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6、紅の剣闘奴隷②

「――――――誰だ。貴様は」

 不機嫌の極み、といった様子で掛けられた声に、ミレニアは何も返すことが出来なかった。

 人生で誰にもそんな不敬な態度を取られたことがなく面食らったから――では、ない。

(――――――綺麗――――……)

 壁にもたれた不遜な態度でこちらを見上げてくる、吸い込まれそうなほど美しい紅玉の瞳から、視線を逸らせない。

 ドキドキと、心臓が控えめに自己主張を始める。

「……貴族の娘が、こんな場所で何をしている。――親に、奴隷に唾を吐きかけてこいとでも言われたのか?」

「奴隷――……」

 言葉を思わず反芻し、不愉快そうに眉根を寄せる男をもう一度しっかりと眺めた。

 白髪と見間違うほど、透き通ったシルバーグレーの短髪に、帝国人らしい褐色の肌。だらり、とだらしなく投げ出された両手にも、両足にも、重く冷たい鎖付の枷がはめられている。

(枷で自由を奪われた上に、頬に”奴隷紋”――剣闘奴隷、よね……)

 皇族と決して接点を持つことなどない奴隷の特徴は、書物で読んだことがあるだけだ。ミレニアは、過去に読んだ本の記述を脳裏に思い描く。

 通常、左の上腕に刻印される奴隷の焼き印だが、ギュンターの施策で剣闘奴隷が前線に配備される仕組みが出来上がってから、剣闘奴隷は上腕に加えて左の頬にも焼き印を入れられる決まりとなった。前線で、混乱の最中でも正規の兵士と奴隷とを一目で区別するためだという。

 故に、仮に貴族に買われて奴隷の身分から解放されたとしても、剣闘奴隷の社会的地位は国家最下層となる。労働奴隷や性奴隷は、服でその奴隷紋を隠すことで過去を隠すことが出来るが、頬に一生消えぬ焼き印を入れられた剣闘奴隷だけは、たとえ奴隷小屋から出る奇跡を得たとしても、生涯その過去を消すことは出来ぬからだ。

「何だ。奴隷を見るのは初めてか?お嬢サン」

 ふっ……と頬に刻まれた奴隷紋が微かにゆがみ、皮肉気に紅玉の瞳が眇められる。ミレニアの身に着けている上等な衣服から、どう少なく見積もっても、最上位の貴族階級だと判断したのだろう。

「お前、名前は何と言うの」

 男の揶揄に付き合うことなく、鉄格子に向けて凛とした声が響く。

 いくら上流貴族の娘とはいえ、僅か十歳の少女とは思えぬ尊大な物言いに、ぱちり、と意外そうに紅玉の瞳が瞬いた。

「フッ……」

「何よ。何がおかしいの、お前」

「いや――随分と世間知らずなお嬢さんだと呆れただけだ」

「な――」

 嘲笑と共に投げられた言葉に、ミレニアの頬に赤みが刺す。

 くっ……と喉の奥で一つ笑いを漏らした後、昏い影を落とした瞳のまま、男は言葉を紡いだ。

「まさか、奴隷に名前があるとでも?」

「ぇ――――」

 翡翠の瞳が驚きに瞬かれるのと――

「っ……姫!!!!」

「!」

 慌てた声が飛び、武装した兵士が全力で駆けてくるのは、同時だった。

「――――姫……?」

 ぽつり、と、怪訝そうに檻の中の奴隷が口の中で呟く。一瞬で駆け寄った兵士は、ザッとミレニアを背に庇うようにして檻で座ったまま見上げる男に向き直った。

「貴様っ……!!!奴隷ごときが、ミレニア様に何たる不敬っ……!何ぞ危害を加えるつもりか――!?」

 ズラッと抜いた長剣を構え、蒼い顔で激昂する。

「フッ……檻の中で枷を嵌められた男相手に、ずいぶんと臆病な奴だな」

「貴様――!」

「おやめなさい!」

 嘲笑と共に呟かれた挑発に乗り、ギリッ……と奥歯を噛みしめた兵士を、ミレニアは一喝する。

「剣を納めなさい!」

「なりません、姫!神に等しい一族を前に、下賤な輩が、その身を視界に収め、言葉を投げるなど――っ……今すぐ四肢と額を地に擦りつけよ!さすれば、その目を潰し、舌を引き抜くだけで許してやろう……!」

