちが、地下通路と地上への出口をくまなく見張っているため、人々は比較的自由に行動ができていた。
タツヤはカイと共に、これから行う計画の段取りをツクヨミから教わり、予行演習も行った。
椎間公爵のグループは、特に、熱気に包まれていた。使用人や料理人、兵士に事務員に至るまで、30人近くはいるが、互いに顔見知りであるため、話が早かった。その中で、アキラとマナミは、フロアの隅にポツンと突っ立って、皆の話をただ聞いているだけだった。
しばらくたって、別なところで打ち合わせをしていた椎間公爵がグループに戻って来ると、アキラたちに声をかけた。
「私は、招待客として会場に紛れる計画だが、このとおり背が高くて、変装しても、かなり目立ってしまう。そこで、できれば君たち二人に協力してもらい、外宇宙からやって来た一家のふりをして晩餐会に潜入したいのだが、どうだろうか」
椎間公爵の申し出に、アキラとマナミは快く承知した。
むしろ役割を与えられた二人は、喜びに目を輝かせていた。特に足を負傷していたアキラは、自分が足手まといになるのを気にしていたため、役割を与えられ元気を取り戻したようだ。
椎間公爵は、その場にいる一同をぐるりと見渡し、それから自分のひどい身なりに目を落とした。
「ここに給仕や警備の制服がそろっている。さあ、私も含め、みんなそれぞれの衣装に着替えるぞ。晩餐会に潜り込んで、仮装パーティを楽しむとしよう」
人々は静かな歓声をあげ、やる気満々で作業にかかった。まずは、地下のシャワールームで体を清潔にしてからだ。晩餐会までは、まだ時間がたっぷりあったので、少人数ずつ交代で、シャワーを浴びた。それから、軽い食事を摂り、栄養剤を飲み、必要な者は仮眠もとった。そして、用意された制服や衣装に着替えた。
暗い地下フロアは、たちまち衣裳部屋へと化した。それぞれが髭や髪を整え、修正スプレーで顔のアザや傷を隠し、消臭タイプの香水やオーデコロンをふりかけ、最後に、用意された小道具を身につけた。すると、薄汚かった囚人たちは、宮殿の給仕や警備兵、家族連れの招待客、商用で訪れた客人や宮殿職員の姿に変身した。
アキラとマナミも招待客らしい、仕立てのいい衣装を手渡された。マナミが身につけたドレスは、光沢のある赤い上品な生地に、色とりどりの小さな宝石がちりばめられており、光にあたるとキラキラ輝いて見える。公爵の乳母たちが総出で髪を結い上げ、化粧をほどこし、最後に豪華なダイヤモンドの三連ネックレスを胸もとにつけた。すると、マナミは本物の令嬢と見まがう姿に仕上がった。
アキラはまたしても、着がえるのに抵抗したが、マナミにこっぴどくしかられ、嫌々ながらも堅苦しい礼服を着込んだ。髪型を整えると、少しはましになった。
そこへカイが、ニヤニヤしながら二人に近づいた。
「アキラ、マナミ、いい感じじゃないか。似合っているよ。あくまでも、僕らとは知らない者同士のふりをしてくれよ。何か起こっても、慌てて勝手に行動しないように。僕とツクヨミが、秘密の合図で常に公爵と連携しているからね」
椎間公爵は、伸び放題だった髭と髪をさっと整え、礼服を着込むと、まるで別人のように見違えった。どこか、杏姫にも似ている。いや杏姫が公爵に似ているのだろう。もともと高貴な生まれで整った顔立ちをしているが、これほど見た目の変化が激しい人物はいない。フロアにいる全員の注目を浴びた。確かに、目立つのだ。だからこそ、アキラとマナミの存在が欠かせなかった。
公爵は最後に、つけ髭と眼鏡で変装した。これで、外宇宙の辺境の星からやって来た貴族一家が完成だ。
ツクヨミ、カイ、タツヤの3人は、銀色の縁飾りがついた、薄青い舞踏用の衣装を身にまとった。顔をベールで覆うと、表に出ているのは、眼だけになる。3人は背格好がほとんど同じなので、まるで三つ子のようだった。
