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WHO ARE YOU? 2



 その日の光景を能代臨は生涯忘れられないだろう。


 いつもは静かな住宅地を警察や報道陣が埋め尽くし、8才だった臨が耳を塞がずにいられない程の騒ぎを撒き散らしていた。


 臨の家族が住んでいた銀行の借り上げ社宅はごく一般的な集合住宅で、敷地が幾つかの区画に分かれており、一区画に二階建てが四棟、一棟に四世帯が住みこむ形になっている。


 事件はその西側、道路寄りの一棟で起きた。


 中学生になってから臨は当時の新聞の縮刷版を探し、関連記事も読んでいる為、典型的な痴情のもつれである事を知っている。

 

 三十七才の銀行員・向井健人が月曜日の朝、偶然に妻・結子の携帯電話を覗いた事から彼女の浮気を知り、問い詰めた挙句、発作的にゴルフクラブで殴殺したのだ。


 開き直られ、つい愛用のクラブを振り上げてしまった直後、逆上した結子から罵られたらしい。


 臆病なあんたに、そんな真似できるの?


 その言葉で激発し、一度殴ったら、もう止まらなくなったのだと健人は供述している。


 同じ棟に住む会社の同僚がゴミ出しの際、異常な物音に気付き、呼び鈴を押しても返事が無いのを不審に思って管理人へ連絡。開錠して部屋へ入った後、結子の死体の側で放心状態の健人を見つけ、警察へ通報した。


 夫婦がそれぞれ多額の生命保険を掛けていた為、一時は犯行の計画性も疑われたが、立証される事は無く、懲役13年の実刑判決が下されている。


 それ以上のディティールはわからない。


 小さな縮刷版の、その中でも小さなスペースに申し訳程度に出ていた記事だったのだ。






「その朝、あたしは学校へ行く途中、大勢が何か見物している遠巻きの輪に近付いた。色々ピカピカ光ってて、小学二年生の目には楽しい催しにしか見えなかったわ」


 臨は遠い眼差しで曇天の雲を見上げた。


「そこに集まっていたのは皆、顔馴染みのご近所さんばかりだったけど、いつもと違う人に見えた」


「きっと怖かったんだろうね、身近で事件が起きて」


「ううん、そうじゃない」


「違うの?」


「最初、楽しい催しに見えたって言ったでしょ。集まっている人の雰囲気もそんな感じだった。みんな興奮して、噂話が盛り上がってて」


 凶事とは言え、日常に非日常が紛れ込む奇妙な高揚感は守人にも理解できる。でも楽しむという感覚まではわからない。


 人の不幸は蜜の味、という奴なのだろうか?


「あたし、野次馬の隙間に潜り込んで前へ出た。一斉に報道陣のカメラがフラッシュを光らせ……眩しくて、指の間から覗くように社宅の玄関を見たら」 


「その向井って人が出てきたんだね」


「両側を刑事さんに挟まれてた。多分、実況見分の最中だったんだと思う」






 その光景は8才の目にはあまりに衝撃的だった。


 前へ突き出た腕に手錠の鈍い光沢が見え、大きめのパーカーを着込んで、頭からすっぽりフードを被る惨めな姿。カメラのフラッシュが絶え間なく輝き、向井は苛立って首を横に振った。


 フードがずれ、左右を見回す荒んだ眼光が、人混みの中で立ち尽くす少女の姿を捉える。


「あの時見たのは、あたしが知っている優しいおじさんとは全然違う誰か。恐ろしい怪物としか思えなかったけど、でも……」


 臨と目が合い、数秒の間、向井も動きを止めた。


 自分の姿に純粋な恐怖を抱く臨の強張った眼差しに、向井の表情も酷く強張っていた。


 もしかしたらあの瞬間、彼は自分が置かれた立場を初めて本当に理解したのかもしれない。


 人を殺すか、殺さないか、その選択の刹那を飛び越え、殺せる自分と出会ってしまった結果、二度と元には……自身を無条件で善と信じ込める脳天気な日常へ戻れない現実を。


 彼はストンとその場に崩れ落ちた。


 無様な姿勢で号泣した。


 アスファルト上でのたうつ容疑者に刑事達も困惑した様子で、近くにパトカーを横付けし、強引に車内へ押し込む。


 その間もフラッシュの閃きは止まらない。


 相変わらずの眩しさ、野次の声まで入り混じるざわめきの中にいて、臨は得体のしれない違和感を噛みしめていた。

 

