第三話
なんだ、今日もお粥なの? ……。
妹が匙で椀の縁を叩く度、江流は何だかひやひやさせられた。
わがままで行儀の悪い娘――を演じるのが彼女はとても得意であり、それが自分に対する何よりの攻撃のように感じられるからだった。
エイフ、行儀が悪い。……。
やっぱりだ、と、江流は口には出さずに思う。父のカウフは大皿に盛られたナツメヤシを指先で弄びながら、いかにも威厳ある父親というようにエイフを睨む。続けざまに彼は言う。江流を見習いなさい。好き嫌いを言うことなんてないのだから。……。
木製の匙がやはり木製の椀を叩く音は、屋敷の中にある家族のための食堂にはひどく軽々しく響く。広い板間の真ん中をくり抜いて設えられた炉の明かりが、その上に架けられた粥麦の大鍋を車座になって囲む一家と、皆の間を忙しく立ち働く下女の顔を等しく照らしている。お粥だけじゃなくスープもある、と言いたげに、下女はエイフに新たな椀を差し出した。以前なら豆がたっぷり入っていたそれは、薄い味つきのお湯を飲んでいるような代物になっている。
食堂の一角で、江流は居心地悪くもぞもぞとお尻を動かすばかりだった。
半分ほどまで食べ進んだ粥は、緊張のせいか砂を噛むようにしか感じられない。妹が都から帰ってきたとき少しは嬉しかったけれど、こんな雰囲気になるのなら家族での食事なんてごめんだ。
怪訝な目を向けてくる母には「絨毯のごわごわしてるのに未だ慣れなくて」と言ってごまかした。獣の毛皮を繋ぎ合わせてつくった絨毯は、妹の帰郷に合わせて母が新調した物だった。祭りの日に合わせて帰ってくるというから、その記念もあったのだろう。
「ねえ、エイフ」。江流は妹に向かって微笑みかける。
「せっかくの家族の食事なんだから、楽しもうよ。私は好きだよ、麦粥も」
心にもないことを述べてしまった。村の人々に対して常ににこやかであるのと同じくらい、江流は家の中では模範的な姉でなければならない。それが祝子の努めだからだ。
そんな姉の真意を見透かしたのだろう、エイフは姉を睨みつけた。
姉さんがそう思うのは祝子だからでしょう? 毎年の祭りの日まで毎日が潔斎みたいなものだから、昔からいつも麦粥ばかり食べてるじゃない。都じゃ、パンに肉も野菜もチーズもたっぷりあったのに。……。
「け、けっさ……って、なに……?」
知らない言葉だったので江流は素直に訊ねたのだが、エイフはこれ見よがしに大きな溜め息を吐いて、
身に穢れが寄りつかないように行動を慎むってことだよ。……。
そう、呆れた様子で答えるのだった。
「そう……そうなんだ。エイフは物知りだね。やっぱりちゃんと学校に行っているから?」
私がどうとかじゃなくて、この村が……と言いかけて、エイフは口をつぐんだ。
兄のエッカが自分を睨んでいるのに気づいたからだった。
妹たちのぎくしゃくしたやり取りを見たエッカは、座に規律を取り戻すように大きく咳ばらいをして言った。今はどこだって増税の真っただ中だからな。……。下女から差し出された布巾で口をぬぐいながら、彼は続ける。
エイフ、川沿いの水車小屋が動いていないのをお前だって見たんじゃないのか。なぜかと言えばだが、……。
水車小屋を使うのにかかる使用料と、その税金がさらに上乗せされたからでしょう。それくらい知ってるわ。向こうの学校にいたころは新聞だって毎日読んでたもの。……。
なら結構だ。……。でも供御人として水車小屋を管理する父さんが、村の人たちの反感を買うわけにはいかない。我が家には祝子を出した家としての面子もある。……。
面子、という言葉が兄の口から出たとき、姉妹はどちらも表情をこわばらせた。それが各々の気持ちを縫い留める杭であるみたいに。構わずエッカは続ける。
粉挽きをやる家ではできた粉の量をごまかして得をするやつがいる。他の村ではそうらしいが、村の長たる者が村の連中を好き勝手に出し抜いて良いはずはない。みんなが、水車小屋への高い使用料を払えずに手挽き臼を使った粗悪な小麦粉の粥しか食べられないなら、我が家も苦しみを共にするべきだろう。違うか? ……。