作業の終盤に、宮殿本館へ出て行ったジアン大佐の部下と利木、そして警備隊担当の須藤が戻って、ツクヨミたちに作業状況を報告した。
軍の詰め所に向かったジアン大佐たちは、そこにいた兵士たちの賛同を難なく得たようだ。ジアン大佐自身は、詰め所に張り込んでいる。大本営ともうまく連絡を取り合い、宮殿側の意向と言う名目で、介入が可能になった。これで、月へ帰還中の大船団を監視し、コントロールできそうだ。
宮殿総務部は、利木が懇意の職員たちと秘密裏に会合し、合同で対応を決定した。この後すぐに、実行に移す予定だ。晩餐会の準備や運営が滞ると、大臣一味にばれる恐れがあるので、敵方の職員を少人数ずつ拘束し、徐々に無力化する予定だ。
王宮警備隊の須藤は、部下と共に、宮殿の施設へ直接乗り込んで制圧した。制圧はしたが、それをひた隠し、ばれないようにやってのけた。既に、宮殿や宮殿周囲に配置された警備兵たちについては、時期が来たら、一か所に呼び集めて監禁する計画だ。
時折、別館近くに警備兵が巡回しに来ていたが、既に須藤が警備隊を制圧していたため、須藤の部下に交代させ、異状なしと上長に報告をさせていた。また、宮殿の正面入口に不審者が出没しているという偽情報を流し、警備兵の注意を逸らせていた。
これだけの作業を全員が5時間ちょっとで終わらせた。準備が整った段階で、最終の打ち合わせを行い、あとは出陣の合図を待つばかりとなった。
「待ってください。出発の前に祈りを捧げたい」
ツクヨミの一声に、カイや椎間公爵たち月の人々は、はっとすると、すぐさま膝を折り、軽く頭を下げた。どうやら、これから月独特の儀式が始まるらしい。部外者であるタツヤ、アキラ、マナミの3人は、遠慮して、彼らから離れたところへ退いた。
ツクヨミが目を閉じると、椎間公爵たちも続いて目を閉じた。
「銀と水と火と風、四元素の精霊に請う。今こそ我ら正義の者たちに、加護を与えてくれたまえ。正義の風が吹きますように」
ツクヨミは目を閉じたまま、神妙に手を合わせ祈った。すると、突然、勢いのある風が上から吹き込んできた。風は通り過ぎることなく、全員の周りをぐるぐる廻るように吹き荒れ、あっという間に空中に消え去った。
タツヤは、自分の中に、不思議な予感と希望が満ち溢れてくるのを感じた。まるで熱い空気を体に打ち込まれたように、体全体に力がみなぎっている。ピルラ星でツクヨミがリュナを吹いた時に感じたような、生き生きとした感覚だ。
アキラやマナミも不思議な感覚に、浸っている。風が去っていくと、誰からともなく目を開けた。
「これでツクヨミ様の正しさが証明された。月の精霊たちは、変わることなくツクヨミ様を祝福している」
椎間公爵が感慨深そうに、どこか遠いところをじっと見つめた。それから、顔をキリリと上へ向け、静かに前方を見つめると、言葉に力を込めて言った。
「さあ、出発だ」
一行は、椎間公爵を先頭に、がらんとした地下1階のフロアを通り抜け、階段を上がった。外からは、賑やかな音楽と歓声や香ばしい料理のにおいが、穏やかな明るさと共に流れ込んでくる。庭園の向こうにある宮殿本館の大広間では、銀王生誕祭の最大にして最後の行事、盛大な晩餐会が今、始まろうとしているところだった。
ツクヨミ、カイ、タツヤの3人は、きらびやかな青銀色のベールを頭からすっぽりとかぶり、顔をおおい隠した。2つの瞳だけが、ベールの中から輝いている。外から見る限り、誰なのかもわからないし、男か女かさえわからない。そのいでたちは、祭りに参加する少年舞踊団そのものだ。
3人は、椎間公爵たちの後について、階段を登りきった。そこで、少しの間立ち止まり、公爵たちのグループと距離をとった。
椎間公爵は、子息と令嬢のふりをしたアキラとマナミを傍らに、そして、5、6人ほどの侍従たちを従え、颯爽と庭園を進んで行く。
