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君が深淵を覗く時 3



 数分後、守人はスマホを耳に当てたまま回転ベッドの端に座り込み、深くうなだれている。


 自宅で見つけたメスを大学へ持参した記憶なら残っていた。


 晶子に見せれば何かアドバイスをもらえるかもしれないと思ったのだが、それで人に切りつけていたとは!?


 あの志賀という不気味な男が相手で、晶子を負傷させ、臨にも危害を加えようとしたらしいから「正当防衛よ」と二人は言ってくれた。


 でも、問題はそっちじゃない。

 

『我々は何処から来たのか? 我々は何者か? 我々は何処へ行くのか?』


 臨が話した刑事によると有名な絵画のタイトルで、この謎めいた言葉を守人は歌う様に口ずさんだと言う。


 殺されかけた十年前、赤い殺人鬼が口にしたのとそっくり同じ言葉を語り、笑みさえ浮かべて、志賀を蹂躙したのだと言う。


 その記憶の欠落が堪らなく恐ろしかった。ついさっきまで、あんなにも機嫌よく、呑気に構えていた自分自身が信じられなかった。


 凶器のメスにせよ、今は身の周りに無い。


 退色した細長い木製の容器はポケットに入っているが、中身は空だ。大学を飛び出した時は入っていた筈だから、何処かで捨てたのかもしれない。

 

「ねぇ、高槻君……まだ、そこにいる? いるなら返事くらい、して」


 心配そうな臨の声が聞こえた。


「ゴメン、いる。もう消えたりしない」


「まだ頭はぼんやりしたまま?」


「うん、それは……」


「早く帰って来て。意識的に逃げてるなんて思われたら、立場が悪くなるだけだよ」


 言葉を濁し、守人は強く頭を振った。得体のしれない恐怖心が膨れ上がり、大学へ帰るのも気が進まない。


「あのね、信用できそうな刑事さんがいるの。富岡さんって、ちょっと変わった人だけど」


「富岡?」


 その名には聞き覚えがあった。


「他にも力になってくれる人が出来た。十年以上前の似た事件を調べている五十嵐って民間の学者さん」


 その名前には聞き覚えが無い。


「まだ直接会った事は無いの。でも、近い内に会う約束をしているから、高槻君の助けになるかも」


 臨に代わって話す晶子の声も心強かった。


「私も警察で聴取を受ける事になっています。高槻君、君が戻ってくれば一緒に行って、きちんと事情を説明できる。だから心配は要りません」


 戻ろう。


 守人は心を決め、一旦電話を切って、顔でも洗おうとバスルームのドアを開く。






 思わず「あっ!」と大声が出た。


 バスタブの隅に、女の首が載っている。


 薄く開いたままの片目が守人を凝視している。

 

 切断面の臭気がビニールカーテンの内から漏れ、むせた。


 確かめるまでも無い。昨夜の夢の中に出てきたヒッチハイカーの一人だ。

 

 まさか、僕が殺したのか? なら、もう一人は?


 意識が途切れている間に僕の別人格が殺害し、何処かへ捨ててしまったとか?


 薄く開いた女性の目は酷く充血しており、部屋の窓から差し込む陽光を受けて、ルビーに似た輝きを放った。


 同時に彼女が口に咥えている物も光る。

 

 錆びた細長い金属……メスだ。


 鋭利な刃物は骸から伸びた舌先の赤味に映え、グロテスクなオブジェの様にも見えた。


 美しい。

 

 恐ろしい光景なのに、逃げ出したい思いと惹かれる気持ちが相半ばする。

 

 顔に苦悶の色は無い。荒生岳や気仙沼で起きた事件の様に、虐待の痕跡が無いのは僅かな救いに思えた。


 開いたままの片目に魅せられ、更に顔を近づけていく。


 赤く濁った眼球がバスルーム内の光景を映し出し、そこに存在する筈の無い人影をも、捉えた。


 ゴアテックス生地のレインコートをまとい、真ん丸な仮面をつけた『赤い影』……


 仮面を取った、その下の顔は守人だ。


 本人の表情は恐怖で強張っているのに、眼球に映る別人格の虚像は実に楽し気に『主人格』へ話しかけてきた。


「やれやれ、面倒臭い奴だよ、君は。やっと己の本性を認める気になったか?」


 守人は膝から力が抜け、女の生首へかしずく様に、バスタブの前へ座り込んだ。


「君は……僕の中にいる、もう一人の僕?」


「ふふ、違うね。『私』は『僕』じゃない。君の中の一部、そんなちっぽけな存在じゃない」


 守人の『虚像』は『主人格』を突き放す言い方をした。


「あの来栖とか言う女、君がトラウマを克服する為、言わば心の鎧として私を生んだと言ったが、見当違いも甚だしい」


 らしからぬ怒りを守人は感じた。


 自分の中のもう一人が、この世の誰より憎らしい。

 

「それの何処が違うンだよ!?」


「何もかも、さ。解離性同一性障害? 確かに君の中には『私』との大きなギャップを埋める為、その中間のパーソナリティが、やや粗暴な形で生じたらしいが」


「能代さんの前に現れた『俺』と名乗る人格?」


「確かに、その部分だけはトラウマに対する精神的な防壁……同一性障害の産物と言えるかもな」


「そいつも、お前も、只の幻だ。来栖先生の治療で意識は僕へ統合され、この世から消えるんだ」


 『虚像』は声を上げて笑った。


 幻聴ではない。


 守人が『オリジナル』と『虚像』に目まぐるしく変化し、一人でしゃべり続けている。もし第三者がバスルームを覗いたら、狂人の一人芝居と見做しただろう。


 ポケットの中でスマホが鳴りだした。


 臨が掛け直してきた様だが、その振動を感じつつ、守人は取るのを躊躇う。


 今、電話に出れば『オリジナル』と『虚像』のどちらが臨や晶子と話し出すか、自分でも判らない。


「どうせなら今すぐ消えろ! 君を生み出したのは僕なんだから、言う事を聞いてくれ」


「悪いけど無理だね。私を生み出したのは君じゃない」


 守人は絶句した。


 多重人格の原因はあくまで『主人格』の精神の内側で生じる筈なのに、「心の外から来た」と『虚像』は厳かに宣言したのだ。


「私が生まれた、いや、君に入り込んだ瞬間と言うべきか? まだ小学生だった時の事を良く思い出すと良い」


 滑らかな弁舌で『虚像』は死者の目玉の奥から挑発してくる。






 高速道路の下の暗い資材置き場。


 赤いレインコートを翻す殺人鬼が、血の滴る金槌を幼い守人へ振り上げながら、獲物の顔を覗き込んだ時……


 あの時、僕はどうした?


 笑った。


 そう、笑ったんだ。


 耐えられる恐怖の限界を超え、真っ赤な仮面の奥で唇を歪めた男の、あの笑みをそっくり真似て。

 

 いや、真似たと言うより、あれは……あの怪物の心が僕の目を通して流れ込んだ気がする。


 あいつが入った、僕の中に。


 すぐ若い警官が走ってきたけど、そのせいであいつが僕を殺さなかったんじゃない。


 だって、仮面の奥から見つめる目がすごく優しくなったから。まるで本当のお父さんみたいに僕を……


読んで頂き、ありがとうございます。

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