夏の匂いが恋しい日に・寝室で・色とりどりのガラスを・拾いました。
からだがいっさい動かない。金縛りと言う奴だろうか、小学生の子供は身に起こった異変に戦慄した。なんとか両目だけをぎょろぎょろ動かす。顔の皮膚はまるで固まったコンクリートのように意志を持って動かせない。
昨日までは、いや本日の昼寝をする前までは何の問題もなかったはずだ。小学生の特技は、頭皮を動かせることなのに。それなのに自由に顔は突っ張って、視界だけが辛うじて動く。いつの間にか寝ていた床暖房の効いたフローリングの床は、違うものに変わっていた。畳だ。おばあちゃん家で嗅いだ事がある、どこか埃っぽくも良い匂いがするあの畳。畳に寝ころんでいるのなら、これは私の家じゃあない。じゃあ夢だ。夢の中だから動けないんだ。
小学生はやっと安心した。気が付かないうちにどこかに運ばれたのかと思ったが、そんな誘拐じみた事でもないし、ユーチューブで見た本当に起きた怪奇現象でもない。畳に寝ころんだ記憶はあるけど、どうやら自分と畳は少しだけ距離があって、ちょっと高いところか見ている気がした。首が少し動いた。頭皮は動かないが、ようやく視界を変えることが出来るので、どうせなら夢の世界を楽しもうとぐるりと顔を回そうとした。だが首は勝手に動かなかった。まるで遊園地のアトラクションのように、目の前に見なければならないものに集中させられているような、何か別の意志によって顔は動いた。
「起きたの」
誰かの声がする。だが顔はそちらに一向に向かない。横向きに寝て、真っ白のシーツが敷かれたちょっとぺしゃんこの布団に寝ているようだ。そこから畳が離れて見えて、ようやく顔は天井を見た。木目が顔に見える。ユーチューブの怖い話で、木目から出てきて天井から襲いかかってくる女を思い出して肝が冷える。こんな木目は、そんなに見たことがない。だから小学生の夢なんだろうが、どうにも夢にしてはリアルだ。VRとかではなく、本当に目の前に自分じゃない誰かの意識を借りているようで、借り主はようやく声の方を見た。
布団の傍らに、長い黒髪をゆるく結んで正座をした綺麗な女の人がいる。彼女はうちわを持って、自分に向かってあおいでくれていた。たまに風がふわりと頬の産毛をかすめてくすぐったいのは、彼女の気遣いのようだ。
「まだ寝ていてくださいまし」
優しい声音なので、借り主はこの人の子供だろうかと小学生は思った。でもどこか仰々しいので、母親でもないかもしれない。だって私のお母さんはいっつも甲高い声で、早くしてだのあれしろあれをするなだの、うるさい。彼女がお母さんなら羨ましい。こんな物腰柔らかな女の人なら、きっと楽しいだろうなと思った。
自分が寝かせられている部屋は、小学生の目には広かった。部屋が昔の家の造りになっていて、ふすまや戸が開いていて風が通る。女の人がいる方には庭が見えて、窓なんて無いくらい開けていた。沖縄に旅行に行ったとき、確か三線か何かを習いに行った。そのおうちに似ている。産まれた時から扉があるおうちなので、こんなに開けっ放しじゃ虫が来ちゃうと心配した。ふと見た枕元には、蚊取り線香がある。この世界は夏のようだ。
小学生がのんびりしているのは、新学期になるまでのほんの少しの休暇なので、夏は遠い。小学生にとって、通学中に家からもらった水筒を飲み干してしまったり、プールくらいは楽しみだが、日差しの皮膚を刺すような痛みと、アスファルトからの照り返しで汗が出たそばから乾く季節はそんなに好きではない。だがこの世界の夏は、涼しい。なんだか遠い季節みたい。こんな夏なら良かったな、と小学生はうらやんだ。なんでも羨ましくなる年頃だ。
借り主は起きあがったらしく、枕元に白い袋が置いてあるのが分かった。見たことはないが、直感で薬の袋だと思った。その中にある粉末を飲もうとすると、女の人がすかさず手を貸してくれる。
「お水、持ってきますから」
粉薬なんて飲みたくないよ、と小学生は思う。体は大きくなったが、赤ちゃんの時でも今でも薬は苦手で、どんなに熱があっても粉薬はイヤだとお医者さんに言うくらいなのだ。それでも借り主は苦そうな粉薬を傾けて、舌の奥に粉末を乗せる要領で飲み込んでいく。その苦さに、顔をしかめようとした小学生はむせた。借り主もむせた。慌てて女の人が透明な急須を持ってくる。ひいばあちゃんの入院先で見たことある、と小学生は思った。水を飲みやすくするための急須みたいなものだ。それを口に運んでもらって、水がじわじわと口の中に広がる。粉薬の嫌な味も広がる。それでも水をごくごくと飲んでいると、やっと苦みが無くなったので借り主は人心地付いたようだ。女の人が心配そうに顔をのぞき込んでくる。
優しいな、と小学生は思った。そこでふと思った。女の人と、借り主の目線はほぼ同じなのだ。もしかしたら、子供じゃなくて旦那さんというやつかしら。お母さんには、旦那って言葉は良くないから夫とかパートナーって言うと、意気込むみたいに決意していたけど、旦那さんって響きは個人的には好きだ。小学生の妙なあこがれで、旦那さんに優しい奥さんって素敵だなと思う。ぜえぜえと言う旦那さんが借り主だ。
旦那さんはすまないね、とだけ奥さんに言った。いいじゃない、素敵。なんでこんな夢見るんだろ。この二人のことなんか、わたし知らないのに。このままキスとかするんじゃないかな。そう思って奥さんを見ていると、その時だった。聞いたことのない音がした。
飛行機の音かな?と小学生は思った。でもずいぶんと、近い。空港で聞いたことのある音よりも大きい。その次に、炸裂音と爆音がした。解体工事とかの音じゃない。道路工事の音じゃない。それよりももっと大きくて、熱い空気が一気にこっちに押し出されて来る。女の人がうろたえている間に、目の前の台所の梁がこちらに向かって倒れてきた。家が、崩れた。女の人がこちらに飛びついてきて、その後は急に真っ暗になってしまった。
目が覚めると、目の前には木目があった。木だ。大きい木が自分を押しつぶしている。助けて。誰か助けて!
