虚ろなる羊の内に 1
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富岡、笠松両刑事が五十嵐武男のマンションを訪れた6日後の9月24日、陸奥大学・精神神経医学教室では来栖晶子准教授の手により、高槻守人の消えた記憶を探る試みが繰り返されている。
晶子のスケジュールの都合で夕刻から始めた検査は慎重に進められ、午後9時を過ぎても大きな進展は無し。
能代臨は、他のゼミ生が帰宅して静まり返った『ラボ』に残り、備品のパソコンを起動、淡々と操作していた。
液晶画面を見ると例の『タナトスの使徒』ホームページが表示されている。
隠されたポップアップ・スイッチ相手に奮闘した結果、幾つかサブウィンドウを開くのには成功しており、その内の『予言』と表題がついたウィンドウをクリックすると、おどろおどろしいレタリングの文字が出現した。
浮かない顔で臨は読み上げる。
「赤い蛇は骸を捨て、虚ろなる羊の内に宿るであろう……古き使徒の所作を借り、血肉の宴を経て蘇る、か」
サイト管理人の趣味なのだろう。中二病的センスみなぎる陳腐な文句ではあるものの、画面の処理は中々凝っている。
テッド・バンディ、ウェイン・ゲイシー、トレントン・チェイスらシリアルキラーの画像が半透明で浮かび、それが凝縮してウィリアム・ブレイクの画調を真似る真紅の蛇を描き出した。
それが映画『エイリアン』のワンシーンよろしく、人の体に入り込み、内側から胸を食い破るアニメに転じて、画面がまるごと真っ赤に染まる悪趣味な演出を経た後、ウィンドウは閉じる。
「あなたの悲鳴は誰にも聞こえない……高槻君、好きだったよね」
やるせなく臨が呟き、大きく首を廻して背伸びした時、そ~っと彼女の背後から忍び寄る二つの影があった。
「……誰?」
気配を感じ、振向く前に臨の肩を誰かが掴む。
「きゃっ!?」
驚いて椅子もろともひっくり返りそうになった次の瞬間、増田文恵、伊東正雄の悪戯っぽい笑みが目に飛び込んできた。
「臨、何、ボ~っとしてんの?」
「誰かの天然ボケ、映ったんとちゃう?」
傾いた椅子を転倒寸前に支えた姿勢のままで文恵が尋ね、正雄が調子を合わせる。
「あ、あのねぇ……あなた達、ふざけるのもいい加減に……」
本気で怒りかけた臨だが、すかさず差し入れのおにぎり、缶ジュースを差し出す文恵にほだされ、苦笑した。
からかった様でいて、二人の本意はそこには無い。
遅くまで研究室に入り浸る友を心配し、ゲスト登録している9桁の入室パスワードを使って、ラボまで様子を見に来たのだろうと臨は察した。
液晶画面を気味悪そうに覗き、文恵は研究室の中を見回す。
「あれ? 彼は一緒じゃないの?」
「え、高槻君のこと?」
「当たり前やろ、他に誰がおんねん」
正雄が厚かましくマウスに手を伸ばし、軽~く悪戯しようとすると、こちらには容赦なく臨の手が飛んだ。
ピシャリ叩かれ、正雄は頬を膨らます。
「ちょっとくらい、いじっても良いやん、ケチ」
「このサイト、変な仕掛けが隠してあって、アクセスだけでも手間を食うし、下手な所をクリックすると問答無用で閉じちゃうの」
「守人もここにいるって思ったんやけどな。たまにアイツ、いじらんと俺、調子でん」
「もしかして来栖先生の研究、手伝ってるとか?」
「手伝うと言うか……彼が研究対象になっちゃった、と言うか」
意味が分からず、顔を見合わせる文恵と正雄に対し、臨は締め切られた奥の扉を指さす。
防音壁で仕切られている為、音声は聞こえないが、マジックミラーの窓から内部が伺える外来用の診察室だ。
文恵達が近づくと、面談している来栖晶子と高槻守人の姿が見えた。
「何か凄く真剣な感じ、やな」
「高槻君が研究対象ってどういう意味、臨?」
「うん……やっぱり、二人には話しておいた方が良いよね」
