第一回リプレイ 蠢動するものたち
花の都アイリーンは諜者たちにとって最も活動しやすい都市の一つである。
世界中から集まる人々で人種の坩堝だし、エルフやドワーフの姿を見ることも珍しくない。
他国からのスパイがいるかどうか調べるのは、至難の業というより不可能だ。
このあたりはバール帝国の帝都などとは大きく異なる。
彼の国では見知らぬ外国人は、パンダを背負って歩いているくらい目立つし猜疑されるものだ。
もちろん気風というものもある。
「人を以て言を排さず」
常勝将軍花木蘭の言葉であるが、ルアフィル・デ・アイリン王国の国是とは、だいたいそのようなものだ。
出自より能力。
家系より実績。
アイリンでは平民出身のものや他国からの移民が国の中枢に位置し、国政に参画することも珍しくない。
貧農の小倅だったものが壮年期には男爵位を授けられ、一州を任せられる領主になる。
そんなサクセスストーリーが実現可能な国なのだ。
実際、王国軍最高司令官の木蘭は移民の子だし、副司令官のガドミール・カイトスはバールからの亡命者だし、宰相であるビゼント侯爵は正騎士の家系から貴族に叙せられた。
野心家たちのパラダイス。
だが、もちろん成功の美談に一〇〇倍する数の失敗の哀歌が流れていることも事実だ。
「まったく。
不景気で嫌になりますわね」
不機嫌そうな顔で不機嫌な台詞を呟く少女。
ラティナ・ケヴィラルという。
冬を迎えようとしている大都市の風が、やたらと懐にしみた。
このラティナも失敗者の一人である。
より正確には彼女ではなく彼女の父親が。
アイリン王国の地方小領主であった父は、つまらない失策で領地を召し上げられた。
もちろん命まで失ったわけではない。
改易され、ようするに、ただの正騎士にもどったのだ。
収入面では大きく異なるが、名誉という点では領地があるかないかだけの差なので、さほど変わらない。
むしろ父は一州を預かるという重責から開放され、安堵していたようである。
それが彼女には不満だった。
だからこそ家を出た。
「いつか必ず返り咲いてみせますわ」
そう決意して花の都へとやってきたのだが、現実とはなかなか厳しいもので、たいして大きな仕事はしていない。
少なくとも国に認められるような仕事は。
「そのうえ、小麦の値段も上がってきましたし」
せちがらい世の中である。
このままではパンすら買えなくなってしまうかもしれない。
面白くもおかしくもない予想を立てながら通りを歩く。
と、
「あら、あの方々は……?」
奇妙な一団に目を留める。
異国風だが立派な服装と、不安げな表情。
金持ちの田舎者、というところだろうか。
だとすれば、絶好の金づるである。
こちらの親切に対して、充分以上の謝礼で応えてくれるだろう。
さっそく皮算用しているラティナの視界の中で、集団に女が近づき何かを渡して立ち去った。
落とし物を拾ってあげたように見えたが。
「だが、殿下は何も落としていない……」
ラティナとは反対方向からじっと集団を見ていた男が呟いた。
彼の名はレイベナント。
集団……ミズルアからの使節団とは深い関係がある。
一瞬の躊躇の後、彼は女の尾行を始めた。
ウィトリア王子に女が何を渡したのか気になるところだが、今は正体を探る方が先決だろう。
ここはミズルア王国ではない。
王子の身にどんな危険があるのかわからないのだ。
それを未然に防止し、影ながらウィトリアを守る密偵。
影働き。
それがレイベナントの立場である。
けっして功績を称えられることはなく、仮に殉職したとしてもそれを王子は知らないままだろう。
そもそも、彼がアイリンにきていることすらウィトリアは知らない。
雑踏に紛れ、音もなく移動する黒髪の青年。
追跡は数十分に渡って続き、唐突に終了する。
女がある建物の中に消えていったからだ。
「……大本営……」
外国人の彼でも知っている、アイリン王国軍の中枢だ。
世界最強の軍隊を指揮統率する頭脳が、ここである。
「どうしてこんなところに……」
