第四話
江流の部屋は、一家の暮らす屋敷の中では離れにあった。
誰でも村の中で祝子を出した家は、その聖なることを保つために家族と寝床を分けなければならない。その手のいくつかのしきたりが、この村では昔から律儀に――あえて言うならば頑迷に守られていた。
悪霊は人が眠っているとき鼻から入り込むとかいう話がもっともよく聞かれるうちの一つで、江流は夜が来る度に何となくそれを思い出してしまう。悪霊の姿を実際に見たことはなかったけれど、働き者で有名なロセルのじい様が眠っている間に突然死に、翌朝に冷たくなっているのを妻に発見されたのは、確かに悪霊の仕業に違いなかった。事実、彼は就寝時に身に着けなければならない護符の木札を便所に忘れたままになっていたのだから。老人一人でそうなのだから、祝子はより厳密を期して眠らなければならない。そういう建前になっていた。
重苦しい雰囲気に沈んでいた今日の夕食を終え、やはり祝子の義務と定められている毎日の入浴で禊を手早く済ませると、江流は村の中ではいっとう広い敷地を持つ実家の庭を足早に歩く。家族が過ごす母屋から離れまでは廊下らしい廊下があるわけでもない。庭をとぼとぼと進んでいくだけだ。灯りが必要なほど広くも入り組んでもいないから、江流はいつも暗闇の中を一人で歩む。
離れまでの道のりには、行く人の足取りを導くかのように蔵がいくつか建ち並んでいる。その中には、江流が燎火のため干しイチジクを盗み出した場所もあった。江流の父のように、御料地の一端を皇帝陛下から預かっているという建前の供御人は、徴税の権限と同時に、御食に供するための作物を集めておくために蔵を構えていなければならないという。
また別の蔵からは絶えず血のにおいが漂い、それに男たちのかけ声が響き渡っていた。下男たちが獲ってきた獣を解体し、血抜きをしているのだろう。半端に開け放たれた扉から見えた大きな鼻は、たぶん猪のだ。江流は慌てて目を逸らす。狩猟にまつわる血の穢れもまた、祝子は避けなければならない。
一瞬ばかり息を止めて蔵の前を行き過ぎると、もう離れは目と鼻の先である。
両開きの木戸と、それに格子窓の隙間から朧気な光が漏れている。下女の一人が寝床の準備を済ませてくれているはずだ。離れにたどり着いた江流が木戸を押し開こうとした、そのときだった。
エル! ……。
突然名前を呼ばれ、驚いて後ろを振り返る。
そこにいたのは兄のエッカだった。急いで来たのか、少しだが息が上がっている。それでも片手にランタンを提げて足元を照らしながら妹を追いかけてきたのだから、彼はひどく几帳面である。ランタンの中でぼやりと揺れるろうそくの火は兄妹の顔を各々照らすものの、エッカの詳しい表情まではよく見えない。
やがて、はっきり見える口元だけが動き、兄は語る。
エイフのやつ、前はあんなにナツメヤシが好物だったのに一口も食べやしなかったな。父さんが今日のために、どれだけ金を払って手に入れたと思っているのやら。……
「うん。……そうだね」
ナツメヤシは皇帝陛下の叡慮の及ぶ地の中でも、もっとも南でよく産出されると燎火から聞いたことがある。西の端にあたるこの村では滅多に手に入る食べ物ではない。祝子として尊ばれている江流でさえ年に数度食べられれば良い方だし、村の人たちは何かの祭礼で少しずつ供されるときくらいしか縁がない。そう考えると、兄がつい愚痴をこぼしてしまうのも納得がいく。
でも、そんなことを言うためだけにエッカはこれから寝に入るだけの妹を追いかけてきたのだろうか。問い返そうとする間もなく、兄の方から口を開いた。
なあエルよ。おまえはこの村の中で麦を刈ることを免れている。読み書きや学問を学ぶこともない。結婚して子供を産むことも。それらはすべて祝子として触れてはいけない穢れだからだ。解っているな? ……。