2つのグループは、お互いまるで知らない者同志のように離れて、しかし離れすぎないよう適当な距離を保ちながら、中庭にある月桃園を進んで行った。
青い光が幻想的に広がる月桃園は、まさにおとぎの世界だった。巨大な月桃の葉は、青い光と夜風にたわむれ、星降る夜空の下で、客人たちを優しく迎い入れていた。広大な敷地の月桃園には、小さな東屋がいくつも設けられ、その周りには松明がぽつぽつと灯されている。東屋の中からは、早くも、客人たちの楽しそうな笑い声が響いていた。
どうやら、銀王の出席する厳かで堅苦しい儀式は、終了したようだ。解放された客人たちは、晩餐会が始まるまでの短い間、自由に、散策や談笑を楽しんでいる。
ツクヨミを先頭に、3人の少年は月桃園の中を足早に横切っていった。公爵たち一行は先に進んでいたが、マナミが月桃園の美しさに思わず足を止めたので、ツクヨミたちは不自然に見えないよう、公爵たち一行を追い抜いて行った。マナミの足が遅れがちになるので、そのたび椎間公爵は咳払いをして、マナミをやんわり追い立てていた。
5分ほどで、宮殿大広間の庭園出入口が見えてきた。大広間の扉は全て開放され、その両脇には正装した警備兵が二名立っている。しかし、今日に限っては、全くのお飾りだった。
何故なら、招待客たちは宮殿入口で、すでに厳しいチェックを受けていたため、晩餐会会場入口は形式的な警備で十分だった。ツクヨミたち三人は、他の大勢の客人同様、問題なくそこを通過した。続いて、椎間公爵たち一行が大広間に入っていった。
大広間は、着飾った大勢の客で、早くもごった返していた。ざっと見渡した限り、三百人はいるだろうか。タツヤたちにとって、初めて見る大広間はまさに別世界だった。
天井からは、壮大なシャンデリアが垂れ下がり、遥か地上の客人たちに、光と音楽と微風を提供している。シャンデリアは、軽金属のパイプがいくつも束ねられ、弓なりに連なったもので、風にたわむれる草原のごとく、時折、楽しげに揺れていた。信じ難いが、このシャンデリアはゆっくりと呼吸をしている。その吐き出す息が爽やかな風となって、眼下の饗宴に吹き降ろされていた。
シャンデリアの遥か下方では、貝殻の光沢のように輝く、三日月型や半円のテーブルがパズルのように組み合わされ、不可思議な模様を形作っていた。その間を、大勢の客たちが自由に行き来し、テーブルの料理をつまんでは、話に花を咲かせている。
テーブルには、月の裏で採れる新鮮な野菜やチーズの実を材料にしたサラダをはじめ、クレーターの地下深いところで取れる深層キノコの盛り合わせ、無重力空間で栽培された果物のデザートなどが色鮮やかに並んでいる。
こんな大事な時に情けないと思いながらも、タツヤは色とりどりの料理が並ぶテーブルのそばを通るたび、自然と目がそっちへ向いてしまう。おまけに、腹が恨めしそうに鳴っていた。
しかし、テーブルの向こう側に、とんでもないものを発見したタツヤは、ぎょっとして思わず声を漏らした。
「あれは海王星の大詩人、ネプトゥスじゃないか」
すると、カイが急に振り向き、小声でタツヤにささやいた。
「しっ。声が大きいよ。晩餐会には毎回、有名な客人が大勢招かれているんだ。ネプトゥスだって間違いなく有名だろう?だったら、ここにいて当然なのさ」
情報に疎いタツヤも、ネプトゥスについては知っていた。銀河系を代表する格式高い老詩人で、美しい青い目をしている。歌う詩集は何冊も出版され、タツヤの学校でも教科書として採用されている。おまけに、ネプトゥスは銀河評議会の委員も兼任しており、銀河連邦では重鎮の一人でもあった。
だから、タツヤのような一般人は、滅多に出会えない人物なのだ。その意味でも、有名人であるのは確かだろう。