呟くレイベナント。
不可解すぎる事態だ。
ミズルア使節団に命を下したのは王妃の優蘭。
つまり文官の側に立つ人間だということである。
軍部の人間が関与しているとは聞いていないし、そもそも関与するはずがない。
「文官の武官の権力争いと思っていましたが……」
アイリンの情勢に詳しくないミズルア人だが、世間知らずの馬鹿というわけではない。
王妃がこのような命令を出した裏の事情を忖度せずにはいられなかった。
小麦を供出させるミルヴィアネス男爵は木蘭派の領袖だ。
つまり軍人側である。
この力を削ぐことこそが最大の目的である。
そうレイベナントは読んでいる。
となれば、武官たちはミズルア使節団の行動を邪魔するはずだ。
この任務に失敗することで、文官派は力を失うのだから。
あるいは、あの接触自体が罠か。
「一度もどるしかありませんね」
踵を返す。
いずれにしても、大本営の前にずっと立っているわけにもいかない。
いくら観光客を装っていても、怪しまれてしまうから。
「去ったようだな」
窓から通りを見つめていた男が苦笑を浮かべた。
「すみません。
撒いたつもりだったんですけど」
軽く頭をさげる女。
「いや、結果としては悪くない。
現状で我々にできることはたいしてないからな。
あとは、あそこの連中が上手く立ち回ってくれることを祈るだけだ」
「木蘭大将の不在が痛いですね……」
「なに。
かわりといっては何だが、べつのものを派遣するさ」
「別の方……ですか?」
木蘭の代わりを務められるような者などいるだろうか。
小首をかしげる。
「なるべくラクをして生きたいと考えている不埒なヤツがいるのでな」
人の悪い笑顔。
「ラクをして、ですか。
それって性格面はそっくりですけど。
能力の方はどうなんですか?」
もっともな疑問だ。
「まあ、PWをつけてやるから。
なんとかなるだろ」
「いい加減ですねぇ……」
「実際、なるようにしかならんのは事実だな」
暁の女神亭と同じような酒場兼宿屋は、それこそアイリーン市内にごまんとある。
ここが異彩を放つのは、なによりも経営者が特殊だからだ。
花木蘭。
列国の将帥で最も人気のある彼女がオーナーなのである。
そして同時に客層もすごい。
稀代の大魔法使いオリフィック・フウザーや不敗の名将ガドミール・カイトスをはじめ、木蘭と親しい有名人たちが足しげく通い、ときにはアイリン王マーツやルーンのエカチェリーナ女王まで「おしのび」であらわれるという。
王宮のサロン並みの顔ぶれだ。
さぞ好奇心旺盛な客たちが押し寄せるだろう。
「と、考えるのが素人というものです」
紅茶などをすすりながら、シン・フィアドルが言った。
にこにこと笑いながら。
多少の野次馬魂など吹き飛んでしまいそうなほどの重鎮ばかりなのだ。
普通の人間なら、好奇心を燃やすより萎縮してしまう。
「じゃあシンは普通じゃないってことよねぇ」
「はっはっはっ。
いやですよぅ。
アーセットさん。
わたしほど普通な人間なんか滅多にいませんよぅ」
「はいはい」
呆れたように肩をすくめるのはアーセット・ローベイル。
バール出身の商人である。
ちなみにシンはルーン人であるから、まともに考えれば仲が良いわけはないのだが、
「まともなやつにここにいるわけないヨっ」
けらけらとベガが笑う。
まったくその通りだったのでシンもアーセットも反論しなかった。
暁の女神亭に集まる者たちというのは冒険者がほとんどだ。
仕事を求めてと、コネクション作りのため。
この二つが、ここに人が集まる理由だ。
冒険者ギルド以上の人脈が満ちあふれているから。
「問題はー
優蘭さまがー
そんな悪いことをたくらむはずはないってことですねー」
のへーっとした声を出すのはルゥ・シェルニーという少女だ。
ラティナが連れてきたミズルア使節団。
その話を聞いたルゥの反応である。
これは多くの人々がもつ感想と同じだろう。
優蘭王女の評判はけっして悪いものではなく、国民からの人気も上々だ。
実際、ミズルア使節団への支援だって約束してくれている。