おーいと呼ぶ男の人の声がした。もしかしたら助けてくれるかもと思ったけど、むせていて声が出ない。おなかが潰れてる。何の感覚もしないし、喉は火の粉で焼けてしまったみたいで変な音しか出なかった。どうしよう。このままじゃ、と思っているとおなかの上の木にずしっと重くなる。足だ。誰かの足だ。誰かが踏んでる。もともと苦しいおなかに、わざわざそこに乗らなくてもいいのに乗ってきた。睨もうと思っても目の前の板が取れない。その時、ぱっと目の前から板が無くなった。踏んでる人が板を取ってくれたみたいで、男の人がのぞき込んでいる。
「おー・・・・・・ああ、こりゃダメだな」
それだけ言うと、板だけはどこかに放り投げて、男の人はこちらを見ずにどっかに行ってしまった。なんでよ!と叫びたかったが、もう口から泡しか出て来ない。たぶん、おなかから下がもうダメになっているんだろう。霞んでいく借り主の視界の中で、小学生は思う。これは自分であって自分ではない。それでも、空しくて苦しくて、辛い。辛いなんて言葉はこんなにも役に立たないなんて、知らなかった。こんなの、こんなのを言葉で言えるわけがない。目は女の人を捜しているけど、近くには木とか瓦が落ちていて、それよりも辺り一面には火が付いてる。ぎくりとした。
焼け死ぬのかな。焼け死ぬのって辛いな、やけどがあんなに痛いものなのに、体中あの痛みが来るなんて。小学生の好奇心と想像力で、震えた。女の人がいない。見つけられない。でもなかなか長い間、借り主は生きている。このまま炎に焼かれてしまうのかなと思ったら、視界が真っ暗になった。もしかして、死んでしまったのだろうか。突然、手でくっと喉を絞められて呼吸が止まった。私も死んで
はっと小学生は目を覚ました。心臓がばくばくとして、汗が噴き出す。ここはいつものフローリング、床暖房の効いた部屋。傍らには家族のノルウェイジャンフォレストキャット、そしてトイプードルが無邪気に笑いかけてくれる。ここは私のおうちだ。あの人の家じゃない。良かった、これは夢だったという思いで頭がいっぱいになり、借り主の体験が急激に小学生の中で薄れて揺らいでいった。夢だからもう大丈夫だ、トイプードルが飛びついて舐めてくるのを喜びながらも手で押さえて、自分の部屋に戻ることにした。
お母さんはいない。そう言えば、パートだったっけ。じゃあ自分の部屋で休もう。床暖房で寝ると気持ちがいいけど、だから熱い夢を見るんだと納得させた。
畳の部屋はこの家にはない。寝こけていた一階のリビングから、二階の自室へと階段を上っていくと、階段には一枚の窓ガラスがある。手が届かない所にあって、掃除が大変だとお母さんがこぼしていた。でも明かり取りには必要なんだって。その窓ガラスの下を通り越した時、その窓が赤い色になっている気がした。血の色だと思った。いつもは透明なガラスなのに。私は自分の部屋に一目散に逃げ出した。
そんな体験を大人になってから思い出したんですが、もしかしたらあれは空襲で亡くなった人だったかもしれませんね。高校生になった彼女が言う。あの後、すぐにベッドに飛び込んで寝てしまったのですが、色が付いたガラスって、人に当たった物だったのかも。それを小学生の時は、直視する勇気がなかった。もしかしたら死んだ品のいい女の人が恨めしげに見ていると思ったからだ。今思えばそんなことは無かったかもしれない。
「平和の代わりに、気候を犠牲にしたのかなあ、この国は」
彼女が小学生の時に行われたプールは、今は紫外線の影響により禁止となっている。
「でも平和の方がいい。絶対に、そうです」
大人になった彼女はまっすぐに言った。
原典:一行作家