籠の鳥、あがく 3
「10年もの間、高槻守人には私の行動が把握できていなかった。でも私の方からは常に彼が見えていたのさ。勿論、君と何を話したかも全て知っている」
守人の顔をした『赤い影』は勝ち誇った口調で言う。
「彼、朝から晩まで、君の事ばかり考えていたんだよ。私に横取りされるとも知らず」
これはある意味、告白だ。
思わず顔を赤らめ、臨は俯いた。
同じ言葉を本物の彼から聞きたいと願い、改めて、自分も守人に惹かれていた事を自覚する。
「可哀そうに、何も知らず眠っている。この私の胸の奥で」
そう聞いた途端、臨は大きく目を見開き、『赤い影』を見つめた。
「それじゃ、やっぱり消えてないんだね、高槻君の心……今もちゃんと、そこにあるんだ!」
守人の胸を真っすぐ指さす。
「五十嵐さんのマンションで、あたしにごめんって言った、あの感じ……あの寂しそうな顔は本当の高槻君だった」
強く輝く臨の眼差しに、今度は守人が顔を伏せた。
「あなたが彼じゃなくても、あなたの中に彼はいる。あたしの好きな高槻守人がいる」
これも、ある意味、告白だ。
顔を伏せたまま、守人の肩が震え出す。
漸く思いが通じたのか、と臨は思う。守人本来の意識が現れるのでは、との淡い期待がこみ上げる。
でも『赤い影』の反応は違っていた。
伏せた顔を上げると同時に声を上げて笑い出す。
「演技という線は考えないの? 単に君を傷つけるな、と言う指示を受けていただけだよ、あの人から」
「あの人? 隅亮二の事ね」
「私を見守ってくれる仲間に『赤い影』の再誕をお披露目しなければならない。今夜、ネットの会員向けイベントを開く予定でね。そこには君もキャスティングされている」
「あたしは信じない。あなたの中の彼を見つけ出す」
気丈に振舞う臨を『赤い影』はせせら笑った。
「必要ならどんな惨い行為でも私はためらわないよ。あの人と仲間の為に」
「へぇ、高槻君、本当にあたしを殺せるの?」
敢えてストレートに尋ねてみた。
守人が微かな動揺を示す。
ストレート……そう、真っすぐ、真っすぐ……頬に息が当るほど顔を寄せられ、辟易してそっぽを向く彼の隙をついて、臨はテーブルの上のメスを奪った。
「あ、何を!?」
「こうしたら、どうする?」
両手で握りしめたメスの先を、自分の喉元へ向ける。
「馬鹿っ! 何のつもりだ」
血相を変え、守人はメスを奪い返そうとした。
装っていた冷静さが消え失せ、臨の知っている彼の素顔が少しだけ覗いた気がする。
「あたしもためらわないよ。望みが叶うまで」
「自殺でもする気か?」
「死ぬ気は無い。でも、そっちは困るでしょ。傷ついた女じゃイベントに使えないもん」
「好きにしろ。死ぬならご勝手に!」
と言いつつ、守人はもう一度メスを奪おうと試みた。動きに余裕の無い分、運動神経はそこそこの臨でも簡単にかわし、
「ほ~れ、ほ~れ、キズモノにしちゃうぞ」
などとおどけて挑発する。
例によって悪ノリが過ぎたらしい。
守人は舌打ちし、不貞腐れた態度で椅子へ座り直した。
「全く……アホなのか、君は?」
「い~え、イノシシです。前のめりで止まれない私の癖、知ってるよね」
言葉はおどけたままでも、臨の瞳は真剣そのものだった。
軽い口調を装う言葉のやりとりは、大学で守人と交わした会話のリズムを誇張した形で再現し、隅亮二が植え付けた人格の奥に潜む深層意識へ呼びかける試みだ。
場合によっては命を賭ける、と本気で臨は覚悟しており、それを察しているからこそ守人も下手に動けない。
「どうすれば良い? 言ってみろ。何が君の望みだ?」
これまでと同じ高圧的な口調も、心なしか不安げに聞こえる。
「まず教えて。何で、あたしなの?」
「あの人の意思に私は逆らえない。どうして君が選ばれたかは……君が、僕にとって特別だから、としか言いようが無く……」
臨は「あっ」と声を上げそうになった。
困惑の最中、守人が『僕』と自分を呼んだのだ。
本人は特に意識していない様だが、その分だけ、二つの意識の中で葛藤が生じ始めているのがわかる。
大学で来栖晶子が退行催眠を試みた時、二つの意識を統合するのが最終目標だと言っていた。
或いは、隅亮二が望む『サイコパスの感性がオリジナルの人格を呑みこむ』のとは違う形で二つの意識が歩み寄るのも可能かも知れない。
だったら、あたしの出来る事は?
臨は、まだまだ浅い心理学の知識を総動員し、守人の感性を如何に揺さぶるか思い描いて、口を開いた。
「お話、しよう」
「はぁ!?」
「ここで座って、のんびりお話しながら、ご飯を食べるの。今はそれしか望まない」
「食事が終わったら、メスを返すか?」
「お話が済んだら、返す」
「何を話せば良い?」
「そうね、例えば好きなB級映画の話とか……最近、観たので何が面白かった?」
握りしめたメスを首筋へ向けたまま語るにしては、あまりに平凡な話題で、守人は意表を突かれたらしい。口をポカンと開け、臨を見つめている。
「覚えてないかな。初めて高槻君と話した合コンの夜、マイナーな映画が好きってあたしが言ったら、今度思いっきりマイナーな奴を紹介するって、言ってくれたじゃない」
「それは……私じゃない」
「でも、その話をしたのは知ってるんでしょう? あなたの意識は何時でも高槻君の中にあったんだから」
口ごもる守人に対し、メスを離さず、臨はにっこり笑った。
「教えて、お勧めの映画」
「この先、どうなるかもわからないのに?」
「過去を悔やむな。未来に怯えるな。そんな事より今、この時に集中するのだ!」
「アルフレッド・アドラーの言葉だね」
「おっ、知ってるじゃん」
「優秀な心理学者のレクチャーを受けているから」
「じゃ、私より詳しい?」
「多分ね。外科の知識もある」
「凄~い」
臨はわざと子供っぽく言い切り、メスをさりげなくテーブルに置いて、心理的な緊張感を減らそうと朗らかに笑う。守人もつられて頬を緩めた。
よし、もう一押しだ。
「それにしても君、話がベタ過ぎないか? メスを使った脅しにしろ、さっきのかつ丼コントにしろ」
「あ~、わざとらしいかなぁ?」
「何が狙いだとしても、ね」
「仕方ないでしょ。B級のサスペンス映画とか、昔の刑事ドラマとか、ホント好きなんだから」
「B級ファンって、あの時のアレ、本音だったの? てっきり僕に調子を合わせただけかと……」
「まぁ、気にすんな。かつ丼、食うか?」
先程の口調を繰り返すと、守人はつられて笑い声を上げた。
あぁ、良いな、と臨は思う。
彼の自然な笑顔を見たのは久しぶりだ。
微妙なバランスで『私』と『僕』の間を行き来する守人の意識を探り、己の命も賭ける大博打を打っているのに不思議と楽しい。
危険な状況で異性が惹かれあう「吊り橋効果」って奴が起きているのかな?
そんな事を思い、臨は微笑む。
窓の外は暗く、相変わらず強い風が不気味な軋み音を響かせているけれど、陽だまりの中にいるような安らぎが、ほんの束の間、二人の間に漂っていた。
読んで頂き、ありがとうございます。
次回から、残された者達がパスワードの謎に挑戦します。