エッカは子供のころから理屈っぽい。そんな兄の性格の一部は江流よりもむしろエイフの方に似通ったらしい。彼女はすぐさま唇を尖らせ、
それなら、そのうち農民は必ず水車小屋で粉挽きをせよって法律ができるかもね。……。
と、嫌味を述べる。
エッカは布巾を下女に返し、代わりに口ひげを指で撫でる。いずれ父の跡を継いで家長となる彼が、大人の男たらんとする精一杯の装いだ。すると、その仕草が息子からの窮状の訴えだと思ったのか、今度は父が咳ばらいをした。
エイフ。わざわざ村から出してもらって、都会の学校で学んだことは食事の席で贅沢を言うことだけなのか? ……。
エイフは、渋々といったように粥を口に運びながらそれを聞いている。
そんなことないよ、父さん。帝国の西方で反乱が起きてるから、その戦費調達のための増税で自分の故郷が煽りを受けてることくらい、ちゃああんと知ってる。みんなは知ってる? 父さん母さんは? 兄さんに姉さんはどう? ……。
一瞬の動作で世界の全てを見渡すようにエイフはわざとらしく頭を振った。くすんだ赤毛の束が炉の火に照らされ、食堂の壁に影を踊らせる。江流と同じ色をしたエイフの髪は、今や背中に差し掛かるほどにまで長く伸びていた。
この村では、男も女も髪の毛を首の付け根を越えるまで伸ばすということをしない。長い髪は日々の労働に障るからだ。例外は祝子である江流と、そして江流以外の人間とほとんど交わろうとしない燎火くらい。けれども妹の髪は今や江流と同じくらいにまで長く伸び、そして後ろ頭では耕されたばかりの畑の畝のように、複雑に美しく編み込まれているのだった。
それが村を出るということなのだろうか?
農民と祝子以外の生き方を見つけるということなのか?
そう考えると、確かにエイフが村の外で学んできたのは愚痴と贅沢ばかりではない。
江流がぼんやり考えていた一方、皆から何の返事もないことにいら立ったのか、エイフは一気に爆発する。
みんな村の外に何があるかなんてほとんど知らないじゃない。この村にいたんじゃ読み書きどころか鉛筆の持ち方だって教えてもらえない。初等学校に行くにしたってよその街まで出なきゃならない。その初等学校で一番の成績だって、この村に帰ってきたら自分の名前を書く機会だってないんだよ。そんな人間がわざわざ都の中等学校に入って、どんな思いをするか想像がつく? ……。
そのときだった。
エイフ! ……。
押し留められていた感情を吐き出す娘に、母がぴしゃりと打つように声を上げた。
あなたもいろいろ不満があるのは解るわ。けど毎日の生活がつらいのはみんな同じなんだからね。まず食事くらいは静かに食べなさい。……
何の信念も思想もない至極平凡な言葉でたしなめられては、さすがにエイフも言い返す道理がない。それでもやはり状況を気に入らない妹は、今度は江流へと目を向けた。
姉さんがうらやましい。祝子はずっとこの村から出なくて良いし、働かなくても良い。外の学校で田舎者の物知らずだって笑われることもない。楽しいよね、毎日? ……。
朧な灯りに照らされたエイフの目は、どこか獰猛さを感じさせる。憐れみとも優越感とも言いがたい感情を秘めたような。けれど本当のところは、この村が、家族が、窮屈だと、そう言ってしまいたかったに違いない。
エイフの影が長く伸びて食堂の端にまで達し、ナツメヤシのお代わりを持ってきた下女を頭から食ってしまっていた。それはやはり狼の姿をしているのだと思う。その牙や爪が自分に向けられる瞬間を少しでも遠ざけるために、江流はまたにこりと笑みをつくった。
「うん。私は楽しいよ。この村から出られなくて、何もできなくても」
本当に? 本当にそう思ってる? ……。
狼からの問いは妹の姿を借りていて――だというのに、声は江流そっくりだった。