忘却の恩恵
「何を望む?」
世界中の輝く宝石を煮詰めてジャムにしたような美貌の魔女は問うた。
「全てを忘れたいです」
それに応えるのはボロボロになって笑う女。
魔女から見えたその女の心は、数多の裏切りによって傷ついていないところを探す方が難しいほど紫色をしている。
魔女は紫色の心の持ち主達のこれまでの人生を小説を読むように眺めるが好きだった。苦しんだ者はその心を削られ色を変える。歪になったその物語は何よりも興味深く、魔女はその物語を読んだ代金として魔法をかける。
「復讐でもいいんだよ?」
「もうその気力もありません。例え復讐したとしてもこれまでの無かったことには出来ないでしょう?」
魔女はふむ、と片眉を上げる。
「過去を変えることは、世界の理に反するから確かに出来ないね」
「いいんです。毎朝起こるたびに思い出して、絶望するのに疲れたんです」
女の人生をかいつまんで見てみるが、人が良すぎて搾取されて続けてきたようだ。裏切られ続けてもひとり娘を育てるために歯を食いしばって生きてきたページを読み耽りながら、「人は利己的で残酷な生き物だ。反吐が出るね」と魔女は吐き捨てた。
「随分と苦しんだようだね」
「自分なりに頑張ったつもりだったんですけど、ダメでした」
「ダメだとは思わないよ。相手のタチが悪かっただけで、子どもは立派に育て上げたじゃないか」
女はふっと微笑む。
「わたしの人生で一番良かったのは我が子に出会えたことです。わたしの宝物」
「子どものことも忘れてしまうけどいいのかい?」
自らの死を願わないのは、残す子の傷にならないように。でもせめて、もう残りの日々は心静かでいたい。大切に育てたあの子を忘れるのは自分勝手だろうか。女はそれだけが気がかりだった。
「少しずつ忘れていく、というのは出来ますか?」
「あぁ、出来るよ。少しずつ忘れていく魔法でいいんだね?」
「はい。もう生きていくことすら辛いけれど、死ぬことは望みません。せめて、せめてもう忘れさせてください。残りの時間があればあの子も整理が出来るだろうから」
「そうかい。では魔法をかけるよ」
「ありがとう、魔女さん」
魔女は紫色の心に両手を伸ばして包み込む。
ゆらりと登る陽炎はその心を温める。
歪な物語はもう変わらないけれど、これ以上貴女を苦しめはしないよ。
魔女の優しい気まぐれ。
女はゆっくりと目を閉じて微笑んだ。
◆◆◆
「おばあちゃんどう?」
「もう母さんのことも忘れちゃったみたい」
母は悲しそうに、それでも何か吹っ切れたような顔をしている。施設からの帰りのバスの中で曇天を見つめながら、誰ともわからない私達をニコニコと迎えてくれた祖母を思い出す。
「寂しいね」
「そう?おばあちゃん、穏やかな顔してたから、母さんはこれで良かったと思ってるよ」
祖父に裏切られて女手ひとつで子育てしてきた祖母は、人が良過ぎて色々と酷い目にあってきたという。寝込むことが増え、鬱と診断されてから長年内服療法をしていた。徐々に物忘れが出始めて、3年前急須をガスコンロに掛けたことをきっかけにアルツハイマー型認知症と診断されて、方々手を尽くして今の施設に入居している。
「おばあちゃんね、すごく苦労してきた人なの。でもね、優しいからいつも笑ってた。でも笑いながら、今までどんな気持ちでいたのかなって。それが忘れられるなら、それが1番いいんじゃないかなって。辛いのはもう母さんが全部引き受けることにしたら、もういいのよ」
忘れることは決して悪いことばかりではないのよ、と母さんは少し寂しそうに笑った。
そんなものなのだろうか。
まだ私にはわからない。
だけど、もう孫とわからない私にくれた飴ちゃんをポケットで握りしめながら、祖母が今幸せならいいなと祈った。
あまりにも辛すぎる事が多かった祖母。晩年は認知症で誰が誰だかわからなくなってしまったけれど、忘れることは決して悪い事ばかりではないし、ある意味幸せだったんじゃないかと孫の私は思うのです。