今宵も青く輝く長いガウンをはおり、大勢の客人の中でひときわ輝いている。海のような青い目は、吸い込まれそうなほど美しい。海王星人は、ほぼ全員美しい青い目を持っているが、その中でもネプトゥスの瞳は、大粒の、とびきり上等な宝石のようだった。
カイが、顔をその隣のテーブルへ向けると、小声で言った。
「ほら、あっちのひときわ背の高い男は、シリウス星系から来た天狼人の勇者コンドラだよ。コンドラとしゃべっているのが、同じシリウス星系の歌姫エイラ。その向こう側に陣取っているのが、さっき関門所で目立っていたオーム大公とその取り巻き連中。彼らは、国賓級の客人さ。こと座のベガから来ているんだ。そして、隅っこにいる、うさんくさい連中は、昔から月と因縁深い冥王星使節の一団だ」
冥王星という言葉がカイの口から出た時、タツヤにはどこか意味ありげに聞こえた。あるいは、気のせいだったかもしれないが、どういうわけか印象に残った。
一国の王子であるツクヨミは、彼ら有名な客人とは当然顔見知りのはずだ。だが、こうしてベールで顔を隠している限り、誰一人としてツクヨミには気づかない。もっとも、ネプトゥスが、時折、ツクヨミをじっと青い目で追っている。その点は気になったが、こちらもあえて気づかない振りをした。
一方、大広間に一歩足を踏み入れた瞬間から、ツクヨミは、銀王が座るべき玉座に全ての神経を集中させていた。タツヤやカイとは違い、ツクヨミは、奥の玉座しか目に入らない様子だ。
予想どおり、玉座は既に空だった。杏姫が言っていたように、堅苦しい儀式を終えるとすぐに、銀王は奥間へ引っ込んだようだ。
空の玉座を目にしたツクヨミは、一抹の哀しみと共に、いく分ほっとしたような表情を浮かべた。それと同時に、懐かしそうにあたりをぐるりと見廻している。悪いことばかりが立て続けに起こった宮殿でも、ツクヨミにとっては、何物にも代え難い我が家なのだ。
ところが、先頭を進んでいたツクヨミが、突然足を止めた。タツヤは、自分の前にいたカイにぶつかりそうになり、思わずつんのめった。ツクヨミの顔はベールで隠れていたが、不快そうに眉を寄せている。
「何だろう。何かがいつもと違っている…」
ツクヨミは小声でそうつぶやくと、ベールのすき間から注意深くあたりを探ろうとした。だが、原因はわからない。すぐ背後にいたカイも同様に、不穏な空気を肌で感じ取ったのか、ベールの隙間から、目だけをキョロキョロさせてひどく警戒している。
3人は、大広間の真ん中で立ち止まってしまった。とたんに、談笑中の客人たちが、不思議そうな顔をして、次々、3人の方へ視線を向けてくる。大勢の大人たちの中で、3人の少年は目立つのだ。
タツヤは、カイの背中を軽く小突いた。
「ここで立ち止まっていたら、怪しまれるよ。さっさと前に進もう」
タツヤのひそやかな号令で、三人はやっと前に歩き出した。歩き出すとツクヨミはすぐに全神経をレーダーのように集中させ、ある人物を探し始めた。
その頃、椎間公爵たち3人も一呼吸遅れて、大広間に入ってきた。アキラとマナミは、初めて目にする豪華で盛大な晩餐会に、たちまち圧倒された。そんな二人をよそに、椎間公爵はツクヨミ同様、ある人物を鋭い目で探し始めた。
ツクヨミが先に、探していた人物を見つけた。後ろにいたタツヤにも、まるで電流が走るように、その感覚が伝わった。同じく、その人物に気づいたカイは、早速、斜め後方にいる椎間公爵へ手で合図を送った。
大広間の奥まったテーブルに、その人物はいた。正装用の黒いマントをはおり、小太りで、いやらしい目つきをしている人物だ。その男は、背の高い軍服の男と、なにやら深刻そうに話をしている。