その臨の重苦しい口調に軽口は叩けず、語られていくこれまでの経緯に文恵、正雄は黙って耳を傾ける。
一方、診察室の中には、検査の結果を受けた晶子の申し出に動揺を隠せない守人がいた。
「……催眠術、ですか? 先生が僕に?」
「一度、試してみたいのよ」
「でも先生は確か……催眠療法をあまり信用していないと言っておられたような」
晶子は軽く眉をしかめ、すぐポンと拳で掌を叩く。
「熱血教室の講義を言ってるのね。嬉しいなぁ、高槻君、あれ、聴いてくれたんだ」
「理解できたかと言うと、自信ありませんけど」
本当は居眠りを始める前に聞いた部分でさえ、殆ど理解できていない自信が守人にはある。理系の講義に首を突っ込んだ時点で身の程知らずだったとも思う。
しかし、精一杯記憶を掘り起こし、晶子が述べた講義の内容について尋ねてみた。
「人間は記憶を自分の都合が良いように捻じ曲げたり、誰かの誘導で歪めてしまう傾向があって、催眠術で引き出す記憶も大してあてにならない……そんな話でしたよね」
「うん、回復記憶療法の信憑性に対してジョン・キーストロムが述べた論点を私は説明しました。心の危うい要素を更に増幅させるリスクも無視できない。でも、高い効果が期待できる場合もある、と付け加えた筈よ」
「僕、それに当てはまるんですか?」
「何らかの精神的トラウマで抑圧された記憶が、本人に意識されぬまま忘却される事例として、あなたは確かに典型的だと思う」
守人は困惑し、晶子から目を逸らした。
「催眠療法は私自身が手掛けます。他に誰も介入させない。変な方向へ誘導しないよう、慎重に、丁寧に、試すわ」
「でも……」
「怖い?」
「はい」
「抑圧された記憶である以上、催眠で抑圧を取り除き、真の記憶を取り戻すチャンスは少なくない。あくまであなた自身が望み、前向きに試してみる場合に限り、だけど」
目を逸らしたまま守人は晶子を見ない。その戸惑いは目の前の准教授ではなく、己の内側へ向いていた。
本当に真実を知りたいと、僕は思っているんだろうか?
心理テスト程度なら恐怖を抑えられても、催眠療法となるとハードルが高い。逃げ出したい衝動と戦いながら、守人は胸中の戸惑いと不安を晶子へぶつけた。
「これまで先生が僕に課したテストの結果は、どれも正常の範囲内って言いましたよね。僕の精神は十分に健康だって」
「異常は無い。でも、気になる事はある」
「何です?」
「解離性人格障害……心に深い傷を負うと、時に健忘をきっかけとし、意識の統一が失われる。心の避難所として別の人格が生じる場合があるんです」
そう言えば特別講義の際、極端な例として人格障害が幾つか挙げられたのを守人は覚えている。
「あなたの場合、自分でコントロールできない時間の中に、別の意識が隠れているかもしれない」
「別の意識?」
「そう。今のあなた、高槻守人が認識している心、本来の人格とは異なるパーソナリティ」
「それは……つまり二重人格とか、そういう事ですか?」
晶子はゆっくり頷いた。
守人を刺激しないよう心掛けているのだろうが、『二重人格』について考えるだけでも彼の心は激しく揺れる。
何せ、映画ファンにとって使い古されたテーマだ。
古典中の古典『ジキル博士とハイド氏』なんてパロディを含めると、何回映像化されたか分らない。
あの『タナトスの使徒』の血塗れ動画からして、今回、一番相応しい比較対象はヒッチコックの『サイコ』かと思う。
アンソニー・パーキンスのラストカット、警察に捕まって留置されている間、一瞬示す狂気の微笑を守人は想起せずにいられなかった。
あんな怪物みたいな人格が自分の中にも潜んでいて、気が付かない内に人を……考え出すと又、体が震えだす。
晶子は何も言わず、守人が落ち着くのを待っていた。
この先どうするにせよ、まず本人が立ち向かう決心をしなければ何一つ始まらない。
読んで頂き、ありがとうございます。