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トラウマ 1



(13)


 9月17日、月曜日の朝。いつものように家を出、いつもの正門をくぐり、青葉山キャンパスのいつもの路地を歩いていても、今日の高槻守人には見慣れた光景が違う物に見える。


 空は快晴だ。


 明け方に降った通り雨が適度な湿り気を大気に与えていて、路地を挟む木々の紅葉が生え、落ち葉を踏みしめる足に優しい感触を伝えてくる。

 

 しかも、今日は一人じゃない。


 何かと騒がしい大阪の太閤さん=伊藤正雄なら珍しくないが、隣を歩いているのは可憐な女の子である。


 如何にも地味な守人と、ショートヘアを揺らして朗らかに笑う能代臨のアンバランスな組み合わせは人の目を惹くらしく、やっかみ半分の視線も時々飛んできた。


 一度で良いから他人に僻まれる立場になりたい。


 それが守人の長年の悲願だ。言わば夢が叶ったシチュエーションで、もっと有頂天になっても良いのだが……


「高槻君、大丈夫?」


 つい俯きがちになる守人を気遣い、少し先行した臨が振返る。


「うん、絶好調」


「無理しなくて良いんだよ。どうしても気がのらなきゃ、来栖先生には私から言っとく」


「いや、のってます。もうノリノリ。あんな有名人が直接相談に乗ってくれるチャンス、二度とないだろうし」


「だからって」


「折角の紹介、無駄にしないよ。それに、能代さんも前に来栖先生の精神分析を受けた事があるんでしょ」


「えっ? あぁ、トレーニング・アナリストの事? あたし、あの人のゼミ生だからね。精神分析を学ぶカリキュラムだった」


「カリキュラムって、つまり授業の中で?」


「生徒が患者役で、指導員の先生に直接診てもらうの。自分を客観視できるし、いつか診察する側に立ったら意味を持つ経験だって、来栖先生の方針で取り入れられたんだよ」


「で、能代さんの分析の結果は?」


「……ナイショ。でも、ド~ンと任せて大丈夫だと思う」


 微かに頬を赤らめる臨の面持ちにほだされ、強がり半分の笑顔を浮かべて、守人は腹の底に沈む重苦しい不安を拭おうとした。


 そのまま勢いをつけ、臨を追い抜いて足を速める。


 悪夢を直視した上、第三者の冷静な目で何が起きているか確かめねばならない。


 自分が無意識のまま、凶悪犯罪に手を染めているという最悪の可能性さえ、今や無視できないのだから。






 来栖晶子が所属する陸奥大学・精神神経医学教室は、医工学科ビル4階のフロア半分を占め、最新機器を備えた研究室・通称『ラボ』を持つなど、学内でも優遇されている。


 守人はフロアの一画を占める診察室で、美貌の准教授と向かい合った。隣に臨がいるから多少心強いものの、晶子の雰囲気は講義の時と若干違うようだ。


 物静かな態度は同じでも、親しみやすい笑顔でこちらの緊張をほぐしてくれる訳でもなく、興味深げに守人を見つめている。


 モルモットにでもなった気分で居心地の悪さを感じていると、


「高槻守人君」


 臨から事情を一通り聞いた後、晶子は長い沈黙を破った。


「9歳の頃、君が経験した事件について殆ど忘れてしまったのは、解離性健忘の可能性が高いと思います」


 聞き慣れない専門用語に、守人は目を白黒させた。


「精神的ダメージが耐えうる限界を超えた時、無意識の領域が働いて、関係する他の記憶ごとリスクの原因を忘却の彼方へ追いやる。当事者の年齢が低い場合、特に起こりやすい症状でね」


「……はい」


「つまり心の痛みをあなた自身が、あなたの知らない内に、あなたから切り離すのです。その結果、時に残存する記憶と矛盾が生じてしまい、意識の統一を失う危険が生じる」


 確かに、自分を自分から切り離すと言うニュアンスは、悪夢を見た後の実感と近い気がする。そして「意識の統一を失う危険」という言葉に本能的な恐怖を感じる。


 臨が心配そうに彼の横顔を見た。


「能代さん、あなたから相談を受けた後、私は臨床医としての資格で高槻君の過去のカルテを取り寄せてみました。能城さんは彼が受けた治療について、何か話を聞いていますか?」