条件が付けられるのは、むしろ当然のことだ。
「けど、ミルヴィアネス男爵というのは木蘭大将の懐刀だって話よ。
そんな人が悪いことをするってのは、もっと信じられないんだけど?」
レフィア・アーニスが反論する。
こちらは精神的には木蘭派だ。
というより、これも国民の多数意見であろう。
常勝将軍花木蘭。
その戦歴には敗戦もあるが、アイリン国民からは軍神のように崇められている。
不敗の名将カイトスだって人気度では遠く及ばない。
だからこそ、その人が幕僚として信頼するミルヴィアネス男爵が悪人とは思えないのだ。
「誰も悪人でないのに、きな臭さを感じる仕事ですか。
面白いですねぇ」
「シンはのんきね。
けっこう難しい依頼よ。
これ」
考え込むような素振りのアーセット。
ミルヴィアネス男爵領まで赴き、小麦を受け取って、それを王都アイリーンまで輸送し、その後は船を調達してミズルアまで運ぶ。
「それだけではありませんわ。
ミルヴィアネス卿との交渉もしなくてはいけませんし」
下顎に手を当てるマーニ・ファグルリミ。
最も難しいのが、ミルヴィアネス男爵との交渉だ。
彼が小麦を大量に貯め込んでいるとして、それを簡単に供出するはずがない。
簡単に出せるものなら貯め込むはずがないのだ。
「それ以前の問題として、これからミルヴィアネス男爵領にいって間に合うんですかぁ?」
「それは……」
ミズルア使節団の副代表、ティゼル子爵が口ごもる。
使節団の実質的なリーダーである。
冬の使者はすぐにでも訪れるだろう。
すぐに小麦を送ってギリギリのラインだ。
「今の段階で、王都で調達できるものは送ってしまうべきね」
「同時にミルヴィアネス男爵領に出発する準備を始めれば、手間が一回で済むっすねぃ」
アーセットとベガの会話。
時間を空費してはいられないのは事実なのだが、
「んで、あたいたちの報酬はどうなるっすかぁ?」
商魂たくましいのだ。
「王妃殿下は、金貨一億枚の支援をお約束してくださいました。
このうち〇.一パーセントを報酬といたします」
「〇.一っ!?」
アーセットの目が輝く。
金貨にして一〇万枚だ。
ここにいるメンバーの、アーセット、ベガ、ラティナ、シン、マーニ、ルゥ、レフィアの七人で割っても、一人あたま……。
「えへへー 天文学的な数字なのですねー」
「ルゥは計算できないだけ」
すかさずツッコむレフィア。
まあ、ざっと一万四千枚。
桁が大きすぎて計算できなくなるのも無理はない。
一〇年は遊んで暮らせる額だ。
「乗ったっ!」
ベガが勢い込んで手を挙げる。
「現金ですねぇ」
「そういうシンはどうするんですか?」
「もちろん一口かませてもらいますよぅ。
楽しそうですからねぇ。
マーニさん」
にこにこと笑っている。
まあ、魔法の研究だっていろいろと物入りなのである。
銭金に振り回されたいとは思わないが、ないよりあるに越したことはない。
「マーニさんは?」
「これもルーンの思し召しでしょうから」
そういうものだろうか。
「ただ、面子がちょっと弱いかも」
レフィアが周囲を見渡す。
ラティナと自分は前衛ができる。
シンは魔法使い。マーニはプリースト。
ルゥはシャーマン。
ベガがシーフ。
アーセットはマーチャント。
けっこうバランスが取れているが、全体的に層が薄い。
「交渉ごとは、あたいとアーセット姐が引き受けるっすけど、実戦メンバーが足りないっすねぃ」
一億金貨の商売だ。
事が荒立たないと考えるほど冒険者は甘くはない。
できたら、戦闘力のある面子があと五、六人は欲しいところだ。
「この戦力だと、一五人程度の盗賊団とどうにか五分に戦えるかってところですからねぇ。
もうちょっと……」
「だったら、俺たちも一枚噛ませてもらおうかな」
シンの言葉を遮るようにして、男たちが暁の女神亭の扉を開ける。
さっと緊張が走るメンバー。
「あー…怪しいもんじゃないない」
ぱたぱたと手をするリーダー格の男。
後ろにはサムライ風の男がふたり控えている。
