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第二十四話

 離れに閉じこめられてから、誰かとまともに会話をしたのはそれが最後だ。

 今ではもう何日が経ったのか、江流自身も覚えていない。昼夜の別なき暗闇の中では、目覚めているのか眠っているのかさえ曖昧で、ぼんやりとした意識の中に自分を留め続けるしかできない。ずっとずっと、江流は今までの十四年の人生を考える。どこで間違いを正せば、あるいは正しい選択をすれば、今のような境遇に陥らずに済んだのだろう。燎火は今どこにいるのだろう。村の人たちにひどい目に遭わされてはいないだろうか。私を、嫌いになってはいないだろうか。


 結論の出ない堂々巡りの仮定の連続は、あるとき突然に終わりを告げた。

 気晴らしに部屋の中をぐるぐると歩き回っているとき、突然、がたんと扉から大きな音が聞こえたのだ。小窓の蓋を開閉する気配とは違う。それに、何人かの人間がいる気配もある。江流はその場で身構える。


 やがて音は止み――そして、ひどい軋み音とともに、部屋の扉が開かれた。


 暗闇に流れ込んでくる陽の光に、思わず強く目を閉じる。

 何てことのない昼間の明るさのはずなのに、闇のみを見慣れてしまった今の江流には恐ろしく眩しいものと感じられた。


 何度か目を(しばたた)いてから、ようやく誰かに優しく抱き留められているのに気がついた。


「誰……?」


 一瞬、燎火が迎えに来てくれたことを願ったが、自分の頬を触れる節くれだった手で、それがただの勘違いだと気づかされる。


 お久しぶりです、江流様。……。


 そこにいたのは、下女のアルシルだった。

 彼女は毎日、江流のために食事や日用品を運んでくれていた。でも、小窓を介さず話をするのは彼女の言う通り、本当に久しぶりだった。


 興奮と動揺の入り混じった浅い息のもと、江流はぼんやりとアルシルの顔を見、そして訊ねた。


「アルシル。……今はいつなの? 私は、もうこの部屋を出て良いの?」


 あなたがこの部屋に入ってから、一月(ひとつき)が経ったんです。もうお祭りは明日です。そのための準備をしなさいと、旦那様が仰られたものですから。……。


 無邪気さと慈愛に満ちた言葉に、あらゆる抵抗は無力に等しい。

 闇と光との境目を何度も見比べながら、アルシルとともに江流は歩みを進める。

 懐かしく、そして呪わしい自分自信の場所へと。


 まず許されたのは沐浴だった。


 何ごとも体面にこだわる父は儀式のための禊だと言ったが、実際には一月分の垢を落とすために風呂に入ったに過ぎない。離れに閉じこめられている間、許されていたのは湯に浸した温かい布で身体をこすることだけだったから、江流もこれは素直に嬉しいと感じた。


 沐浴と、それに食事を済ませると、今年の祭りに関する段取りが事細かに説明された。祝子は祭壇に座し、村人から捧げものとして収穫物を受け取り、神詞を述べる。大筋では例年通り。ただ、今年は他の部分で手順が増えているんです、と、アルシルが言った。本番をもう翌日に控えているわけだから、彼女以外にも祭りの実行に携わる人々が代わる代わる江流のもとを訪れ、あいさつだの説明だのおべっかだの、何やかやと好き勝手に喚き立てていく。


 けれど、そういうものはほとんどが形式だけで、大半は祭りを取り仕切る父のカウフと、それに共同経営者――そう村人たちは読んでいた――のスウウェンに向けて礼儀を尽くしに来ただけだ。


 応接間で客人を迎え、もはや父の隣で無言で微笑むしかなくなった江流にとっては、屋敷を途切れなく訪れる人波の中に、浅黒い肌の少女がいたりはしないかと目を凝らすことの方がずっと重要な仕事だった。もちろん、叶うはずのない願望だったのだが。


(燎火が――私のたった一人だけの友達が、私を嫌いになっていたら)


 すべての戒めを解かれ、出入りの自由になった離れの自室。かすかな恐れを抱きながら、江流は眠った。


 不安だらけで床に就いたというのに、翌朝はずいぶんすっきりと目が覚めてしまった。もう何年も身に染みついた祝子としての役目が、明確な仕組みとして自分の中に存在してしまっているのだろうか。しかし、動揺や悲しみを覚える暇もなく世界は回転するのである。寝ぼけることすらできないでいると、部屋までやって来たアルシルの手引きによって、祝子としての身支度が始まる。


 化粧を行う老婆が一人、衣装の着付けを担う老婆が二人、髪を飾りつける役に至っては三人の老婆が祝子に群がる。さながら樹液に集まる虫の群れだ。積み重ねた年齢によって知恵と技術をよく太らせた老人たちは、手慣れた様子でそれぞれの仕事をこなしていく。祝子がそうであるように、彼女たちの技術もまた多年に渡って受け継がれている。


 とはいうものの、一刻半に渡ってされるがままになっている江流にすれば、ひたすらに退屈な時間を過ごす羽目になるのだが。


 江流様、よくお似合いで。……。


「アルシル、それは去年も聞いたよ。一昨年も、その前の年も」


 毎年よく似合っていますよ。去年も一昨年もその前の年も。今年だって。……。


 アルシルはきっと本気で言っている。彼女はずっとそういう人だから。

 ただ、時間をかけて人形のように精緻に飾り立てられた自分の姿を見て、そこに満足感がないというのも嘘になった。


 絹を織り連ねた祭祀の正装は、長く優雅な裳裾(もすそ)が衣擦れの音を立てるだけでアルシルの頬をほころばせる。幾種類かの色糸で縫い留められた飾り襟を見ると、胸元に花束を抱えているみたいにきれいだった。磨き上げられた鉱石に鳥の羽、花々の組み合わせによって形づくられた冠が、江流の髪を賑々しく縁取ってもいる。似合っている、かわいらしい。アルシルも老婆たちも、しきりに江流をそう褒めそやした。ありがとう、ありがとう。祝子として笑む努め。公の場に出なくても、それを丹念にこなしていく。


 しかし燎火は、たぶん、そんな江流の姿を見ることもない。

 一年に一度だけ顔に白粉(おしろい)を塗り、目元と口元に紅を塗った江流の姿を見ることは。華やかに飾り立てられた自身の姿を、もっとも見て欲しい人に見てもらうことは、たぶん、今年もないのだろう。


 祭りは、その日の正午から始まった。


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