「それは、もちろん」
現に、さっき下男たちが蔵の中で猪を解体する現場からさえ目を逸らした。
淀みない江流の返答に満足したのか、エッカは大きくうなずいて続ける。
故郷を出て遠くの地で暮らせば、誰もがエイフみたいにおかしくなってしまうことがある。だがそれは良くないことだ。この村で生まれた人間は、いずれこの村のために生きなければならないんだ。……。
江流は、今度は返事をしなかった。
兄の言葉には、この故郷という場所が意思を持って、人間の身体を借りて話しているような不気味さが宿っていた。一瞬でも瞬きをすれば、兄という存在は溶け出してこの村の大地に染み込んでしまうのではないだろうか。そんな空想に駆られる妹を現実に引き戻すかのように、兄は言う。要するに、おれが言いたいのは、だよ。エル。……
リョウカと遊ぶことにばかりうつつを抜かすな。そういうことだ。……
大事なその名前が耳に入った瞬間、江流ははっとして顔を上げた。
今度こそ兄の顔がはっきりと見える。彼は、江流より頭一つ半も背丈が大きい。話そうとするたびに、唇に併せて口ひげも忙しなく動く。それがどこか、狼の顎の動いている様子に見えて仕方がない。「燎火がどうしたの」。努めて平静を装った声で、江流は訊ねる。
簡単なことだよ。彼女の父親のことは知っているだろう。戦争でおかしくなって帰ってきた。そういう男の子といつまでも仲良くしていては、祝子としての面子に関わる。……
「ん、……うん。……――」
否とも応とも言いがたい相槌を打つのが、今の江流には精一杯だった。
どうしてそんなことを言うの。兄さんが燎火の何を知っているの。そんな風に言い返してやりたい気持ちにはなる。しかし祝子として自分自身にはめなければならない枷は、燎火への思いをこの場には無用の激情としてしまう。そうあらねばならない。祝子は、どんなときも。
心臓が早鐘を打つ。両の手がぎりりと握り締められる。すべての動作は自分の心をかろうじて抑制するための錠前である。触れてはいけない鍵はいつも江流の心の中にあり、決して錆びつくことはない。
本当なら、引き結んだ唇を今すぐナイフで切り裂いて、その切っ先で喉の奥に溜まった血まみれの言葉を取り出して、夜闇の向こうにいるエッカ兄さんに投げつけてやりたい。私は兄さんや父さんや母さんの言うことをはいはいと聞いてばかりいるだけの人間じゃない。絵ばかり描いていてお腹を空かせた友だちのために、蔵からイチジクを盗み出すことだってできるんだというのを教えてやりたい――。
「……は、兄さんの思っているような子じゃ……」
燎火も、自分も。
そこまで言って、黙り込む。
逡巡が江流の言葉を矯め、沈黙という最良の正解を導いてしまう。争いや歯向かいを誰も自分には望まない。それは祝子の務めではないのだから。ふさわしくない人物とのつきあいを、兄が快く思わないように。
溜め息とともに、エッカが手にしたランタンが揺れた。
これ以上の追及を望まないというのだろう。手打ちの機会をおそらく彼自身が探っていたらしい。
お前が知っている彼女がどんな子であれ、リョウカとのつき合いはきっと村のためにならない。いや、エル。何よりもおまえのためにもならない。祝子というのは何百年も続いている名誉あるお役目だ。祭りの日まで、身に晒される穢れは少なければ少ないほど良いんだからな。……。
見てきたように語るエッカは、それきり何も言わなかった。
妹が渋々といった様子でうなずくのを見届けると、彼もまたうなずきを帰す。家族が待つ母屋へと帰っていく彼の背を、江流が見送ることはなかった。半ば拳を叩きつけるように、離れの扉を押し開く。