片方は隻腕。
もう一方は仏頂面だ。
「アンタらに協力するようにって、さる御方に命じられたんだよ。
あ、ちなみに俺はフェイオ・アルグレスト。
後ろの二人は、リィとライゾウだ」
主に使節団に向かって簡単に説明する。
「さる御方、ですか」
「うっきーですねー」
「それは猿」
「王妃でしょうか。
ミズルアを助けるために」
「付け馬ってのも考えられるわね」
ぽそぽそと小声で会話するマーニ以下三人。
声は届いているだろうが、フェイオは笑っているだけだった。
いずれにしても拒絶するというのは難しいし、戦力的にもありがたいのは事実だ。
「おっけい。
じゃあ出発までの役割分担を決めておきましょ」
ぱん、と手を打つアーセット。
どのみち完璧な布陣など望むべくもない。
何かあるにしても、事が成就する直前だろう。
女商人は、そう思い定めたようだった。
準備は多忙を極め、メンバーのほとんどは顔を合わせる時間すらなかった。
例外はアーセットとベガとルゥ。
それに、合流したレイベナントの四人で、彼女らは足繁く市場に通い、調査とミズルアに先発させる物資の調達などをおこなっていたのである。
そんな中、パーティーは新たな仲間を迎える。
アイリーンのプリーストであるレティシア・ディアンサスとガンナーのリフィーナ・コレインストンだ。
王妃の紹介状を持参した彼女らのことを、フェイオなどは歓迎したがらない様子だったが、彼を仲間が受け入れたように、彼もまたレティシアたちを受け入れないわけにはいけない。
ただ、
「リィ。
ライゾウ。
あのふたりから目を離すなよ」
と、そっと耳打ちすのを忘れなかった。
彼らを派遣したのは王妃ではなく、彼らの任務は事を荒立てないことだから。
もちろん、他人に説明する必要などないことだ。
そして、出発の日がくる。
ラティナが使節団を連れてきたときから、一週間が経過していた。
大陸一の強兵、アイリン青の軍の編成速度すら凌ぐようなスピードだったが、これはアーセットたちの準備能力もさることながら、人数が少ないことも要因だろう。
一三人。
ミズルア使節団を入れても三〇名には達しない。
戦力として考えれば、軍の一個分隊以下の数字であり、いささか不安がなくもないが、戦闘ではなく交渉と輸送が目的なのだから、問題はないはずである。
「実際、一番苦労したのは馬車の手配だけどねっ」
とはアーセットの弁だ。
ミルヴィアネス男爵から供出させる小麦は、約一五トン。
二頭立ての馬車二〇両は必要になる。
必要になるが、馬車を仕立てるための資金は誰も持っていない。
だから初期費用はすべて借金だ。
「普通はなかなかそんな信用は買えないんだけどね。
詔勅の力ってすごいわ」
という事情である。
なにしろ発行したのはアイリン王マーツである。
これ以上ないくらい強固な約束手形だ。
「そんなわけで、空馬車一八両は昨日のうちに出発してるから。
あたしたちが乗ってくのは、この二両ね」
朝靄が立ちこめる街。
暁の女神亭の前に停車している馬車を、アーセットが指さす。
「わーい。
馬車ですよー」
御者台に座ったルゥがはしゃいでいる。
旅行気分満点だ。
「むしろ軍用に見えるのは、俺の気のせいか?」
げっそりと呟くフェイオ。
「まあ、実用一点張りで選んだっすからねぃ」
ベガが笑った。
ミルヴィアネス男爵領まで六〇〇キロ。
往復で一二〇〇キロを走らなくてはいけないのだ。
途中でトラブルなどあってはたまらない。
頑丈にこしたことはないのである。
「行程はどのようになっていますか?」
レティシアが訊ねる。
やや躊躇った後、レフィアが応えた。
「いちおー 宿場に着くごとに次の日の予定を発表するよ」
「……なかなか慎重だな」
魔銃の手入れをしながら、リフィーナが呟く。
皮肉な光が瞳に踊っていた。
「帰りはもっと慎重になりますわよ」
それを見たラティナがにやりと笑った。
さまざまな思惑をのせ、旅が始まる。
旅程は順調だった。
街道には陽光が満ちあふれ、行き交う人々の顔も明るい。