 直後、遠ざかるパトカーの後部座席で向井は一度だけ振向き、こちらを見ている。


 まだ臨が見ている事に気付いたかどうかはわからない。振り返ってすぐ前を向いてしまったからだ。


 背中が震えていたから、まだ泣いていたのかも知れない。


 そしてパトカーは去り、あっと言う間にマスコミが消え失せ、野次馬もいなくなって、臨がその場に残された。


 小学校へ登校し、一日を普段通り過ごした筈だが、その後の記憶は無い。


 来栖晶子の言う解離性健忘という現象が自分にも起こっていたのかも知れないと臨は思う。






 何にせよ、その経験による今の彼女の結論は「怪物に見えるのは結局、心が壊れた人間に過ぎない」と言う事だった。


「被害者の側は認めないだろうね、それ」


 守人の反論は、同時に自責を含む言葉に聞こえる。己が怪物かもしれない事実を背負う苦悩が垣間見えた。


「ええ、罪からは逃れられない。でも自分の罪を一生掛けて償う為にも、加害者は壊れた心を立て直す必要があるのだと思う」


 臨は考えながら、ゆっくり言葉を紡いでいった。


「犯罪被害者へのケアが日本は制度的に遅れている事、前から指摘されてるけど、加害者については考慮さえされない。犯罪者を異常視しがちで、一歩間違えたら自分も罪を犯すかも知れない、という想像力が働きにくくなってる」


「そりゃ誰でも凶悪事件を犯す訳じゃないし」


「でも11年前の事件で、前の日まで旦那さんは温厚な、ごく普通の人に見えた。奥さんにしても浮気なんて……開き直って旦那さんを罵る姿は想像できないよ、今でも」


 臨の言葉に耳を傾けつつ、守人はふと視線を空へ向けた。


 何を考えているのか、その瞳は焦点を失い、曇天を彷徨うかに見えたが……臨が気づくより早く彼女の方へ視線を戻し、穏やかな笑みを浮かべる。


「来栖先生が研究しているコンサルテーション・リエゾンは癌などの身体的な症状をケアし、悪化や再発を防ぐ為に外科、内科等の医師と精神科医がチームを組んで対処する仕組みなの。

犯罪被害者の傷ついた心を救う目的でも、精神科医が他分野の医師と協力するシステムが作れないか、模索しておられたわ」


「心と体は切り離して考えられないからね」


「あたし、そのコンサルテーション・リエゾンの考え方を加害者治療へ応用してみたい」


「心の中の怪物を退治する代りに治そうって? 綺麗事と言うより妄想に近い」


「うん、あたし一人じゃ永遠に無理。だから力を貸してよ。高槻君となら今、どんな心の闇にも挑めそうな気がする」


「心の中にいる、もう一人の俺とも?」


 一人称が『僕』から『俺』になっている。只の心境の変化だろうか、それとも……


「多重人格が事実でも高槻君の心の中に怪物はいない。あたし、それを証明してみせる」


「本当に良い人だな、能代さんは」


 又、守人の頬に微かな冷笑が浮かんだ。


「うん、良い……良いね、実にイイ」


 猫科の獣に似た底光りのする瞳を輝かせ、挑発気味に呟く。


 普段の守人ならまず見せない表情だ。草食動物が急に鋭い牙を剥き出した様で、有り得ない違和感を臨は抱いた。


 あの合コンの夜、荒れ狂った時の雰囲気とも違う。もっとずっと静かで、大人びた危険な匂い……


読んで頂き、ありがとうございます。

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