「お前!」

 ミレニアが、さぁっと顔を青ざめさせて兵士を制止しようと手を伸ばすと、バタバタと複数の足音が近づいてきた。

「ミレニア様!」

「姫様!」

 振り返ると、どの兵士も皆、顔が真っ白に近いほどに血の気を引かせていた。ミレニアに何かあれば、脅しでも何でもなく、ギュンターは彼らの首を残らず刎ねて今日中にその全てを城門へと晒すことだろう。誰もがミレニアの無事を確認して心からの安堵を漏らすと同時に、護衛の兵が剣を抜き放って何者かと対峙している光景に、皇女の身に何かとんでもない危機が迫っていると悟り、さらに顔を青ざめさせた。

「これはこれは……ずいぶん賑やかなことで」

 くっ……と檻の中の男は瞼を伏せて喉の奥で低く嗤う。

(ぁ――……瞳が……)

 髪と同じ色の長い睫毛が紅玉の光を覆い隠してしまったことに、ミレニアの胸がきゅっと小さな音を立てた。

 ――何故かはわからない。

 あの、美しい紅玉の瞳を――ずっと、ずっと、永遠に見ていたい衝動に駆られたのだ。

「ミリィ――!」

「お父様!」

 響いた声に振り返ると、兵士と同じく蒼い顔をした父が、自ら剣を抜いて駆け寄ってくるところだった。

「無事だったか――!」

「お父様!お父様、皆の剣を納めさせて!私は無事だから、お願い!」

「何を――」

「私は何一つ、害されてなどいないから!お父様、お願い、あの男を処罰しないで――!」

 殺気立ったこの場を収められる唯一の存在に縋りつく。我儘などついぞ言ったことのなかった娘の必死の懇願に、ギュンターは怪訝に眉をひそめてから、チラリと檻の中へと視線を投げた。

「……剣闘奴隷か」

「…………」

 奴隷は、今度は口を開くことはなかった。瞼を上げてギュンターが身に着けるマントに描かれる文様を確認した後、何かを悟ったように嘆息してから、億劫そうにもう一度瞼を閉じる。

 名前すら与えられぬ奴隷でさえ、さすがにわかったのだろう。

 偉大なる帝国旗に描かれているのと同じ文様を身に着け、背負うことを許されたその存在が、いかなる者であるのか、ということを。

「覚悟は出来ているか」

 瞳を閉じて抵抗の意思を見せない奴隷に向かって放たれた、ぞくり、と背筋を寒くする低い父の声音に、さぁっとミレニアは青ざめた。

「お父様っ……!お願い、お願い!この男を殺さないで!」

「ミリィ……」

 今にも泣きだしそうな顔で必死に懇願する少女に、困惑したようにギュンターは口の中で呟く。

「――――……」

 ギュンターは、しばし沈黙して何かを考えた後、バサリとマントをひるがえし、ミレニアの小柄な身体を腕に収めるようにしながら踵を返した。

「私が唯一至高の宝と愛する、可愛い愛娘の、生まれて初めての我儘だ。今回限り、不問に処す。――二度と、その穢れた身で我ら一族の剣の届く距離に近づくな。次はない」

「……偉大なる皇帝陛下は、寛大なお心をお持ちのようで」

 ぼそり、と呟かれた声は、虚ろに響いた。

「っ……!」

 無理矢理身体を抱えるようにして連れていかれながら、ミレニアは息を詰めて遠ざかっていく檻を振り返る。

「お前っ……!」

 名前がない、という男に呼びかける言葉は、これしかわからない。

 ミレニアは、足がもつれて転びそうになりながら、必死に声を上げた。

「私の名はミレニア!ミレニアよ!覚えておきなさいっ……!」

「――――……」

 遠ざかる檻の中は、もう見えない。

 返事が返ってくることもあるはずがないその鉄格子に向かって、それでもミレニアは、何度も振り返り続けたのだった。


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