古き骸を捨て 3
「でも高槻君、君のトラウマは間違いなく危険よ!」
ほっとし、思わず緩みかけた守人の緊張感を、晶子の一喝が締めなおす。
「あの笑いの発作も含めて慎重に分析し、ケアしておかないと将来へ禍根を残すわ。催眠療法も続けたい。君が良ければ、だけど」
「是非、お願いします」
深く頭を下げる守人の肩を、晶子は優しく叩いた。
「ねぇ、君、文系男子ならダニエル・キイスってアメリカのSF作家を知ってるかな?」
「あぁ、『アルジャーノンに花束を』を書いた人ですよね」
「彼はノンフィクションも手掛けていて、そっちの方の代表作『24人のビリー・ミリガン』では多重人格をテーマにしてる」
「それ、読んだこと、無いです」
「読むべきよ。現代医学の解離性同一性人格障害に対する見方とは異なる部分もあるけれど」
「僕のと似た症例が出てるんですか?」
晶子は臨の方を見た。以前、ゼミの課題にした事があり、ゼミ生の臨は勿論その本を読んでいる。
「あなたは、あくまであなたでしかない、ってビリーへ語り掛ける所、あたしは好きでした」
「ふふっ、私が高槻君に話した事の幾つかはダニエル・キイスの受け売り……あなたと言う人にとってどうしても犯す事のできない罪は、あなたから派生した人格にも犯せない」
「本当に?」
「あくまでダニエル・キイスの本のお話よ。でも私は頷ける。罪を犯さずにいられない人と、罪の衝動を抱きながら踏み止まる人の境界線について、ずっと考えてきたから」
晶子の言葉は、ゼミで語られた際に臨が胸を熱くした講義の内容をなぞっており、いつもなら一も二も無く前のめり気味で頷いた所だろう。
だが、彼女の表情は翳り気味だった。
先程、ベンチで守人と話していた時に現れた『俺』と『私』について、まだ晶子に何も伝えていない。
あれは別人格の発現に見えたし、守人本来の人格から派生したとは思えなかった。流暢な話しぶりの中に、恐ろしく危険な匂いを感じたが……
今、それを告げるべきだろうか?
久々にリラックスしている守人を見つめ、臨は戸惑う。
そんな教え子の姿に察する物があったのか、晶子は教え子の肩を優しく叩き、
「解離性障害の可能性に拘らないというのは、あくまで現時点での判断よ。先入観を排し、一先ず色々な可能性を模索していく方向で進みたいの」
半ば励まし、半ば窘める口調で言う。
臨は一応納得したが、その見解に異議を唱える野太い声が、意外な方向から飛んできた。
「あ~、悠長な事、言ってるじゃん、偉そうなセンセ!」
何時の間にか、診察室の分厚い金属扉が開いていて、その戸口に凭れ、志賀進が立っていた。
「あ、あなたは!?」
「へへ、センセとは、あの大層な講義以来だねぇ。お嬢ちゃんも、俺、覚えてる? 合コンの後、お会いしたっしょ?」
「できれば忘れたいけど」
ぬめ回すような男の視線を浴び、怖じ気付きそうな気持ちを堪えて、臨は睨み返す。
「相変わらず、威勢良いジャン。それと、そっちの兄ちゃん、俺の貴重な情報をちゃ~んと生かしたみたいだねぇ」
「え?」
「俺のサイトに兄ちゃんがアクセスした事、確認済みなんよ。アクセス制限、良く突破したもんだ。感心、感心」
後ろ手にドアを閉めた後、志賀は挑発的に拍手をして見せ、その音が診察室の防音の壁に吸い込まれていく。
「な、何なんだ、あんた!?」
「そ~りゃツレナイご挨拶だな。まともに顔を合わせたのは一度きりだがね、色々と長~い付き合いなんだぜ、俺達ゃ」
守人は咄嗟に臨の前へ一歩踏み出し、非力なりに彼女を庇う姿勢を取った。
「どうやってここへ入ったの?」
晶子の声に乱れはなく、内心の動揺も感じられない。
「扉には入退室管理の電子ロックが掛かってる。パスワードを入力しないと開かない筈よ」
「ん~、なら誰かに教えてもらったんじゃね、パスワード」
「すぐ警備員を呼びます。捕まりたくなかったら、あなたの協力者の名前を言いなさい」
「ん~、わざわざ言わんでも、ホラ、目の前」
志賀が指さす先には守人がいる。
「えっ、嘘!?」
素っ頓狂に叫んだのは守人自身だった。
臨は彼に身を寄せ、温もりで「信じてる」と伝えて、志賀には怒りの眼差しを向けた。
「いい加減な事、言わないで!」
「いい加減にして欲しいのはコッチ。もういい加減、待ってぇ、待たれてぇ、待ちくたびれて……」
志賀はジャケットをはだけ、ベルトに刺していた金槌を抜く。
「殺らなくて良い女まで殺っちまったじゃねぇか!」
守人は震えあがって後ずさりしたが、診察室のドアは一つしかなく、その扉を背に志賀がゆっくり近づいてくる。
「兄ちゃんの体の中にゃ俺の大事な御人がいる。あの世から蘇る時を待ってンだ」
志賀は唇を歪めて笑い、守人の方角へ金槌を向けて、ゆっくり振り上げて見せた。
あぁ、この光景、あの時と同じだ。
催眠状態で見た少年時代の惨劇が、再び色鮮やかに守人の脳裏へ浮かぶ。
志賀の注意が彼へ集中している間、晶子と臨は目配せし、精一杯の抵抗を試みた。
臨が志賀の足元へリクライニングチェアを倒し、その隙に晶子が男の横をすり抜けて、診察室の外へ飛び出し、助けを呼ぼうとしたのだ。
しかし一見狂気に囚われている様に見えながら、志賀の反応は鋭かった。
扉の手前で晶子の行く手を遮り、金槌を振るう。
肩口に食らった晶子は昏倒し、倒れた拍子に頭を打ったのか、失神して動かなくなった。
続いて臨へ襲い掛かろうとする志賀へ、守人が組み付く。でも暴力の経験値がまるで違う分、抵抗は虚しい。
あっさり突き飛ばされた挙句、仰向けに倒れた体の喉元を志賀は片足で踏み付け、体重を掛けてきた。
じたばた足掻いても、殆ど身動きが取れない。
「ねぇ、隅センセ、モシモ~シ、いるんでしょ、中に?」
顔を寄せ、耳元で囁く志賀の息遣いを感じ、守人の全身は総毛だった。
「もうオトボケは止めてくれや。俺、今、ピンチなの。大ピンチ。あんたの可愛い弟子が、命がけでお迎えに来てンだよ」
巻き込まれる形で床へ尻餅をついた臨は、顔面すれすれに金槌を突きつけられた守人を成す術なく見つめている。
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