「……いえ」


 もう一度、晶子は守人へ向き直る。


「高槻君、事件後、あなたは一時、放心状態に陥り、家族との会話さえ成り立たない状態に陥ったそうです。意識を取り戻した後も恐怖によるパニック発作が頻発、しばらく精神科のセラピーを受けざるをえなかった。そうですね?」


「……良く覚えていません」


「事情聴取の必要もあり、当初は警察病院の精神科医があなたを担当していた。後に御両親が依頼した心療内科医を主治医に変更していますが、彼らは治療よりあなたの精神的な安定を優先した。その後、御両親が事件に触れなかった為、忘却したまま、あなたの記憶は固定されたのでしょう」


 事故死した父と離別した母を守人は思い出そうとし、その顔をはっきりイメージできないのに愕然とした。


 事件と直接関係ない点まで、少なからず記憶が曖昧になっているのに気づき、守人は晶子に尋ねる。


「時々、その……ボ~っとするのは?」


「今でも、ですか?」


「はい、そのせいか最近起きた事でも変に記憶が薄かったりして」


 晶子は少し首を傾げる。


「PTSDについて御存じ?」


「戦争映画とかで出てくる病気ですよね?」


「心の深い傷が引き金になるPTSD、心的外傷後ストレス障害でもフラッシュバックと呼ばれる幻視や悪夢、記憶の混乱が生ずる恐れがあります」


「あの、先生……」


 臨が躊躇いがちに口を開いた。


「PTSDは、ストレスに対応するため形成された反応が、後々、非対応的に働くものだと学びました。だとすると、今も健忘がストレスの対処として無意識に選択されてる、という事ですか?」


「うん、そう考えるのが妥当よね。それに何より興味深いのは……あ、御免なさい、高槻君。こんな言い方、不謹慎でした」


 晶子は門外漢にも理解しやすい表現を探し、言葉を継ぐ。


「私が一番気になるのは……頻繁に見る夢が現在進行形の犯罪、未解決事件の内容と酷似している事」


 確かにそれこそ、今の守人を一番怯えさせる事実だ。


 何しろ、犯人しか知らない筈のディティールを、彼は夢と言う形で既に知っていたのだから。


「実はね、この悪夢の件、あなたが真犯人で無意識に罪を犯している、という極論へ行かなくても、解釈の余地はあるのよ」


 守人は「えっ?」と大声で聞き返した。


「人が大きな恐怖から逃れる最も有効な手段の一つは、恐怖を与える敵と同化してしまう事」


「……敵と同化、ですか?」


「いじめられっ子が、ある些細なきっかけでいじめる側に回ったりする話、良く聞くでしょう」


「はい」


「それ、幼少期には良くある精神的対処法。だから、あなたも犯人に変身した夢で深層心理下の恐怖を癒し、覚醒後、テレビの報道やネット動画を夢と混同しているのかもしれない」


「でも、報道されない事実まで俺は夢で見たんです!」


 つい声が大きくなる守人を、たしなめる口調で晶子は言う。


「見たような気がする……だけじゃないの? あなたが認識した悪夢の詳細は、本当は実際の事件とそれほど似ていないのに、後でそう思い込んだだけかも」


「えっ!?」


「人の記憶は曖昧です。後で得た情報を記憶に上書きし、他人の経験を自己の物と誤認する場合が在りうるわ」


「先生が講義でおっしゃった『作られた記憶』ですね」


 躊躇いがちに言う臨の傍ら、守人はすっかり困惑し、頭を抱え込んでしまった。


 晶子もしばらく物思いに沈んだ後、「良かったら、私の研究室で幾つかテストをしてみましょうか?」と切り出す。


 有難い反面、正直こわい、と守人は思う。


「放置しておいても恐怖は膨らんでいくだけ。それに他の心療内科へ行って相談するのも気が進まないんでしょ?」


「もし、先生にお願いできれば……」


 臨も、縋りつきたい心境で晶子を見る。


「まかせなさい!」


 先程までの好奇心を封印し、晶子は親しみやすさの溢れる笑みを浮かべて、頼もしく胸を叩く。


読んで頂き、ありがとうございます。

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