9、紅の剣闘奴隷⑤
わんわんと、熱狂する観客たちの歓声が闘技場に満ちている。
「さて、商人よ。今日の主役の剣闘について、教えてもらおうか」
「は……い、いえ……その……」
一般の観覧席からさらに一段高く、空中に浮いているようにして造られた特別観覧席は、その日最も高額な金額を出した客に与えられる席だ。その日の剣闘を企画した奴隷商人が自らがその客をもてなすことが慣習となっている。
だが、混雑する一般客とは全く異なる導線でたどり着くそこに腰掛けているのがこの国の皇帝だとは誰も思わないだろう。一般観覧席から見上げても中が見えない造りになっているそれは、まさに選ばれし者のために造られた席と言って過言ではない。
「ほ……本日のこの席は、ダンヴェール侯爵のご予約と承っておりましたが……」
観覧席の地べたに膝をつき、平伏しながら奴隷商人は蒼い顔で進言する。
「あぁ、そうだな。だから、前座の間は侯爵がこの席にいただろう。――すまないな。少し、所用で遅れると思い、ダンヴェール侯爵に席の確保を頼んでおいたのだ。彼は、快く引き受けてくれたぞ。目玉の主役の剣闘を見ずに帰ることになるというのに、文句も言わず」
「っ……!」
「他の人間に席を譲り渡してはいけない、という決まりはないと聞いていたが?」
「は……はい……」
悔しそうに、震える声で顔を上げることなく商人は呻く。
「事前に申し出ていただけましたら……馬車からこちらまで、最高級のカーペットを敷いてお出迎えに上がり、とっておきの剣闘をお見せいたしましたものを――」
「ほう?――ダンヴェール侯爵は、今、最も高額で観覧席が取引される”とっておき”の剣闘だと言ってこの席を確保してくれたのだが?」
「っ……い、いえ……時間さえ頂けましたら、陛下にもっとお楽しみいただけるとっておきを、ご用意出来ます。お待ちいただけるのであれば、その間、最高級の楽器隊に演奏させ、上等な性奴隷に舞を舞わせましょう。退屈を感じる暇はございませんので、なにとぞ――」
「いや、それには及ばぬ。私も『侵略王』などと呼ばれる身だ。剣も魔法も幼いころから武芸を磨いてきた。こうして剣闘を実際に観覧するのはずいぶんと久しぶりだが、強い男たちの戦いを見られる剣闘は意外と好ましく思っている。舞を見ることなどより、よほどな。今日の日をずっと、指折り数えて楽しみにしていたのだ」
いけしゃあしゃあと言ってのける皇帝に、ぐっ……と悔しそうに歯噛みする奴隷商人の顔は真っ青だ。急に観覧席に現れた皇帝に、ずっと主導権を奪われたままの彼は、蛇を思わせる細い目をせわしなく巡らせ、必死に言い逃れを考える。
「ほ、本日は、皇女殿下もお出ましとのことで――年端もいかぬ殿下に、野蛮な剣闘を披露するのは、善良なる一帝国民として大変心苦しく――」
「構わないわ」
ぴしゃり、と往生際悪く世迷いごとを並べ立てる商人の言葉を遮る。
「早く始めなさい。いったいいつまで我ら皇族を待たせるつもり?お前、命が惜しくないのかしら」
「っ……そ、そのような――」
およそ十歳の少女とは思えぬ冷ややかな視線を浴びて、商人が言葉に詰まると――
わぁぁあああああ――
「いったいいつまで待たせるつもりだ!」「商人は何をしている!」「この席を取るのがどれだけ大変だと思っているんだ!」「早く主役を出せ!」「俺はあいつの勝利に金貨五十枚を賭けたんだぞ!」「久しぶりにあいつの魔法を見られると聞いたんだ!」「早く!」「早く!」「早く!」
いつまでたっても始まらない本命の剣闘に、観衆たちがしびれを切らして騒ぎ立てる。
「どうだ、商人。観客も待ちきれぬようだ」
「っ……は、はい……」
暴動が起きかねない騒ぎに、苦い顔で呻くようにして、入り口に立っている男に何かの指示を送る。もはや時間稼ぎは出来ぬと観念したのだろう。商人の合図を受け取り、入り口の男はサッと一礼した後身をひるがえした。
(……剣闘での賭博は、ずいぶん昔に禁じられたはずなのに)
観衆たちの声から、この閉ざされた空間の中で法律で禁じられているはずの行いを平然と行っていることを知り、むくりと沸き起こりそうになった正義感を理性で何とかねじ伏せる。
今日の目的は、剣闘奴隷の献上に問題があることを明らかにすることだ。違法賭博を取り締まるためではない。目的とは異なることに焦点を当てて追及して、本来の目的を達する機会を逃すのは愚かなことだ。何より同じ歓声を聞いたギュンターが何も言及していない。ミレニアは、正しく父の意図を読み取り、嫌悪感に顔を顰めそうになるのを必死で堪えた。
「それで?私は途中から参加したから、今日の剣闘の前説を聞いていないのだ。代わりに説明してくれ、商人よ。剣闘を初めて見るミレニアにもわかりやすく、な?」
(お父様も人が悪いわね……)
ニヤリと褐色の頬を歪めて笑うギュンターを見て、ミレニアはこっそりと息を吐く。
商人は困ったことだろう。今日の奴隷が、闘技場で最強を誇る奴隷だと認めてしまえば、なぜそれを献上していないのかと問い詰められる。かといって、嘘を伝えようものなら、皇族を謀るような不届き者と言って処刑されかねない。
たらり、と冷や汗を垂らしながら、奴隷は震える声を出した。
「ほ、本日の剣闘は、一対多数の戦いをご覧いただきます」
「ほう?」
「ここ最近、連勝している奴隷一名に対し、複数人で襲い掛かります」
「ここ最近――ですって?」
ミレニアが冷ややかな瞳で意味深に問いかけると、ぐっと商人は言葉に詰まり――
ヴォーーーー!