「平和ですね。
けっこうなことです」
マーニがほほえむ。
つい先日のバール戦役において、アイリンとドイルを繋ぐこの街道は戦火に巻き込まれなかった。
ジャスモード平原では数万の血が流れたが、この地は平和だった。
「それってミルヴィアネス卿の功績だっていうよ?」
レフィアの言葉。
対アイリン大同盟に備えるため、木蘭の意を受けたミルヴィアネス男爵が取った策は想像を絶するものだった。
四州を数えるミルヴィアネス男爵領をアイリン王国から独立させ、対アイリン大同盟に帰属する。
この反逆とも思える行為が、ドイル方面の安全を確保する必勝の策だった。
バール帝国とドイル王国を直接結ぶ街道を抑え、同時にドイルからアイリンへの侵攻路を塞ぐ岩の役目を果たす。
当初、独立したファルスアレン新王国の帰属を歓迎した大同盟だったが、後に、とんでもない障害物を抱え込んだことに気づいて歯ぎしりをして悔しがったものだ。
ただし、客観的に見た場合、これは非常に危険な謀略だった。
もしファルスアレン王国が本当に独立してしまった場合、アイリン王国は窮地に立たされることになる。
ドイル、ルーン、バールの三カ国を結ぶ街道を内包し、ドイル国境を扼するアスカ要塞と緑の軍西方方面軍一二万を掌握するファルスアレン。
敵として戦えば、最強を誇るアイリン王国軍だってただでは済まない。
そうならない、とは誰にも言い切れないだろう。
だが、木蘭はこの策を容認した。
そのような状態になっても逆転するだけの自信があったからか。
然らず。
木蘭はミルヴィアネスが背かないことを知っていた。
彼女だけが知っていたのだ。
鋼の紐帯。
木蘭派と呼ばれる人々の間は、絶対の信頼感で結ばれている。
それは、民を思い、平和を願い、国の発展を祈る気持ち。
「だから、ミルヴィアネス男爵って人は、悪い人じゃないと思うんだよ。
常勝将軍が信頼するような人だし」
「でも、小麦の買い付けをおこなっていることは事実ですわ」
穏やかに反論するレティシア。
このエルフの少女は、根っからの優蘭派だ。
王宮に仕えてからずっと王妃と共にあったという事情もあって、その優しさも強さも充分に理解しているのだ。
「それに、そんな隙のない善人など、いるわけがない」
と、リフィーナ。
レティシア以外には話していないが、彼女はミルヴィアネス男爵に対してかなり強い不信感を持っている。
「民を思いやる善人を装って、裏で何をしているのか知れたものではない」
「まあたしかに、ちょっとアレな噂もあるんだけどなぁ」
「ご息女のことですか?」
「まあな」
ラティナの台詞に、フェイオが軽く苦笑して頷く。
現在、ミルヴィアネス男爵の娘であるアイシアは、セムリナ公国の有力者の息子と婚約中である。
もちろんマーツ王の承認の元、だ。
「それがそもそも胡散臭い」
リフィーナに言わせればそういうことになるのだが、
「歪んだレンズには、歪んだ像しか映らないぜ」
リィ・シュトラスが笑う。
パーソナルウォーリアとして各地を転戦してきた彼は、政治がらみの正義など信用しない。
どちらの陣営も、自分たちこそが正義だと主張するからだ。
今回の件に関しては、ミズルアの要望を叶えてやることこそが正義だ、と、簡単にリィは思い定めている。
彼の国は危機に瀕している。
物資がなければ何万人か、何十万人かが餓死してしまうだろう。
「それを救えれば充分さ。
王妃の思惑も男爵の野心も関係ないね」
「簡単で良いわね。
アンタは」
肩をすくめて見せるアーセット。
ベガたちと一緒に市場を調べて回った彼女は、他の連中より少しだけ真相に近いところにいる。
あるいは、そう思っているだけかもしれないが。
事態はそう簡単なものではないのだ。
「最悪、戦争が起きるかもね」
とは口に出さぬ思いである。
アスカ要塞は大陸暦二〇〇五年に完成したばかりの銀地拠点だ。
もちろんアイリン国内で最も新しく、規模としてはバール国境のデスバレー要塞に次いで二番目の大きさである。