およそ似つかわしくない、派手な指輪をいくつもはめ、それを見せつけるかのように、短い手を大げさに振り回しながら話をしている。宙に振り上げられた指輪が、天井からの照明を照り返している。そのため、その男は、大勢の客人たちの中にいても、埋没しなかった。顔には長年蓄積した強欲さが染みつき、しまりのない口もとは、品のなさを象徴しているかのようだ。
その姿を目にしたツクヨミは、怒りと憎しみでたちまち顔が真っ赤になり、硬く握った両方の拳が震えていた。
すさまじい怒りだ。ツクヨミの体は、ぶるぶると震え、今にも燃え上がりそうだ。顔を隠すベールがなかったら、たちまち怪しまれただろう。しかし、ツクヨミはこみ上げてくる怒りをかろうじて呑み込むと、その人物の方向へ、距離を少しずつ縮めていった。
カイは、はっと息を漏らし、たちまち全身の神経を集中させると、ツクヨミのすぐ後ろから衣装の下で銃を構え、慎重についていった。小型のレーザー銃は、ひらひらする袖の中に隠し、必要になればいつでも使えるように準備している。月の民族衣装は、銃を隠すのに便利だ。
タツヤも、打ち合わせどおり、ツクヨミたちにすぐ手を貸せるよう、少し離れた位置に後退しながら、ひそかに身構えた。
3人は目立たないように、大勢の客人たちの間をうねりながら、少しずつ奥へと進んだ。その人物に近づけば近づくほど、話し声がはっきりと聞こえてくる。
「…つまり、トフラの報告では、海賊どもの巣である、奇岩諸島にツクヨミはいなかったと、そう言いたいのだな?」その人物の、特徴のある、ダミ声がテーブルの隙間から洩れてきた。
「奇岩諸島全域を丹念に生命反応走査しましたが、既にもぬけの空だったと、トフラ殿は言っておられます」
勲章を肩につけた軍人は、丁寧に返答した。するとその人物は腕を組み、床を睨むようにして唸った。
「ふうむ。トリトン奇襲作戦は銀河連邦にばれて実行できなかったが、ツクヨミまで取り逃がすとは、大失態だな。海賊も、もう少し役に立つかと思ったが、あてにならん。だが、たかが小型宇宙船一隻が、大群の月正規軍や百戦錬磨の海賊どもをやり込めるとは、何かがおかしいぞ。あの後、太陽系に戻った地球正義軍が怪しいな。何故都合よく、あんな所にあの連中がいたのだ?案外あいつらは、ツクヨミとグルだったのかもしれん」
軍人が不快そうな顔をしたまま、うなずいた。
「閣下。その可能性は大です。確かではありませんが、誠に残念ながら、我が月正規軍は、地球正義軍にまんまと出し抜かれたと、トフラ司令官は申しておりました」
その人物の顔が、さらに醜悪なものに変わった。
「となると、『あの方』が言っていたとおり、ツクヨミはもうすぐここへやって来るだろう。なにしろ、アンドロメダ方向で、ツクヨミの吹くリュナの音色を掴んだという『あの方』の話は、本当だったのだからな。誠に恐るべき力だ。だが、ツクヨミが宮殿に入り込むと、相当厄介になる。その前に、何としてでも阻止しなければならん。『あの方』は、優れた心眼ゆえ、既にご存じに違いないが、一応伝えておこう」
その人物が醜悪な顔をあげ、誰かを、おそらくは、話していた『あの方』を小さい目で探し始めた。しかし、『あの方』を見つける前に、目前にやってきた舞踊団の少年と目が合った。
その瞬間、舞踊団の少年は大声で叫んだ。
「コーネリウス大臣、私はここにいるぞ」
ツクヨミは自分でベールをはぎ取り、大臣の目の前で怒りの顔を顕わにした。
一瞬の出来事に、コーネリウスは目の前で何が起こったのかを理解できず、しばしの間反応がなかった。が、目の前に立ちはだかる少年こそ、ツクヨミ王子だと認識すると、小さい目はみるみる血走り、歪んだ口もとはさらに醜く歪んだ。
「この人殺しめ!よくもぬけぬけと月に戻ってきたな。おまえのような奴は、次期王位の資格も、王族の資格も、月にいる資格もない。ただの犯罪者だ!おとなしく裁きを受けるがよい!」
コーネリウスの、くぐもった怒鳴り声が大広間中に轟いた。