闘技場一体に響き渡る角笛が、奴隷の入場時刻を知らせた。
「ご、ご覧ください、殿下。今の角笛の合図で奴隷が入場いたします。楽器隊が音楽を奏で、精一杯見世物を盛り上げるのです」
タイミングよく響いた角笛の音に、これ幸いと必死に話題をすり替える。
ちらり、とミレニアはギュンターに視線を送る。『ここ最近』という曖昧な表現を追求すべきかどうか、指示を仰ぎたかったからだ。
「まずは主役の対戦相手――複数人の奴隷たちの入場です。主役は非常に人気の高い剣闘奴隷ですので、見世物を最高潮に盛り上げるためにも、最後に登場させます。ですが、ご覧ください、あの筋骨隆々の男たちを。この日のために必死に鍛えてきたのです」
必死に言葉を重ねて何とか話題を押し流そうとする商人を前に、ギュンターは呆れた顔でミレニアにだけわかるように軽く頭を振った。ミレニアも嘆息し、仕方なく闘技場へと視線を投げる。言われた通り、簡素な鎧を身に着けた屈強な男たちが入場しているところだった。
「……七人……?そんなにも同時に相手が出来るものなの?」
「剣闘とは、命のやり取りを楽しむ見世物です。それは時に、公開処刑にもなりえます。圧倒的多数の強者に、一方的に一人が嬲られる様を楽しむ見世物もあるのですよ」
「ほう……?事前の情報では、対戦相手は五人だと聞いていたが」
ギュンターの冷たい声に、商人はビクリ、と背をただした。
(……さっきのほんの少しの合間に、用意したのね。……本当に、狡猾な男)
ミレニアは不快気に目を眇めて、ゴミを見るような目で平伏する商人を見下ろす。
おそらく、ギュンターが得ていた事前情報は正しかったはずだ。用意された五人と戦えば、観衆を喜ばせる互角の戦いになったことだろう。
それを、急遽二人増やしたのだ。強さの均衡が崩れ、おそらく主役は苦戦する。商人の言う通り、悪趣味に嬲られる様を見る羽目になるかもしれない。
それらは全て――主役の奴隷はさほど強くない、と印象付けるためだろう。万が一主役が負け、人気を失ったとしても、皇族の命に背いていたと露呈するよりは奴隷商人の痛手は少ない。
「何かの勘違いでは……最初から、今日は七人を相手に立ち向かおうとする滑稽なさまを楽しむ見世物です」
「……フン……」
嘯く商人に、ギュンターは軽く顔を顰める。
「ご覧ください、殿下。奴隷たちはあのように闘技場に出て初めて、枷を外され、武器を手渡されます。勿論、剣闘が終わり次第武器は没収、その場で枷を嵌められて、再び奴隷小屋へと連れられて行きます。奴隷が万が一にも反抗しないよう、反抗したとしてもすぐに取り押さえられるようにするためです」
「…………そう」
先ほど見た紅玉の青年の四肢にも同じものがついていたことを思い出し、ミレニアはぎゅっと眉根を寄せて言葉少なくつぶやく。酷く気分が悪い。――彼は、抵抗する意思など、欠片も持っていなかったというのに。
ヴォーーーー!
