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零章 ──召喚、失敗


 三十歳独身、事務職、趣味は読書と同人作成、それから休日前夜の晩酌。

 やりたいこともなく、夢は当の昔に諦めたきり。

 惰性で毎日を送っている平凡で平坦な人生。子どもの頃はあんなに何者かになれると無条件に信じていたのに、今の私はただの私以上の何者でもない。

 私。ただの、私である。

 身近な人たちにしか知られない私。

 大多数にとっては、何の価値もない通行人。

 稼ぎのほとんどは生活のために使わざるを得ない。貯金も毎月数千円出来ているかどうかのレベル。

 そりゃあ、趣味に使う分をもっと我慢すれば日々の食事が多少豪勢になったのだろうけれど、その程度のうるおいで生命の活力である趣味を我慢しようとは誰も思わないに決まっている。

 仕事だってもう少し稼ぎが良いホワイト寄りの企業に転職できれば、と考えることもあるが、高卒でろくな資格もない人間には高望みすることなどできないのだ。

 何か資格を取るのもいいかもしれないが、いまの日常を過ごすだけで体力も気力も使い果たしているものだから、勉強しようという気にもなれずにいた。

 怠惰、だったのかもしれない。

 睡眠時間を削って同人作成をやっている暇があるなら、そういった社会に役立つもののために使っていれば良かったかもしれない。いいや、私のことだからきっと、うまく使いこなせもしなかっただろう。

 なんなら、宝くじでも買ってみれば、一生遊べるくらいの金を手にすることができたのだろうか。


「成功だ……」

「召喚に成功したぞ……!」


 こんなわけのわからない確率を引くくらいだから、きっと宝くじだって一等を当てることができただろう。


 ──ほんの数秒前とはまったく違う光景が、目の前に広がっている。


 普段と何ら変わりのない一日だった。

 いつも通り仕事を終え帰宅すると、風呂に入り食事もそこそこに締め切り前日である同人誌の作成に着手する。

 睡眠時間を削りに削って深夜四時、ようやく内容のすべてを書き終えあとは表紙を何とかするだけだ、ともうひと頑張りするために、切れたエネルギーを補充しようとコンビニへと繰り出した。

 夜明け前の静かな町。エンジン音の余韻と街路樹のそよぐ音ばかりが響く孤独の気配を、私は案外気に入っている。

 蛍光灯の眩しさに顔を顰めつつ、黒の缶に緑のロゴが入ったエナジードリンク、ついでに手軽な栄養食を買い、無感情な挨拶を背に欠伸を噛みしめながら店を出て……ふと見れば、銀の毛並みをした猫がそこに鎮座していた。

 銀毛なんて珍しいな、とわずかに足を止めると、猫はこちらを一瞥しつつ立ち上がり、どこかへと向けて歩き出す。

 同人誌はまだ完成してないし、あと何時間かしたら仕事にも行かなければならない。不思議な猫を追っている時間など、本当は無いはずだ。

 けれど、私はなぜか猫の後を追って歩き出していた。

 猫が、私を呼んでいる。そんな気がしたのだ。

 悠然と歩く尻尾を追いかけコンビニから二軒隣の角を曲がり、すぐそこの路地に入る。そこをさらに奥へと歩き、行き止まりまで進んでようやくこちらを振り返った。お前も早くここまでおいで、とでも言っているようだった。

 私は引き寄せられるみたいに、猫の元までふらふらと歩いていく。こちらを見つめる猫の前で足を止めた瞬間、突然辺りが真っ白い光に包まれ眩しさに思わず目を閉じると、次いでほんの一瞬の浮遊感に襲われた。

 目を閉じていたせいで何が起こったのかもわからず、うまく地面に足を付けずに地面へと倒れ込む。……同時に顔を出す違和感。

 地面に付いた掌から伝わる感触。やけになめらかでツルツルとしている。私が猫を追って入った路地はアスファルトで、埃っぽく岩のようなざらつきがあるはずだ。

 私は恐る恐る、目を開いて……数秒前とは全く違う光景がそこに広がっているのを見た。

 ローブを被った人が十人ほど、私を囲んでいる。その人たちは口々に「聖女だ」「成功した」「伝説の」と、喜びあっているらしい。


(なんだ、これ……)