収容可能兵員は六万人。
最新の装備と高い城壁。
これある限りアイリンの大地は、敵兵の靴一足たりとも侵させぬ、と、緑の軍司令官は豪語したと言うが、実際にはアスカ要塞が実戦に参加したことは一度もない。
ちなみにこの要塞の偉容を称えて、ミルヴィアネス男爵は、
「壮大な虚仮威し」
と評した。
なかなかの酷評だが、可動式六〇サンチ(口径六〇センチメートル)級の魔導砲を八門そろえ、それを維持するだけの魔力炉を持ち、どの方角から攻められても常に十字砲火を浴びせられる最新式要塞は難攻不落といっても良いほどの戦闘力を有している。
「しかし、陥ちなかった城はありませんし、滅びなかった国もないんですよねぇ。
古来から」
一キロ先からでも見えるアスカ要塞を眺め、シンが言う。
シニカルな口調ではなく、むしろ事実を事実として語っている感じだった。
大陸全土を支配したイェール帝国の繁栄も永遠ではなかった。
その遺臣たちによって建国された彼の故郷も、いずれは歴史の波濤に飲み込まれるだろう。
「エーテルリアクターが実用化されて、時間と空間の認識は一転しました。
便利な道具が増え、戦いは多様化し、比例するように犠牲者も増えています。
いつかはわたしたち魔法使いも時代遅れの骨董品になってしまうかもしれませんねぇ」
ちらりとリフィーナを見る。
彼女のもつ魔銃もまた、最新の技術がもたらした産物である。
魔銃は等化器ともいわれる。
もつものすべてに同じだけのチカラを与えてくれるからだ。
生まれついての体格も、魔法を繰り出すための知識も、精霊と心を通わせる修行も、血の滲むような剣術稽古も必要ない。
構えて引き金を絞るだけで良い。
それだけで、人を殺すことができる。
「まぁ、あたいらシーフでも、魔銃を持ちたがるやつは多いけどねぃ」
しかし金銭的には折り合わないよ、と笑うベガ。
潤沢な資金をもつ軍隊などでも魔銃の使用には消極的なのだ。
個人使用となれば、いわゆる「銃貧乏」状態に簡単に陥ってしまう。
「むしろ私としましては、シンさまやベガさまがまともなことを仰ったという事実の方が、新鮮な驚きですわ」
穏やかな顔で、けっこう酷いことをマーニが言った。
「雲行きも怪しいしねー」
ルゥがけらけらと笑う。
本当に仲間なのかと問いたくなるような会話だが、たしかに晴れ渡っていた空が見る見る雲に覆われてゆく。
ぽつりぽつりと降り出す雨。
「急ぎましょう。
本降りになる前にアスカに入ってしまわないと」
御者台のレイベナントが馬に鞭をくれる。
きれいに整備された道を、足を速めた馬車が進んでいった。
窓ガラス越しに、降りしきる雨を見つめている男。
「旦那さま」
後ろから家令に声をかけられ、振り返る。
「王都からのご使者が参っております」
「きたか……」
「いかがなさいますか?」
「客間にお通ししろ。
丁重にな」
ごく簡単に命じて、二十年来の家僕を下がらせる。
質素な執務室。
上司に地味すぎると言われ、これでも多少は手を入れているのだが、大諸侯が執務をおこなう部屋とはとても思えない。
「さて……どうしますか」
指先を机の上で軽くタップさせる。
めまぐるしい思考が彼の脳細胞を駆けめぐっているときの癖だ。
王妃の思惑は読めている。
彼が冬に備えて備蓄していた物資を吐き出させ、そのポテンシャル(潜在力)を削ぐこと。
単純でもあり健全でもある発想だ。
王都を遠く離れた場所にいる実力者が、ついには中央部のコントロールを受け付けなくなって群雄割拠の時代を作り上げてしまう。
歴史上、いくらでも例のあることなのである。
アイリン王国の成立も同じだった。
彼は自分が猜疑されているのを知っていた。
知っていて愉快なことではないが。
「いずれにしても勅命には逆らえません。
が、問題はそのあとです」
優蘭の視界は、おそらく遠くまで見えていない。
せいぜいが、このアスカまでだ。
「さらに西には猛虎が牙を研いでいるというのに……」
嘆息。
降り続ける雨は、やむ気配を見せなかった。