KEEP OUTの内側で 3
自宅の書斎で、五十嵐は携帯電話を握ったまま、隅が関わる十年前の事件と、志賀が赤いレインコートを着て犯した殺人の意味に思いを馳せた。
あの時、隅が言った言葉と関係があるのか?
見つけてしまったんだよ、もっと、ずっと面白い事を。
そう宣言する隅の瞳の輝きは今も五十嵐の胸に焼き付いている。より高尚なテーマ、とも言ったが、志賀が監視し続けていた高槻守人とどんな関係が?
「五十嵐さん、又、連絡しますわ」
沈黙する内、電話の向うで富岡が電話を切ろうとしているのに気づき、五十嵐は慌てて叫んだ。
「待て、切るな!」
その大声に閉口しつつ、富岡が「まだ何か?」と聞いてくる。
「……確証が掴めんので、話すべきか迷っとったが」
どう打ち明けたものか、少し考えた挙句、五十嵐は結局一番シンプルな表現をした。
「隅の奴、死んでるかも知れん」
はっ、と息を呑む音が電話の向うから聞こえる。そして、しばらく富岡は何も言葉を発しなかった。
その驚きは五十嵐にも理解できる。
彼自身、その情報を掴んだ時は目の前が真っ白になり、床へ座り込みそうになったのだ。
敢えて淡々と事実のみ話そうと心掛ける。
「先日、奴の心療内科クリニックで勤めていた男に会って聞き出したんだが、姿を消す前、肺にガンが見つかったそうだ」
「病院を閉じたのは、それが理由ですか?」
「日常生活にも支障が出ていて、周囲に隠し切れない状態だったとか。その話が事実ならステージ4に達していた可能性が高い」
「隅は元々、外科医ですよね。そんなになるまで気付かなかったんでしょうか?」
「医者の不養生って奴だろ」
「それにしても……」
「或いは、自分の健康状態など、どうでも良いと思っていたのかもしれん。若い頃から価値観がわしらと違っておったからな」
「死を恐れない、という事ですか?」
「むしろ、死に憧れていた気もする。殺すより、殺される側の心理に興味がある、なんて言った事もあったのでな」
「では十年間、『赤い影』の消息が途絶えたのは、隅が既に死亡してしまった為だと?」
「あくまで可能性じゃ」
「その話を上に報告したら志賀の容疑が濃くなるでしょうね」
「だろうな。わしゃ明日にでも隅がいた大学の研究室を訪ねてみようと思う。ああいう所は意外と人の異動が少ないし、長く籍を置く奴がいれば詳しい事情が判るかもしれん」
電話の向うで富岡が小さく呻いた。
まだ隅の死の可能性を受止めきれずにいるらしい。
勿論、あの得体の知れぬ男の事だから、癌を克服し、何処かで密かに生き延びている可能性も捨て難いが……
電話を切った後、五十嵐は改めて考えてみた。
死の予感が失踪のきっかけだと仮定するなら、十年前に持ち掛けてきたあの『契約』は何だったのだろう?
五十嵐が隅を訪ね、殺されかけた日からクリニックの閉鎖まで僅かなタイムラグしか無い。つまり『契約』の時点で隅は病を自覚していた筈なのだ。己の死、タイミリミットを考慮した上、尚、何らかの探求に情熱を燃やしていた。
シリアルキラーは時に己の犯行を止めてほしいとのメッセージを周囲へ発する。隅の挑発の真意はそこにあったのかも、と五十嵐は考えた事がある。
そして警察に止められないのであれば、自身と同等の存在によって命を奪われたい、と隅ならば思うかもしれない。
少なくとも癌で死ぬより、その方が奴には望ましい最後なのではないか?
だからこそ、日本の各地を転々とし、サイコパスと疑われる人間達に接触、彼らのコミュニティを作ろうとしたのでは?
未だ定かならぬその真意、『高尚なテーマ』とやらの正体を、まず確かめる必要があると五十嵐は腹を据えた。
その頃、今や連続殺人の最重要容疑者となった志賀進は、仙台市青葉区の高台にある青葉山公園のベンチに腰を下ろし、どんより曇ってきた秋の空を見上げている。
嘗て仙台城本丸があった広場の外れに来ていて、市内を一望できる絶景が目の前に広がっていたが、堪能する心の余裕など無い。
じっとり湿った大気がまとわりつき、気が重くなる一方だ。
嫌な風だな。ま、茜を殺った夜よりマシか。
今日は日曜日だが、台風の接近により午後の降水確率が90%で観光客が少ない。インスタ映えする伊達政宗像と離れた場所にいる事もあり、周囲へ神経を尖らさずに済むのは有難い。
6日前、茜のワンルームマンションで凶行に及んだ後、彼は一旦自宅に戻り、現金をかき集めて飛び出している。
もう、とうに茜の死体は発見されている筈。
錯乱していた犯行時には気にならなかったが、赤いレインコート姿の志賀が茜を襲う光景も、マンションの監視カメラに捉えられている事だろう。
あ~、バカやっちまった。俺、動画のプロなのに決定的な証拠、残しちまってよ。
苦い後悔と共に、あの金槌を振り下ろした瞬間の手応えを思い出し、胸が悪くなった。
10代の頃から志賀は犯罪マニアを自任し、殺人を夢見ている。だから、あの行為は歓喜を呼ぶ筈なのに、直面したのは生理的な嫌悪の奔流だ。
彼が心から尊敬する『師』を真似、死にゆく女の首を裂いて噴き出す血をヨーグルトで受け止めた時の、真っ白い液体を侵食する真紅の渦。
呑まなきゃ模倣の意味が無い。
傷ついた仮面を被り、己の狂気を駆り立てたのも『あの人』の魂を受け継ぎたいとの願い故……
口をつけ、生ぬるい感触が喉を伝い、予期していた美味と歓喜の代りに激しい吐き気が志賀を襲った。
咄嗟に瓶を冷蔵庫へ戻し、部屋を飛び出したのを覚えている。
夢想と実行の間には何と高い壁がある事か。
畜生、何が違う!?
俺とあのトッポい学生の間に、どんな差があるってんだよ、旦那?
長らくネットのアングラサイトを運営していたお陰で幸運にもあの『赤い影』、尊敬して止まぬ師と知り合い、信頼を勝ち得たと言うのに、いざとなると物真似一つ満足に出来やしない。
警察に追いつめられる前に死のうと思った。
死そのものは怖くない。彼が自ら流布してきたサイト上の都市伝説をなぞり、『虚ろなる羊の内』から『あの人』の様に蘇れば良い、と志賀は信じ込んでいる。
どうせなら死に花を咲かせたいが、死を意識すればする程、殺してしまった女の温もりが鮮やかに蘇った。
あの仮面を見なきゃ、死なねぇで済んだのに。
神聖な衣を足蹴にするなんて、『みんな』が、『旦那』が、許す訳も無い致命的な冒涜じゃねぇか。
「茜ぇ……お前がいけないんだぞ」
疼く喪失感に耐えきれず、志賀はベンチへ顔を埋めて泣いた。
泣くだけ泣いて立ち上がり、青葉山の麓を見下ろすと、そこには陸奥大学のキャンパスが広がっている。
後は踏み出すだけだ。死に花を咲かすラストステージへ、と。
読んで頂き、ありがとうございます。