古き骸を捨て 2
診察室のリクライニングシートの中でも、大学生の守人が激しく笑い始めていた。
「先生、これ、何なんですか!?」
晶子に問う臨の声は悲鳴に似ている。
「わからないわ。ずっと穏やかだったのに、前触れもなく突然激しい反応へ転じるなんて」
「多重人格の発現とは違いますよね」
「確かに解離性同一性障害とは本質的に別の症状と思える。少なくとも一般的症状とはかけ離れています」
意味不明の反応に晶子も困惑を隠せない。同時に心理学者としての興味も惹かれているらしい。守人の様子を伺いながら、傍らの台に置いたノートへ何やらしきりに書き込んでいる。
「起こして下さい、高槻君を」
「でも、もう少し反応を調べてみないと」
「お願いします、今すぐ!」
晶子が躊躇う間も、乾いた笑い声は大きくなっていき……
守人の意識の中で、笑っていたのは幼い彼一人ではなかった。
身を屈め、息がかかるほど顔を寄せて覗き込む仮面の内側、彼を観察する『赤い影』も又、含み笑いで肩を揺らしていた。
何故だか深い親しみを感じる。
友達にも、親にも感じた事の無い、深い、深い共感……いや、一体感と言うべきか?
殺される、という恐怖さえ失せてしまった時、
「待てっ! それ以上、動くな!」
公道の方から叫び声がした。
ちっ!という舌打ちが仮面の隙間から漏れ、声の方を見ると痩せた警官がこちらへ走ってくるのが見えた。
赤い殺人者が守人から手を離す。
同時に小さな体は足元にぽっかり開いた穴へ吸い込まれ、何処までも闇へ堕ちて……
リクライニングシートの軋む音と共に、唐突な形で守人の哄笑が止まった。
「あ、高槻君!」
ほっとした表情を浮かべ、守人を揺り起こそうとした臨の手を、そっと晶子が払う。
「ダメよ、能代さん。始めた時と逆のプロセスで、慎重に彼を覚醒させないと」
臨は慌てて飛びのくが、そんな段取りを踏むまでも無く守人は目を開き、キョトンと晶子、臨を見回した。
「来栖先生、僕は一体?」
晶子はすぐには答えず、守人の瞳孔の動きを調べ、しっかり覚醒したのを確かめてから言う。
「高槻守人君、君……その、何と言うか……元の、私達が知っている高槻君なの?」
「僕は……僕ですけど」
おずおずとした気弱な答え方はいつもの守人そのもので、『俺』でも『私』でもない。
臨は改めてホッと吐息を漏らし、微笑んで彼に寄り添った。
「どうだった? 催眠状態だった時の記憶、有る?」
「う~ん、色々ぼやけている感じ。僕が悪夢を見て、目覚めた時の感覚と似てるよ。記憶の真ん中にうっすらモザイクが掛かってると言うか……」
「トラウマを回避するスイッチがあるのかもしれないわね、君の心の深層に」
二人の会話に、晶子が思案顔で割り込んだ。
「耐えられない苦痛に直面する手前で、自ら意識を鈍麻させる対応手段よ。それともう一つ、トラウマに対処する為の精神的自衛法を説明した事、覚えてる?」
守人は首を捻る仕草だけで答えが出ない。
代わりに臨が、「大きな恐怖から逃れる有効な手段として、恐怖を与える敵と同化してしまう事がある、でしたっけ?」と助け舟を出した。
「うん、流石、ウチのゼミ生。狼が怖ければ狼に、つまり加害者の側へ立ち、精神的に同化する。それで加害者を恐れる必要が無くなり、結果的に気持ちが安定するのよ」
「あ~、そう言えば、初めて来栖先生へ相談した時、僕も説明を受けた気がします」
「危険な存在に自らを模す対応って幼少時には珍しくないわ。ほら幼児は良く大人の真似するでしょ。でも、ごく稀に模倣が深く定着し過ぎた場合、後々まで元の人格に強い影響を与える場合が有ります」
「僕、事件に巻き込まれた時、9才でしたけど」
「模倣の固着には高過ぎる年齢ね。でも、類例が無い訳じゃない。それにあなたはかなり特殊な……何と言うか、鋭敏過ぎる感受性、共感力の持ち主みたいだし」
「精神年齢の低さにも自信ありますよ、僕」
「あ~、もう、自虐ネタは良いから」
臨のツッコミに、守人はペコリと頭を下げて見せた。催眠療法の心理的ストレスを緩和する為、無理におどけている様だ。
「悪夢について話を聞いた当初から、私は加害者との精神的同化の可能性を考えていました。それと、トラウマに伴う部分的健忘が君の克服すべき問題点である事、今の催眠療法で確かめられたんじゃないかな」
「あの……もっとわかりやすく説明してもらえます?」
目を白黒させている守人に対し、催眠療法中に彼が示した反応を晶子は指摘していった。幼児期に事件を目撃した時のパニック、そして、その後に示した哄笑についても。
「笑ってたんですか、僕!?」
「やっぱり記憶が無いのね」
「ええ、そこの所は全然」
「おそらく、9才の君は殺人に遭遇した衝撃で精神崩壊の間際まで追い込まれたのでしょう。そして仮面の奥に垣間見える犯人の表情や声音を無意識の内にコピー、同化しようとした」
「唐突な笑いはそのせい、なんですか?」
「まだ断定はできないけどね。反面、極限まで追い込まれた今回の状況下でも、君の別人格は現れていない」
守人は「あ」と声を上げ、臨と顔を見合わせる。
「深刻なトラウマから解離性人格障害が発症した、という見方は間違っていたのかも」
「……間違い」
大きく息を吐き、守人はリクライニングチェアの背凭れに体重を預けた。浮かべた安堵の笑みは、今度こそやせ我慢ではなく、自然に浮かんだものに見えた。
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