 普通では考えられないことが起こっているのは、間違いないだろう。

 まったく頭が付いていかない。


「あ、の」


 掠れた声を絞り出すと、深くローブを被った顔が一斉にこちらへ向けられた。

 私はどきりとしつつ、とにかくこの状況に理由を求める。


「これは、なんですか……いや、えっと、ここはどこ、ですか。なにが、起こってるんですか」


 たどたどしく質問を口にすると、彼、或いは彼女らは互いにひそひそと何やらを囁き合い始めた。言葉が通じないのか、と一瞬考えたがそれはない。私には彼らの言葉が理解できている……というか、どう聞いても日本語だ。

 ローブから垣間見える髪は金や銀の色が多く、加えて私がやって来た、連れてこられた? ともかくこの建物は、高い天井からつり下がったシャンデリアや白地に金の装飾が施された壁や柱、そして壁の一部を彩っているステンドグラスと、西洋を感じさせる作りになっている。

そのため、彼らの髪色と相まって外国にでも来ているかのようにすら思えるのだ。


(……なのに、喋ってるのは日本語?……本当に、なんなんだよ……)


 掌で目元を覆った。

 ……眩暈がする。

 おかしいのは私か、この世界か。

 普段通りに生きていたはずなのに、一瞬のうちにこんなわけもわからない状況に放り出されて、瞬間移動でもしたみたいに周りの景色は変わってしまっていた。

 私に見えているものは現実なのか。頭がおかしくなったのか? いつからおかしくなった、いやそもそも、これまで普通に暮らしてきたあの日常は、本当に私の現実だったのか。

 流行りの物語の中で主人公たちが物分かりよく受け入れているような出来事は、現実に起こり得ないからこそ物語なのであって、それはどうにも、混乱なくして飲み込めるものではない。

 しかし現実離れしすぎていて、頭の片隅では『ジャージで出かけなきゃ良かった』だとか関係ないことを考えてもいられるんだから、人間というのは図太くできている。


(猫を追いかけただけなのに、なんでこんな……)


 そう、そうだ。

 私はあの珍しい猫を追いかけた末、このわけのわからない状況に放り出されたのだった。

 あの猫はどうしたのだろう。

 ハッと辺りを見回すも、銀毛の猫はどこにも居ないようだった。


(こうなることを分かって私を呼んだ……なんて、まさか。ファンタジーすぎる)


 そういえば、猫を追いかけて猫の国へ行く有名なアニメ映画を未だちゃんと見たことが無いな、とまた余計なことを考える。

 そんなうちに、ローブの彼らが目の前へとやって来ていた。


「な、なに」

「スキルは、スキルはどうなっている?」

「聖女なのだから、特別な力を持っているはずだ」


 ひとり、前へと歩み出て何やら言葉を呟いている。ローブの色が他の人たちと違うのは、階級からなのだろうか。

 混乱も通り越して、どうするでもなくぼんやりとそれを眺めていれば、突然どよめきだす。

 期待をわずかでもしていなかった、と言えば嘘になるだろう。

 こんなわけのわからない状況で、現実なのかもわからなくて、ファンタジー小説みたいな出来事で。

 これまでと違うそれに、私の日常がひっくり返るのではないかと。

 これまでと違う私に、なれるのではないかと。

 ざわめきは私を突き刺す。

 耳に聞こえるのは「まさか」「そんな馬鹿な」「失敗では」「失敗だ」「失敗した」。


「これは失敗だ……聖女召喚は、失敗した……!」


 こんな非現実の状況でさえ、私は私に、落胆しなければならなかった。



話数を溜めるのに時間がかかりそうなので、プロローグのみ先に公開します。

彼女たちの物語をぜひ楽しみにしていただければ幸いです。

どうぞよろしくお願い致します。

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