平和な客人たちは、突然の怒鳴り声に驚き、その声の主をいっせいに注視した。コーネリウスは顔を真っ赤にして手を振り上げると、それを合図に、広い饗宴の間に散らばっていた警備兵が集まり出した。20名ほどの警備兵たちは、ツクヨミとコーネリウスの周りを広く取り囲んだ。その大きな輪の中に、タツヤたちもいる。
タツヤは緊張して身構えたが、これは想定の範囲内だった。こうなるだろうと、予め聞かされていた状況なので、慌てふためいたりはしなかった。
ところが、ふとタツヤは、自分たちを取り囲む警備兵の向こうに、黒服の男たちの姿を捉えた。あれは、東京宇宙空港で見かけた、怪しげな連中だ。彼らは、警備が厳重な空港内でさえ、内ポケットにレーザー銃を潜ませ、自由に歩き廻っていた。どうやら、ツクヨミを捕えるため、大臣が密かに送り込んだ要員のようだ。
これは、想定外だ。危険な臭いがする。
タツヤは彼らの存在に気づくと、いっそう緊張し身構えた。おそらくは、今もレーザー銃を持っているに違いない。カイも、彼らの存在に気づいている様子だ。
しかし、ツクヨミはまるで動じず、大臣から目を逸らそうとしなかった。
「私は、次期王位の証である銀の印を授かった、正統な後継者ツクヨミだ。私は銀の精霊に誓って、人殺しなんかしていない。それに、このとおり、逃げも隠れもしていないぞ」
ツクヨミは一歩もひるむことなく、まっすぐコーネリウスを見すえた。コーネリウスは怒りのあまり、肥えた体を大きく震わせた。
「そんなたわごとを誰が信じるのだ?おまえは許しがたい罪を犯し、その罰から逃れるため、月からこっそり逃亡し、長い間姿をくらましたではないか。人殺しに言い訳は無用だ。おとなしく、法の裁きを受けるがよい。私は、銀王に命を受けた大臣だ。あくまでも抵抗するのであれば、正当な王政に反逆した罪により、この場で直ちに処分する」
すると、客人の間から、ざわざわと、ささやきあう声が聞こえてきた。少年の顔は確かにツクヨミ王子だが、もし本物のツクヨミ王子なら、こんな年齢であるはずがない。だからその少年は、ツクヨミ王子にそっくりな偽者なのではないかと。
それを耳にしたコーネリウスは、明らかに慌てていた。
タツヤははじめ、何故コーネリウスが慌てたのかわからなかったが、すぐにピンときた。本物のツクヨミでなければ、殺人犯として裁けないからだ。王子と偽った侮辱罪で、せいぜい一ヶ月間牢屋に放り込まれる程度だ。
一方、たとえ本物だとしても、凶器をふりかざしているわけでもない少年を、この場で射殺するわけにもいかない。どちらにしても、目の前にいる人物が、年端もいかない少年なのは間違いない。他から来ている大勢の来賓の前で、月王国の大臣が残虐非道な行為をしでかすわけにはいかないはずだ。
とりわけ、オーム大公は、銀河連邦の最高顧問の一人でもあり、ここでコーネリウスが間違った行動をとれば、超巨大な銀河連邦に大きな波紋を投げかけるだろう。月は、銀河連邦には所属していない。だからこそ余計に、月政府の動きは注目されるのだ。
実際オーム大公は、厳しい目で成り行きを見守っている。そればかりか、兵士と思われる付き人に何か指示を出している。ツクヨミは、それも見越して大胆な行動をとっているのだろう。タツヤはそう推測した。
カイとタツヤは、ツクヨミの背後にピッタリとくっついた。タツヤの膝は早くもガクガクと震え出していた。公爵たち支援者は、警備兵の生垣の外側にいる。
ふと、横にいるカイの袖の中で、レーザー銃が光っているのにタツヤは気がついた。丸腰のツクヨミが本当に危険な状態に陥れば、カイはためらいなく銃を使い、殺人者になる構えでいる。その覚悟に、タツヤは心を打たれた。
ここまでついて来た以上、自分もしっかり向き合わなければならない。タツヤは深呼吸をすると、自分の両足に力を入れて踏ん張った。すると、膝の震えはすぐに収まった。