対戦相手たちの枷が外されて全員に武器が手渡された後、再び角笛が響き渡ると、わぁぁあああああっと歓声がひと際大きくなった。
「遅い!待ちくたびれたぞ!」「ロロだ!」「ロロが来る!」「早く始めろ!」「奴隷の血を捧げろ!」「地獄の業火で焼き殺せ!」「蹂躙しろ!!!!」
観衆の下品なお祭り騒ぎに軽く顔を顰め、ミレニアは聞きとがめた単語を商人に尋ねる。
「――ロロ……?名前があるの?奴隷、なのに……?」
先ほど初めて知った知識との齟齬に眉をしかめると、あぁ、と商人は軽く嗤って答える。
「今日の主役は有名なので、誰がつけたのか、名前のような呼び方で呼ばれることがあるのです。その呼び名を知っている者は、常連である証でもある。今日初めて訪れた者も、次に訪れるときには得意げにその呼び名を呼ぶでしょう」
そうして浮かべるのは、奴隷に親しみやすい名をつける観客を蔑む嗤い。
「彼の本当の名前は――奴隷番号66番。故に、ロロ、と。――くだらないでしょう?」
「――――……」
すぅ――とミレニアから表情が消える。相手に気づかれぬ位置で拳を握り締め、返事をすることなく闘技場へと視線を投げた。
「さぁ、登場です。――『血と炎に魅入られた』世にも邪悪な剣闘奴隷ですよ……」
「――――――――」
ゆっくりと男に引き連れられるようにして闘技場へと姿を現した奴隷――ロロと呼ばれたその男の姿に見覚えがあり、ミレニアは絶句する。
「あの奴隷の武器は双剣。他の武器を持たせても器用にこなしますが、最も好むのは双剣のようです。無口で愛想のないことで有名なのですが、人を屠るときでさえ眉一つ動かしません。顔立ちだけ見れば、性奴隷にしても圧倒的な人気が出そうなほど整っていますが――瞳が不吉で不気味な色をしているせいで、買い手などつかんでしょうな」
「――――不吉で不気味な色、ですって――?」
ざわりっ……
腹の奥底を冷たく不快なもので擦られるような感覚に、肌が粟立つ。
(あの、世界一美しく魅力的な紅玉の双眸を――――!)
わなわなと震えるほどの怒りがこみ上げる。
「遠目ですから、皇女殿下の位置からは見えませんかな?実はあの男は血のような、炎のような、不吉で不気味な色をした瞳を持っているのですよ。まさに剣闘奴隷になるために生まれてきたと言っても過言ではない――」
「お前――――っ……!」
――こいつだ、と思った。
あの美しい紅玉の瞳に虚しい光を宿している元凶は、この男だ、と思った。
麗しく整った顔に惨い焼き印を入れ、蔑んだ顔で番号を呼び、呪いの言葉を呼吸をするようにすらすらと吐き出す、この目の前の男の存在が、あの美しい瞳を曇らせるのだ。
思わず激昂のあまり、男を感情に任せて怒鳴りつけそうになった瞬間、ギュンターの声が飛んだ。
「商人よ。――なぜあの奴隷は手枷を外さない?」
(え――――)
ギュンターの疑問に、冷や水を浴びせられたように我に返り、ハッと闘技場を見やる。
ロロと呼ばれた奴隷は、足枷と、手枷についている鎖だけは外されたものの、両の手首に着けられた重たい鉄枷はそのままに、二本の剣を手渡されるところだった。
「あの枷の裏には、奴隷の抵抗を防ぐために魔力の放出を阻害する魔封石がびっしりと取り付けてあるのだろう。あれでは、枷の重さで動きが阻害されるだけでなく、魔法も満足に使えん」
「な――――」
絶句して、ミレニアは奴隷商人を振り返る。平伏したまま、男がニヤリ、と笑う気配がして、さぁっと嫌悪感が全身を駆け抜けた。
「なぜ、も何も――申し上げたはずです。今日の見世物は、一方的に嬲られるのを楽しむものだと」
「っ――――!」
しゃあしゃあと言ってのける奴隷商人に、怒鳴りつける言葉すら出てこない。
「おい、枷を着けたままだぞ!?」「どういうことだ!!今日は久しぶりに枷を外すという前評判だっただろう!」「ロロの魔法が見られる貴重な席だから高額を出したんだぞ!」「ふざけるな!俺はあいつに金貨五十枚を賭けてるんだぞ!?」「い、今から賭け先を変えられないのか!?」「相手が七人なんて聞いてない!」「主催者は何を考えてるんだ!」
枷を外すことなく剣を渡して去っていく看守の姿に、観客たちから絶望的な声が口々に上がる。
「ふん……小賢しいことだ」
ギュンターが憎々し気に口の中で呻く。皇族を前に、人気の奴隷を失うことと引き換えに、己の保身を取ったのだろう。ギュンターらが訪れてから、ほんの少しの時間稼ぎのあの間に、追加の対戦用奴隷を二人用意し、枷を着けたまま出場させるように伝達した。おそらく、仲間内だけにしかわからぬ合図などで指示を出したに違いない。
(っ……もし、これであの剣闘奴隷が死んだりしたら、お父様に頼んで、この下劣な男を絶対に地獄に叩き落してやる――!)
ギリギリと奥歯を噛みしめて、ミレニアはにやにやと笑みを浮かべる奴隷商人の後ろ頭を睨みつけたまま、震える拳を握り締めたのだった。