立場の悪くなったコーネリウスは、忌々しそうに顔をしかめていた。
「いや、おまえはツクヨミ王子の名を語った偽者だ。警備兵、すぐに逮捕せよ」
コーネリウスは仕方なく、そう宣言し、合図をした。やはり大勢の来客の前では、欲むき出しの大臣ではなく、一国の、寛容な統治者代理として振舞いたいのだろう。
ツクヨミたちを取り囲んだ警備兵たちは、少しの間混乱した。なにしろ少年の顔は、自分が仕えるべき次期王の顔だからだ。しかし今、この現場の君主は、銀王の命を受けた大臣だ。大臣から命令されれば、その命令を実行しなければならない。何とか気迷いを捨てて、警備兵たちはツクヨミに、にじり寄った。
「何をためらっている。さっさと捕えろ!たかが、そっくりな偽者だ」
コーネリウスは、イライラして声を張り上げた。
ツクヨミは、素早く青銀のベールをかぶった。それが合図だった。ほとんど同時に、タツヤとカイもベールをすっぽりかぶると、ツクヨミの方へ駆け寄り、一瞬にして、3人一塊になった。打ち合わせ通りだ。
しかもまるで舞踊でもしているかのように、次々とそれぞれの位置を入れ替わり、一団となったまま、テーブルの上へ軽快に跳び乗った。ベールで顔を隠した3人は、同じ服装で同じような背格好のため、こうなるとどれが本物のツクヨミ王子なのかわからない。
しかも、三人は、目の色さえ同じだった。カイとタツヤは、目の色を変化させるコンタクトを使用し、ツクヨミと同じ目の色に変えたのだ。
コーネリウスは、ますます怒り狂って叫んだ。
「3人とも捕まえろ!3人ともだ!」
宮殿の大広間は大騒ぎになった。3人は入れ替わり立ち替わり、ぐるぐる輪のようになって、テーブルからテーブルへと、ひらり身軽に飛び移った。全てが計画通りだ。そのたびに警備兵たちは後を追いかけ、テーブルに登ったり、下で待ち構えたりした。だが、三つ巴で動く身軽な3人にはなかなか追いつけない。
それにどういうわけか、給仕たちがこぞって警備兵の邪魔をした。表立って、歯向かうわけではないが、すました顔でこっそり足を突き出しては、警備兵を倒したり、持っていた盆を目にも留まらぬ速さで投げつけたりしている。
タツヤは、自分たちが地下牢から助け出した人々だと思っていたが、どうもそれだけではないようだ。地下フロアで出会った味方の人数を大幅に上回っている。つまり、新たな賛同者も加勢しているのだ。結局、大広間にいる給仕や職員のほとんどが、味方となって、こっそりタツヤたちを手助けしていた。
それも相まって、厳粛で上品だった会場は、たちまち大混乱になった。テーブルはいたるところでひっくり返され、美しく盛りつけられた料理は、ピカピカの食器と共に、床に飛び散った。丁寧に磨かれた乳白色の床は、あっという間に、泥沼と化した。祝宴のはずの晩餐会は、瞬く間に狂宴へと変わった。
しかし、平和な星々から来た多くの客人は、これもまた、大臣が企画した酔狂な余興の一つと思い込み、騒ぎながらもその実、楽しんでいた。
客人たちが余興と思い込んだのは、警備兵が一向に銃を使わないからだ。しかも、警備兵の数は非常に少なく、応援すら呼んでいない。だから、お飾りの警備兵が演技をしているだけだと思われていたのだろう。
一方、警備兵たちは、重要な客人たちを傷つける恐れがあったため、銃を使えないだけだった。そうとも知らず、招待客たちは、右往左往する警備兵の行動を気楽に見物していた。
ツクヨミたち3人は、相当派手な立ち振る舞いで、警備兵たちを翻弄したが、いくら広いとはいえ、大広間にも限りがある。とうとう3人は、部屋の奥の壁際に追いつめられてしまった。3人は一番奥にある、大きな三日月型のテーブルの上で立ち止まった。警備兵がチャンスとばかり、3人の足をつかもうと、次々手を伸ばしてくる。
「まずいよ、カイ。どうすりゃいいんだ?」
タツヤは、ツクヨミを庇いつつ、ますます奥に退きながら、ベール越しにささやいた。既に息は切れ、思いっきり動き廻ったせいで疲労が激しい。こんな派手な立ち廻りを長い時間続けるのは困難だ。
「大丈夫、僕らを信じてくれ。予定どおり、ツクヨミをあそこの隅にある舞台に行かせるんだ」
カイもベールの中から、ぜいぜいと息を切らせながら答えた。
ツクヨミは、片隅にある小さな舞台に向かって、勢いよく飛び移ろうとした。ところが、黒服を着た男が一人、素早い動作で、ツクヨミの足首を空中でがっしりとつかんだ。ツクヨミは声もなく、床に引きずり込まれた。
「ツクヨミ!」
慌てたカイは、思わずツクヨミの名前を大声で叫んでしまった。その失態にうろたえ、ツクヨミを助けようと手を伸ばしたところ、今度は警備兵に右手の袖をつかまれ、カイはバランスを失いかけた。
床に引きずり下ろされたツクヨミは、左足で黒服の男を蹴り上げ、何とか逃れようとしたが、駆けつけた警備兵が、次々上から覆い被さり、あっという間に床の上は、警備兵の紺色の征服で埋め尽くされた。今や、床でもがいているツクヨミの足先だけしか見えない状態だ。
多勢に無勢で、いったいどうすればいいのか。タツヤは頭が混乱し、テーブルの上で独り動揺していた。敵味方が入り混じっているのでレーザー銃も使えないし、下手をするとツクヨミにあたってしまう。かといって、このままでは3人とも捕まってしまい、計画は大失敗してしまうのが、一目瞭然だ。もう後がない。
(タツヤ…)
自分の名を呼ぶツクヨミの悲鳴が聞こえた。いや、聞こえたような気がした。タツヤは、はっと我にかえると、自分の方へ走ってくる椎間公爵たち一行に向って叫んだ。
「アキラ、早くあれを!」
アキラは、背広の中から雷電癇癪玉を取り出すと、ツクヨミの上に覆いかぶさっている警備兵の一団へ投げつけた。爆音が続けざまに鳴り響き、赤い小さな稲妻がいくつも宙に走った。仰天した警備兵は、一人また一人と、背中を押えながらその場を跳ぶようにして離れた。
だが、最後に残った黒服の男は、雷電癇癪玉にもまるで動じず、冷静に獲物を捕らえていた。見るもおぞましい光景だった。男は、小型のナイフを懐から取り出し、あお向けに押さえ込んでいるツクヨミの心臓めがけて、今まさに突き刺そうとしているではないか。黒服の男は最初から、ツクヨミを殺そうと狙っていたに違いない。
タツヤは考えもせず、とっさに、テーブルの上から勢いよく黒服の男に体当たりした。黒服の男は、斜め上から砲弾のように飛んできたタツヤに大きく跳ね飛ばされ、ナイフを手にしたまま床に転がった。そこへ、次に飛び込んできた椎間公爵が、金属製の靴底で留めの強烈な蹴りを入れた。黒服の男は、ようやく動かなくなった。
「ふん、大臣の腰巾着め」
椎間公爵はそう言い捨てると、ツクヨミに手を差し出し引き起こした。危機一髪だったツクヨミは震えながらも、何とか立ち上がった。公爵は、ツクヨミの前に立ちはだかり、早くも、次の戦いの相手に構えの姿勢をとっていた。
一方、袖をつかまれ、身動きが取れなくなったカイは、とうとう床に引きずりこまれてしまった。そのとたん、大勢の警備兵がこぞってカイのところへも寄ってきた。だが、何か様子がおかしい。見ると、アキラとマナミがその後方から次々と、警備兵を投げ飛ばしていた。タツヤは、その光景に目を丸くした。
アキラについては、前々から、武道の心得があると聞いていたが、マナミまで武術に長けているとは思ってもみなかった。マナミは、上品なドレスを着たまま、ものすごい形相で大人相手に戦っている。そんなマナミを目にしたタツヤは、驚きのあまり思わず体が固まってしまった。
「タツヤ、私に見とれている暇なんてないわよ。第二段階が始まるわ」




